データ・シート(産業施設/造船所・港湾施設)1.             

施設名称 小菅修船場跡 旧施設名称 小菅修船場(そろばん・ドック)
現所在地 長崎県長崎市小菅町下部 旧所在地 長崎戸町村小菅
電話番号


小菅修船場巻上げ機小屋
着工時期 1867(慶応3)年
竣工時期 明治元年
改築時期
設計者名 不詳
施工者名 岩瀬公圃(オランダ通詞、五代の上海
密航を支援、長崎製鉄所の運営にも関係している)
構 造 煉瓦造平屋建て
様 式
面 積 83.2u(建築面積)
指 定 国指定史跡(昭和11年7月)
国指定重要史跡(昭和44年4月)
利用状況 保存公開
交 通 JR長崎駅より長崎バス30系統
戸町経由小菅町下車徒歩3分

T.沿  革
  薩摩藩は、1865(元治2)年、新納久修(視察団総裁)、五代才助(後に友厚、同書記)、松木弘安など4名の視察者と15名の留学生を欧州に派遣している。この欧州派遣は五代の上申書に基づくものであったが、五代は1862(文久2)年に藩命により上海に渡航しドイツ汽船(のち天佑丸と命名)を購入・回航した交易の経験や1863年の薩英戦争での圧倒的な軍事力の差を体験し、薩摩藩の開国貿易と海外先進技術の習得の必要性及び軍事力の強化を提案していた。欧州視察中五代は大量の武器や紡績機械などの機械を買い付け、日本に送った外、フランス人コント・デ・モンブランと合弁の貿易商社の設立仮契約(フローティング・ドック計画も含まれていた)を結んで帰国している(貿易商社は実現するまでに至らなかった)。
   五代が帰国した時には、薩摩藩家老の小松帯刀と英商グラバーとの間で小菅修船場計画が進み、若野屋良助の名義で幕府の認可を得、英国アレキサンダー・ホール社に機材が発注されていた。この計画では薩摩藩が長崎戸町の内小菅の土地を確保し、薩摩藩とグラバー各25%、アレキサンダー・ホール社が50%を出資し、スリップ・ドックを建設するものであった。五代は修船場計画の責任者に任命され、五代の腹心であった岩瀬公圃が現場監督となり、内小菅の溺れ谷と呼ばれる細長い入江を掘削して間口8m、奥行33mの船渠と岸壁が造成され、最奥部に煉瓦造りの巻上げ機小屋などが建てられ、英国より送られてきたボイラー型蒸気機関や巻き上げ用の歯車が据え付けられて,明治元年12月に竣工した。この修船場は、“そろばんドック”と呼ばれるように船渠に敷設されたレールに車輪の付いた船台をソロバンのように並べ陸上に船舶を引き上げ船舶を修理、建造するものであった。
 ところで、徳川幕府は幕藩体制を強化するために1635(寛永5)年、貿易を長崎の出島に限り、海外渡航を禁止し、大型船の建造を禁止していたが、19世紀に入り、日本近海にイギリス、ロシア、アメリカなどの外国船が頻繁に出没するようになり、1853(嘉永6)年にはアメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる4隻の黒船が幕府のお膝元である浦賀に来航し開国を強く迫った。ここに来て幕府は、国防上の観点から1854(安政元)年に大型船の建造禁止令を解き、各藩は自由に大型船の建造や買い付けが可能となった。幕府は、1854年に今まで交易を続けてきたオランダに海軍術伝習の援助を求め、軍艦並びに鎔鉄所創設に必要な機械、工具その他付属品を発注し、1855年には長崎海軍伝習所が開設、1857(安政4)年には発注していた軍艦(咸臨丸)や機械、工具類が長崎に到着し、同年10月に長崎飽ノ浦に鉄所建設工事が開始された。1861(文久元)年鉄所は長崎製鉄所と命名され、わが国最初の近代的な造船所が完成した。この時期幕府や各藩は、尊王攘夷や倒幕あるいは公武合体論などの複雑な政治状況の中で、軍艦の購入を中心とした軍事力の増強に力を入れており、1867(慶應3)年頃の幕府や各藩の軍艦や輸送船などの保有量は幕府が40数隻、諸藩は90数隻(薩摩藩19隻、長州藩7隻、土佐藩8隻、肥前・佐賀藩9隻など)にのぼっていた。しかしながら各藩は修船場をもたなかったため、折角購入した船も就航できないものも多く、小菅修船場の建設は時宜にかなっていた。
 維新後明治新政府は、幕府が保有していた長崎製鉄所を管轄下に置くと共に、明治2年竣工間もない小菅修船場も、管理人となっていたグラバーから洋銀12万ドル(薩摩藩の取り分は土地代8,680ドル、売却益の25%の11,219.5ドル)で買収し、長崎製鉄所の所管とした。明治4年長崎製鉄所は工部省に移譲され、長崎造船所と改称された。明治5年には明治天皇が長崎造船所と共に1,000トン・クラスの船舶が揚架されていた小菅修船場にも行幸された。当時の小菅修船場の船舶修理のための揚架隻数は明治2年=30隻、同3年=24隻、同4年=16隻、同5年=15隻、同623隻、同7年=26隻と続き、同16年の8隻まで231隻を数えた。また、修理の外木造汽船の向陽丸(70トン)、小菅丸(103トン)、木造曳船(192トン)などの建造も行っており活況を呈していた。 
    明治17年、政府は官営工場の払下げ方針の下に、長崎造船所と小菅修船場を岩崎弥太郎に貸与し、三菱社長崎造船所として運営されていたが(岩崎弥太郎は明治18年逝去、岩崎弥之助社長に就任)、明治20年全面的に払下げが行われ、翌年三菱造船所と改称された。これより先、工部省は明治12年に飽ノ浦の南側にある立神に船渠を完成させ、造船能力を増大させていたが、これを受けた三菱社も以後飽ノ浦〜立神地区への投資を積極的に行ったため、対岸にあり立地条件に恵まれない小菅修船場の増強はほとんど行われなかった。このため、小菅修船場の業務は徐々に先細りとなり、大正9年には廃止状態になった。昭和に入り、小菅修船場は洋式造船所のわが国における発祥の地として保存すべきという声がたかまり、昭和11年、史蹟名勝天然記念物保存法により一部が史跡地に指定された。昭和12年短艇製作工場として復活、その後、戦時中には軍用艦艇、魚雷艇の建造、戦後には漁船の建造や修理に利用されたが、昭和28年に完全に閉鎖された。また、昭和444月国指定の重要史跡として再指定された。

U.建築詳細                       
1.構 造                                                                                  
       煉瓦造平屋建て切妻屋根瓦葺き。

2.平面計画
       立地は、長崎湾の東側、小菅町下郷にあり、周囲が丘に囲まれ、溺れ谷と呼ばれる細長い入江を利用して船渠が造られている。船渠は間口8m、奥行き33mで、両側は石積みの岸壁が造成され、入江内の海底から陸上にかけてレールが敷設され、最奥部に煉瓦造の巻上げ機小屋がある。当時は北東側の海沿いのわずかな平地に鍛冶場、人足小屋、大工小屋、木挽小屋、材木小屋、造船小屋などがあった。
   現存する巻上げ機小屋は、間口9m、奥行き9.17mで、内部は仕切りがない。内部は大まかに3分割され、中央の区画はやや右側に寄った所に掘り込みを設けて、大小の歯車を並べた巻上機構が設置され、その奥に蒸気機関が置かれている。右側の区画は煉瓦積みの上に鉄製の筒型ボイラーが寝かせて置かれ前面に作業スペースがある。左側の区画は、設備は特になく、道具置場あるいは作業エリアと思われる。
 
                                     

                                小菅修船場船渠跡

                          (明治元年に完成した石積みの岸壁)

3.立面計画
       海に面した北西側の正面は両端に80p幅の煉瓦造りの袖壁が立てられ、袖壁と袖壁の間は出入口や窓が付けられた木造の壁(現在は下見板張り、創建時は不明)で、中間に2本の鉄柱を立てて3分割されている。中央の区画は左側に片開きの板戸を付けた出入口があり、右側は傾斜を付けた下見板張りの外壁が張られている。壁面上部は幅の広い大きな明り取りの窓が付けられている。右側の区画の下部は下見板張りの腰壁の上に引き違いのガラス窓が付けられ、上部には中央よりやや幅の狭い窓がはめ込まれている。左側の区画は上部に右側の区画と同じ大きさの明り取りの窓がある外は下見板張りの壁となっている。創業初期の写真(『操業百年の長崎造船所』p.113)をみると、上部3つの明り取りの窓は現状とほぼ同じであるが、下部は後年かなり手を加えられているようである。中央の区画は船台を引くワイヤーが張られる所で、全面が開口部で、大きな扉が付けられていたようである。また、左右の区画には外開きの板戸をつけた出入口があったようである。
    正面以外の3方の面は、背面と向って右側の壁面中央に開口部がある外は全面煉瓦の躯体である。

4.屋根形式
        北東側と南西側に妻壁を立てた切妻屋根で、瓦葺きである。小屋組はイギリスより輸入された鉄材で組まれている。合掌部や敷桁はT型鋳鉄、母屋はL型鋳鉄、キングポスト・トラス部は鋳鉄棒が使われ、これらの鉄材どうしの接合部は溶接技術が確立していなかったため、つば付きピンと楔あるいは鋲やボルト・ナットによって連結されている。わが国における煉瓦造りの建物の小屋組みは大部分が木造で、鉄材が本格的に使われ始めたのは明治末になってからのことで、この様な小屋組みは現存する建物では他に例を見ない。鉄材の輸入先であるイギリスでは18世紀末の建物の建築にこの種の小屋組みが盛んに利用されており、こ建物は先進的な技術が採用されていた事になるが、その後の建築技術に影響を与えるほどのインパクトは持ち合わせていなかった。

5.外 壁
       この建物の躯体は煉瓦造りで、煉瓦の積み方はフランス積みである。使われた煉瓦は、通称“こんにゃく煉瓦”と呼ばれた煉瓦で、218×100×40oの寸法で、現在の規格に比して少し薄い。1861(文久元)年に竣工した長崎製鉄所を建設した際に設置された煉瓦の焼成炉から生産された煉瓦を使っている。長崎製鉄所に建てられた建物は現在残っていないため、この巻上げ機小屋は、現存する日本最古の煉瓦造りの建物である。
6.開口部
(1)出入口
 現在の出入口は、正面の木造壁面の中央やや左寄りに片開きの板戸が付けられている所にある。操業時にはこの中央区画は、船舶を載せた架台を引くワイヤーが張られていた所で、創業初期の写真(『操業百年の長崎造船所』p.113)から見て幅の広い開口部があり、何らかの扉が付けられていたが、詳細は不明。また、現在左側の区画の壁面下部には開口部はなく、右側の区画には腰壁から上に引き違いのガラス窓が付けられているが、創業時この部分には作業場とボーラー場に出入する外開きの板戸が付けた出入口があったと推定されている(『日本科学技術史大系』p.64 東京大学建築学科松村貞次郎氏(当時助教授)の昭和33年の実地調査による)。
(2)
 現在は、3つの各区画の上部に大きな嵌め殺しのガラス窓(中央の窓は両脇より幅が広い)が付けられており、操業初期も、前掲の写真から見て、同じような窓が付けられていたと推定される。正面以外の3方向の壁面には背面と向って右側の壁面に開口部があり、現在後者の開口部には引き違いのガラス窓が付けられているが、創建時はどのような窓が付けられていたかは不明。   

7.内部構成                            
        内壁は特に化粧は施されず、煉瓦が剥き出しのままである。天井も張られず、小屋組みが眺められる。室内中央向ってやや右側に掘り込みを設けて、大小の歯車を並べた巻上機構が設置され、その奥に蒸気機関が置かれている。右側の区画は煉瓦積みの上に鉄製の筒型ボイラーが寝かせて置かれている。ボイラーと蒸気機関の間には配管が繋がれ、蒸気が供給されている。

                           小菅修船場の機械装置

                        (歯車からなる巻上げ機構、
                                                   ボイラー、蒸気機関などがある)

V.建物の利用状況
  国指定の史跡地として保存され、一般に公開されている。大浦天主堂やグラバー園などの観光地から離れいるため、訪れる人も少なくひっそりとたたずんでいる。              

W.参考資料
 『日本科学技術史大系 17巻 建築技術』(日本科学史学界編集)第一法規出版株式会社発行 1964.7.
   『操業百年の長崎造船所』(三菱造船株式会社編集発行)昭和3210
 『明治維新とイギリス商人―トマス・グラバーの生涯―』(杉山伸也著)岩波新書 1993.7.
 『長崎県の地名』日本歴史地名大系43(有限会社平凡社地方資料センター編集)2001.10.24.
 『薩摩藩英国留学生』(犬塚孝明著)中公新書 昭和4910
 『薩摩藩最後の城代家老・小松帯刀(概要)』(小松帯刀研究会発行)平成111

                                             ―了―

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