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歌舞伎義太夫の世界




つねひごろ


2001年
「改まる」ということ(0602)/箸が転んでも…(0608)/散歩 北の丸公園(0609)/宗之助丈との対談(0610)/夢の稽古(0611)/髪型(0615)/客席の化粧(0620)顔文字と歌括弧(0621)/鳴かぬ蛍の身を焦がす(0622)/名古屋の一夜(0624)/明珍風鈴(0709)/橘屋の旦那(0710)/お扇子(0713)/祇園祭(0721)/梅干(0726)/宿 ニューさがみや(0729)/歯磨きのチューブ(0801)/禁断の果実(0805)/喰っちゃあ寝…(0805)/散歩 谷中の雨(0817)/朝顔(0818)/好奇心(0824)/重要無形文化財保持者…(0911)/レディファースト(0921)/散歩 千鳥ヶ淵(0925)/落語 『東西三人会』(1003)/力まかせ(1012)/なぞる(1020)/豆本『二月堂』(1022)/やるせない夜景(1105)/京都紅葉狩(1113)/うれしうまし(1114)/追悼 今藤長之師(1114)/絶景兼六園(1118)/六義園名残紅葉(1128)/駒込時代(1129)/お酉様(1202)/追悼 鶴澤燕三師(1203)/ウイルスメール(1204)/おそば(1208)/勝手口(1215)/師恩 竹本藤太夫師(1222)/歳末(1231)

2002年はこちら
歳末(12/31)

 わが家の年越しは年年歳歳、いたしますことが簡略になってまいります。

 芝居の稽古が29日にすみまして、30日には家族で分担して大掃除のようなことをいたしますが、私など少しいたしますとすぐに缶ビール休憩となりまして、いいかげんなものであります。京都のお客様が毎年お送りくださいます京都の立派な注連縄飾りを玄関のドアに掛け、松の枝に奉書を巻き、紅白の水引で結びました門松を立てますと、外見だけは迎正の態となります。毎年気をつけておりますのは、この時期、芝居も休日、一年も終わりということでホッといたしますのか、風邪を引きやすく、あまり気を緩めないようにいたします。

 暮れには有難いことに皆様からお心に掛けていただき、いろいろとお送りいただきますが、今年は鯛とマグロがいっときにまいりまして、あわてました。宅の冷凍冷蔵庫はわりに大きい方なのですが、とても入りきる量ではなく、一計を案じ、いつも家族でまいります近所のお鮨屋さんにお願いして料理していただきました。冷凍で頂戴いたしましたマグロの柵はなんですか戻すコツがございますようで、さすがプロのわざ、きれいな色に戻って盛り付けられました。海水と同じ塩水につけましてから、ペーパータオルでくるんで戻すのだそうです。一部を「ヅケ」にしていただきましたが、これがまたおいしい。漬け込むたれは、醤油5・みりん1、そして水1だそうで、1時間半くらいが適当とのこと。鯛は天然物で、尾を見ましてきれいな形のものが天然物、ちょっとくだびれているのは養殖物だそうで、顔つきも違うそうです。食べた食べた…。しあわせな歳末でありました。

 今年を振り返ってみますと、12ヶ月毎月本公演に出演したことになります。8月は歌舞伎座の改修工事で打ち日が短こうございましたが、あとはよく勤めたと思います。

 1月=国立大劇場『文治住家』と歌舞伎座『実盛物語(前)』『団子売(シン)』の掛持ち。『文治住家』は文楽の曲からの歌舞伎化で、気を遣いました。また毎日の劇場掛持ちやなにかでくたびれましたのか、新年早々の12日から3日間の病気休演は申し訳ないことでした。尿管結石の激痛でとてもおなかに力など入らず、ご見物・代役・ご関係の皆様にご迷惑をおかけしたことを遺憾に思います。その後は安定いたしておりますが、やはり、不規則な生活やストレスなどで再発の可能性もございますそうで、生活に注意いたしておりますせいか、風邪を引くこともなく、よい按配であります。

 2月=松竹座『車曳』。病後の地方公演、しかも他に義太夫狂言は出ておりませんでしたので、なにかございましたときには心配でしたが、精密検査の結果、おそらく大丈夫だろうとのことで、まいることにいたしました。16日に正月激痛の元となった結石が排出されました。その辺のことは澤村宗之助丈のHPでおしゃべりいたしておりますので、ご一読くださいませ。

 3月=歌舞伎座『金閣寺:爪先鼠』。ご見物になられた辛口の方から、「ひさびさに葵さんのいいのを聞かせてもらったよ」とおっしゃっていただきましたが、まずは体調もよろしかったように思います。

 4月=松竹座『石切梶原:星合寺』。私に廻ってくるとは思っておりませんでしたので、役が当たりましたときにはあわてました。3鴈治郎丈は「イキさえつんでいたら、見計らいなんて生ぬるくなるから…」とおっしゃるとおり、毎日新鮮な舞台でありました。文楽の9綱大夫師と桜ノ宮のお花見も良い思い出であります。

 5月=松竹座『怪談敷島譚:責場』。作曲をさせていただきました。子役さんの芸熱心なのに感心…。ふた月続きの松竹座出演は珍しいことです。

 6月=国立大劇場『引窓』。7月=歌舞伎座『俊寛』『大炊之助館:奥庭』。8月=歌舞伎座『化競丑満鐘』。9月=歌舞伎座『紅葉狩(シン)』。10月=歌舞伎座『先代萩:御殿まま炊き』。11月=全国公演『鮨屋』。12月=歌舞伎座『吃又』につきましては、『今月のお役』をご覧下さいませ。

 私なりに毎日毎日の舞台をたいせつに勤めさせていただきました。力不足のこともございましたが、皆様に歌舞伎のために少しでもお役に立てているとお思いいただけますれば、何よりの一年でございます。来年も相変わりませず、歌舞伎をごひいきにお願い申し上げます。

 ではこれから、年越しそばをいただいて、2002年を迎えることにいたします。皆々様にもご機嫌よろしうご越年のほどを。
師恩 竹本藤太夫師(12/22)

 冬至の本日、お世話になりました竹本藤太夫師の祥月命日であります。

 私は扇太夫師に前名の葵太夫を頂戴いたしましたが、きちんとした師弟関係は師匠の方でお考えにならず、なんとなく「身内」のような感覚でお世話になっておりました。そこで、そのつどいろいろな師匠方にご指導をいただいておりましたが、3猿之助丈のお芝居で起用していただくようになりましてから、当時、3猿之助丈の方の責任者であられた藤太夫師に、ずいぶんとお世話になりました。

 藤太夫師はお若い頃、「天下茶屋の師匠」と呼ばれた、文楽の6竹本土佐大夫師のお弟子で「土佐栄大夫」と名乗られ、競争激しい当時の文楽で、『妹背山婦女庭訓:道行恋苧環』の橘姫を語るところまで出世なさいましたが、戦争にとられてしまわれました。復員後は文楽に戻らず、佐世保でカメラ店を開業されておりましたが、事情で竹本に入られ、豊竹岡太夫師のご門弟となられまして、3猿之助丈の舞台に活躍なさいました。立ち声のお方で「ピーーーン」としたお声をご記憶のお客様もおいでと存じます。

 私がこの道を志しましたとき、なにしろ後継者不足でしたので、皆様よろこんでお迎えくださいましたのですが、ただおひとり、藤太夫師だけが、「この仕事は事業に失敗した私のような世捨人がやる仕事だから、あなたのように前途のある青年がやるものではない。まず大学まできちんと勉強しなさい、それから考えても遅くない」とご助言くださいました。しかし、私は高校卒業後すぐに入門いたしましたので、藤太夫師もしようがないなと思われたのでしょう。それからは丁寧にお稽古くださいました。

 こう申しますと失礼ですが、なにか、うまが合うというのでしょうか、ご一緒しておりましても打ち解けておりました。私は藤太夫師にいろいろお仕えしておりますのが、自分でもごく自然体で、「こうさせていただきたい、こうしたらよろこんでいただけるかしらん…」という感じでした。3猿之助丈の付人の京子さんに、「葵太夫さん、藤太夫さんに後姿がそっくりですね」とか、長唄の方に「巡業中いつも一緒で親子かと思った」と言われたりいたしました。私が藤太夫師のお手伝いをしている姿がほのぼのしていたらしいのです。巡業中、バス移動のときなど、偉いお方は二人がけの席におひとりで座られるのですが、いつも私が脇に座らせていただき、芸の話、戦争中の話などお聞かせくださいました。藤太夫師も話好き、私も話好きでちょうどよかったのでしょう。大島へ帰省いたしますときには、熱海にお住まいの藤太夫師のお宅にご挨拶に寄ってから帰っておりましが、大風呂がお好きな藤太夫師は、港のそばの後楽園に入りに行くから一緒に行こうと、お見送りいただいたことがございました。

 いわゆる「芸人」とは違った気質をお持ちで、会社感覚と申しますか、「組織の運営」などと、普通われわれの楽屋であまり出ない単語がお話によく出まして、当時あまり皆が関心を持たなかった、「竹本協会」発足のことなど熱意を持ってお話しになられました。ただいま私方に竹本協会事務局がございまして、皆様のお手伝いをさせていただいておりますのも、藤太夫師の影響かなと思います。

 お稽古は懇切丁寧で、なんべんでもやってくださいました。『高野物狂』『かいな』『鳥居前』『八幡山崎』『橘姫』…。なかでも橘姫はご自分の文楽時代に思い出のお役で、とくに詳しくお稽古いただきました。ほかにも、基礎が不足している若手には、早くから芝居においでになり、役以外の「入門編」のお稽古をなさいました。

 ある太夫さんが、「わしがこの次、竹本の天下を取るから、君も協力して欲しい」とおっしゃったので、「たかが30人にも満たない中で何が天下だ…」と笑っておいででした。文楽時代の6土佐大夫師、また歌舞伎の岡太夫師、ご両人共に頭脳明晰、人格識見備わったお方だったそうで、お手本になさっておいででした。そして、「どんな方にもお世話になるんだから、きちんと接しなければいけないよ」とおっしゃっておいででした。ですから、大道具さんや口番さんに藤太夫師は人気がありました。

 この世界にねたみや中傷はいつの世にもございますようですが、入座されたときに楽屋に置いてあった舞台衣裳が一式盗まれたり、ずいぶんといろいろと言われたり、ご苦労なさったようです。「だんだんと上になってくるにしたがって孤独になるけど、それは仕方がない。世間というとこの芝居の中だけという人間ではつまらんよ。どんな大会社の社長と並んでも自然にふるまえるような人にならないと…。ときん紳士ではいけない」

 胃の開腹手術をなさってからもご立派に舞台を勤めておいででしたが、ちょうど5時蔵丈御襲名の『妹背山婦女庭訓:入鹿館金殿』(1981/6)から声に不調が起きました。翌月、3猿之助丈の『平家女護島:俊寛』のとき耳鼻咽喉科で診てもらわれましたら、精密検査を要すとのことで東大病院に通院。胸部の大動脈瘤が発見されました。このとき、3猿之助丈一行の訪欧公演の出演が予定されておりましたのですが、とりやめとなり急遽私が代役で参加いたしました事情は、「今月のお役(2001/7)」で申し上げました。

 帰国いたしまして、東大病院に入院中の藤太夫師にご報告に上がりますと、たいへんよろこんでいただきました。しかし、動脈瘤はやっかいな部位にできているそうで、手術が難しい…。声帯を害して切らねばならないとの予見でしたので、「いざとなったら浪曲の広澤瓢右衛門ばりでいくさ」と笑っておいででした。

 12月22日に手術。しかし血管がうまくつながらずご逝去。享年63歳。くしくも岡太夫師の祥月命日と同じ日でした。

 私は国立劇場開場15周年の『菅原伝授手習鑑』に出演いたしておりました。「車曳」を勤め、楽屋で扇太夫師に「ありがとうございました」とご挨拶を申し上げると、乾いたお声で、「藤さん、死んだってさ…」。目先が真っ暗になりました。まさかお亡くなりになるとは思わなかった…。前夜もお見舞にうかがい「なあに、手術でいけなかったら、先生にちょんと切ってもらえばオダブツさ」とお元気に笑っておいででしたのに…。気を取り直し、次の幕の「佐太村(前)」の床に座りましたが、このときのお三味線が鶴澤絃二郎師で、藤太夫師の相三味線だった師匠です。もう勤めておりましてもたまらなくなり、きっかけの合間に泣きじゃくるわ、~\白太夫、唾を呑込んで奥へ行く」など声になりません。下りてきてから絃二郎師が、「葵さん、おたくもつらいだろうが、気を落としちゃいけませんよ…」と慰めてくださいました。

 お世話になった身といたしましては、かかる場合、きちんとお見送りをせねばいけない。当日はご遺骸に対面できない状況でしたので、まず身ぎれいにしておかねばと、銭湯にまいりました。ちょうど冬至とあって、大きな湯船にユズが袋に入れていくつも浮いております。つかりながら、短い間ながらたいへんにお世話になったことがつぎつぎに思い出され、湯船で泣き出してしまいました。

 没後20年…。ただいま、ご遺族のご厚意で藤太夫師の床本はすべて頂戴し、お名前も預からせていただいております。「圓満院釈勝響居士」。浄土真宗をご信仰でしたので、京都の西大谷、親鸞上人御廟所のそばに分骨が納められております。京都にまいりますと、お参りいたしますが、いつも「信ちゃん、慢心したらいかんよ」とおだやかな藤太夫師のお声が聞こえてまいります。
勝手口(12/15)

 昨14日、あるお集まりにお招きいただき、作家の関容子先生との対談で、歌舞伎義太夫のお話を申し上げてまいりました。主催はお洋服のお店で、お得意様ばかり50名様ほどでしょうか。昼食の後、私共のお話がございまして、桂文楽師が落語を一席うかがうという番組であります。会場は、名にしおう新橋の金田中(かねたなか)さんでした。

 金田中さんと申しますと、政財界・文化人のそうそうたる皆様がおいでになるところで、私のようなものは、これまで、また今後もご縁があるか?というような料亭であります。新橋演舞場の向かいにございますが、立派な数寄屋造りの外観で、シンプルな玄関先はちょっと滅多なものが寄り付けない威厳がございます。以前は昔ながらの建築だったそうですが、火事で焼失。「最後の江戸の火事」と評されたとのことです。以前、『妹背山婦女庭訓:吉野川』が出ましたときに、7芝翫丈が、「あたしがね、あにさん(6歌右衛門丈)の定高で雛鳥をやったとき、ロビー(歌舞伎座)での稽古で~\かささぎの橋はないかと…ってクドキのところでウーウー消防車が通るの。あんまりすごいんでなにごとだろうと思ったら、それが金田中の火事」とおっしゃっておいででした。

 さて、その金田中さんに仕事ではありますが、うかがうことになり、ふと思い浮かんだことがございました。それは『わが師、桂文楽』(柳家小満ん著・平凡社刊)に「お座敷」という章があり、「料亭では玄関脇の入口から入りお帳場の女将にちょっと挨拶をしてから…」と書かれていたことです。私共はまず料亭で仕事ということはございませんから、「なるほど、噺家さんはこういうお仕事のときは楽屋口ならぬ勝手口からお入りになるんだな…」と知りました。それが今回、自分自身が出演者として料亭にうかがうわけですから、その通りに立派な玄関の右脇にございます勝手口と思われる戸を恐る恐る開けて「ごめんください…」と入ってまいりました。「あら、そんなこちらからでなく、玄関からお入りいただいたらよろしいのに…」とおっしゃっていただきましたが、お声の感じから正解だったようでほっといたしました。

 関先生との対談がすみまして、控室でこの勝手口のお話を申し上げたりいたしておりますうちに、当代文楽師が演芸を終えて戻られました。初対面のご挨拶をいたしましてから、関先生が「こちらは先代さんがそうなさっていたというのを本でお読みになって、そのとおりなさったそうですよ」と文楽師におっしゃると、「あたしたちはみんなそうなんですよ。昔はきびしくてね。われわれふぜいが玄関からうっかり入ろうものなら下足番のおじさんに叱られます。塩まくぞ!なんてね。それくらいけじめがきちんとしていました。あたしも師匠(8文楽師)のお供でいろんな料亭さんを廻りましたから勝手知ったる…でね。文楽を襲名したときにごひいきのお客様が、お祝いに新喜楽さんでごちそうしてくれるっていうんでね、いつものように勝手口からうかがったんですよ。そうしたら今日はお客さんなんだからって玄関から通されました…」とのことでした。

 楽しんでいただこうとする芸人、楽しもうというお客様、そのけじめをつける入口…。ただいまふと思い出しました。9福助丈が八重垣姫を6歌右衛門丈のご自宅に教わりにいらしたとき、私と三味線弾きさんには玄関から入るようおっしゃり、ご自分とお供の芝喜松丈は勝手口にお回りになりました。「謙虚」という言葉が薄らいでいる昨今、いろいろと考えさせられる勝手口でありました。
おそば(12/8)

 この季節、おそば屋さんの店頭には「新そば」という貼紙が目につきます。

 私が幼い時分、よく祖母が~\信州(しんしゅ)信濃の新そばよりも、わたしゃ信ちゃんの傍が良い」と子守唄のように言っていたことを憶えております。都々逸の~\遠く離れて気をもむよりも、わたしゃあなたの傍が良い」の替歌なのでしょうが、私の名が信吾ですので「しん」がたくさん入って、語呂が面白いと思います。ちなみに、祖母の名も「シン」であります。京都のいろまちでは、深夜におそばの出前が取れるお店があり、お酒のあとちょっと食べようかということがございます。若い舞妓ちゃん(若いに決まっておりますが…)が「うちは…」と遠慮しますと、おねえさん芸妓が「おそば外れはあかんのえ」と勧めます。「お客様のお傍を離れたらいけない」というゲン(縁起)かつぎであります。

 おそばは私の好物のひとつで、よく頂戴いたします。家でも乾麺をゆがき、ざるそば仕立てでいただきますし、出先でもよくのれんをくぐります。東京風の濃い味付けのお汁が好きで、あらかたいただいてしまいます。栄養士の方がご覧になったら笛を吹かれそうです。どうかしますと立食いにも入りますが、なかなかおいしいお店もあるものです。以前は立食いそばと申しますと、ずいぶん質の悪い感じがいたしまして、事実、私が東京に出てまいりました時分にはずいぶんとお粗末で、これは人の食べるものかしらん…というおそばでしたが、このごろは、なかなかどういたしましてあなどれません。また、お店も衛生的で、仕事の合間に出先で急いでいただくときなど、重宝いたします。

 お店によりましては見識で、わさびが葉のついたまま出てきまして、そばが出るまでにご自分であたってください…というご趣向もございますが、私は好みません。めんどうなのです。上方落語の笑福亭松喬師が、ご自作のおそばパーティーをなさいますと、よく寄せていただきます。お弟子さんがたっぷりあたってくださったわさびをそば猪口のお汁に入れず、おそばになすりつけてから、ちょっとお汁をつけていただくことを松喬師から奨められました。ちょうどお刺身をいただくときの要領です。これはわさびがちゃんとしているときに、実においしくいただけます。いちどお試しを。しかし、産地から粉を取り寄せ、気温の加減などを考えて打上げられたおそばは何もつけずにいただいても風味があり、おいしいものです。巡業などで信州にまいりますと、おそばの名店がいろいろございますようですが、おそばはおいしいが、お汁が口に合わないことがございます。良い悪いではなく、好き好きで勝手なものです。もっとも芸にもそれは申せますが…。お好みということでは、「カレーなんばん」もたいがいはうどんでいただきますが、亡くなられた義三郎師が「おそばでもおいしいよ」とおっしゃるので方々で試してみましたことがございます。なるほどおいしい。「松坂屋の永坂更科のがなかなかおいしかったです」と報告いたしますと、早速出かけられ「うん、葵君の言ったとおりうまかった」とよろこんでいただけました。義三郎師は深川っ子で、いつもおそば屋さんでは、「もり」か「ざる」なのですが、なぜかカレーなんばんもお好きでした。

 歌舞伎座の正面左側奥に『歌舞伎そば』がございます。食券をお求めになり、カウンターで供される式ですが、こちらの男性の店員さんの仕事振り(特に忙しいとき)は一見に値します。ご自身の体験から生み出されたのであろう「型」がございまして、見得こそいたしませんが、充分パフォーマンスとなっております。「かき揚げざる」がおいしく、なかなか量もございます。私共もときおり頂戴いたしますが、ちょうど揚げ物をなさっておいでのときにまいりますと臭いが衣服に付き、楽屋で「あっ、歌舞伎そばに行ってきましたね」とわかってしまいます。

 幕内の風習に「とちりそば」というものがございますが、当節、あまり聞きません。楽屋近くの喫茶店の「コーヒー券」がそれにとって代わっているようです。

 昔、東京ではおそばはかならず「おかわり」をしたものだそうで、一枚だけ食べて帰るのは「しみったれ」だったとうかがったことがございます。ですから、老舗と呼ばれるお店の「せいろ」などお話にならないくらい一枚の量が少ない…。これは「おかわり」を前提にした量であるとのことだそうです。量と申せば、盛岡の「わんこそば」。私も二十歳代の頃、挑戦したことがございました。たしか68杯くらいいただいたように記憶しております。

 今日は実はクール宅急便で、ご懇意のお方から信州の生そばが届き、これからゆがいていただこうという魂胆でございまして、それでおそばの話題とはなりました。
ウイルスメール(12/4)

 このところ、『ワーム』と称する、コンピューターウイルスが流行しております。

 私のところへも、感染なさった方がご存知ない間にウイルスの働きで勝手に送信された、「Re:(無題)」というメールが、このところ頻繁に届きます。その方面に詳しい知人が、「プレビューウインドウに表示しただけで勝手に自身で開封し感染する」と教えてくれましたので、プレビューウインドウは非表示にしてしまいました。送られてまいりますと、すぐに削除し、「削除済みアイテム」でさらに削除しております(私はアウトルック2000を使用いたしております)。ウイルス対策用のソフトも常駐させておりますが、いったい効いているのかどうかわかりません。

 PCに詳しい知人も、感染してしまったとのことで、なかなかあなどれません。感染いたしますと、「アドレス帳」にございますメールアドレスから無作為にウイルスメールを送信し、しかも、その記録を残さないというのですから、たちが悪い。かく申す私も「知らぬは本人ばかりなり」で既に感染して、思わぬメールを皆様にお送りいたしているのではと、にわかに心配になってまいりました。

 読者の皆様で、お便りを下さいましたお方には、なるべくお返事をいたすようにしておりまして、アドレスも当方に残っておりますが、もしも、私からそのようなメールがワームの機能で送られましたらば、速やかにご処理くださいますようお願い申し上げます。また、そのようなことがございましたら、ご一報賜りたく、お願い申し上げます。
追悼 鶴澤燕三師(12/3)

 文楽三味線の鶴澤燕三師が逝去なさいました。私は燕三師とはいささかご縁がございまして、感慨無量でございます。

 私が高校に入学いたしましたころ、同級生の女の子が『セブンティーン』という雑誌の切り抜きを持ってきてくれました。坊主頭の少年が三味線を稽古している写真が大きく載っておりました。それは、鶴澤燕三師のもとへ中学卒業と同時に正式に入門された、鶴澤燕太郎というお弟子さんの修業の様子を取り上げましたもので、当時、歌舞伎義太夫の太夫になりたいと志しておりました私には、やはりそういう世界に飛び込む同世代がいるのだと心強く思ったことでした。「燕太郎君に励ましのお便りを出そう」と住所も掲載されておりましたので、早速、自分の気持を綴ったものを送りました。ほどなく、お返事を頂戴いたしましたが、ご本人・お父様、そして燕三師とお三方から頂戴し、驚きました。掲載されていた宛先は燕三師のお宅であったのでした。ちなみに、その「燕太郎君」は、ただいま私共竹本の豊澤菊二郎氏であります。

 それから、東京公演の都度、拝見すると燕三師に感想をおたよりいたしましたが、すぐにコクヨの便箋に万年筆で克明にしたためられたお返事を頂戴いたしました。あるとき、「あなたの浄瑠璃の聴き方はお若いのに商売人の聴き方です、商売人になってみませんか」とお言葉をいただきました。そこで、実は歌舞伎の太夫を志していることを申し上げましたら、即座に「浄瑠璃を語りたいのなら文楽に入りなさい、私が世話をしますから」と言われ、息子さんのことでお話したいことがあるからと、父親まで呼ばれました。結果、私がどうしても歌舞伎の義太夫を語りたいということで、この道に入りましたが、数年しまして大阪の床屋さんでばったりご一緒いたしました。燕三師がおすませになられて、ご挨拶申し上げますと、「まあ、どうかしっかりやってください」とおっしゃっていただきました。「何年か文楽で修業して義太夫の基礎を身に付けてから歌舞伎に転向したらいいじゃないですか」とも言われておりましたが、文楽に行っておりましたらどうなっておりましたでしょうか…。

 燕三師の演奏はたいへん惹きつけられる音色で、子供心に『曾根崎心中:天満屋』など、うっとりして拝聴いたしました。床での態度もお品があり、三味線という楽器はこういうふうに扱うものかと思いました。また、お弾きになっていらっしゃらない間、棹に手をかけて息を詰めていらっしゃるご様子、弾ききってもしばらくはそのままの状態で構えておいでのご様子、床に出ておいでの時間はすべてお体が戯曲のために生きているような感じがいたしました。ふだんもなかなか厳格なお方だったらしく、いろいろなお話を耳にいたしておりますが、やはりそうして舞台に臨まれたからこそ、あのようなご立派な演奏をなされたのだと思います。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
お酉様(12/2)

 わが家では、浅草鷲(おおとり)神社の酉(とり)の市、早稲田の穴八幡神社の一陽来復(いちようらいふく)御守授与に参拝いたしますのが毎年の慣わしとなっております。

 11月30日、本年の三の酉に参詣いたしました。昔のお酉様はたいへん寒かったそうで、扇太夫師も「ぼくたちは角袖の襟を立てていったものだよ」とおっしゃってでした。しかし、私がお参りにうかがうようになりましてからは、あまり寒い記憶はございません。先日も暖かな晩でございました。

 人出はなかなかのもので、鳥居の前で昨年の熊手をお納めし、ご本殿の方へご参詣の皆様の波に漂いながら押されてまいります。我が家では、中ほど左側の『吉田』さんとおっしゃいますお店で、毎年縁起物の熊手を頂戴いたします。台帳に控えておいてくださいますので、うかがいますと既に江戸文字で名札が書いてあり、熊手の注連縄に差し込んでくださいます。こちらは歌舞伎・落語関係のごひいきが多く、7芝翫丈御一家、5勘九郎丈、皆様のお買い上げが飾られております。たいへん上品な江戸前の飾りで、私はこちらのものでないとお祀りする気がいたしません。ときおり、雑誌等で紹介されておいでですから、ご存知のお方もございましょう。景気よく三本締めをいたしまして、社務所で『かっこめ(こちらが公式の御守)』を受け、参拝の列に戻り、「立ち止まらないで下さい!」と連呼されるなか、お賽銭を投げ入れ、柏手を打ち、お参りいたします。本来はまず神前に参拝いたしまして、下向(げこう=参拝の帰り道)にお札や縁起物をいただいて帰るのでしょうが、なにしろ、「一方通行厳守」ですので、都合上順が逆になります。

 お酉様と浄瑠璃は何か接点はないかと考えてみました。思い当たりますのは、『良弁杉由来:二月堂』の良弁僧正がおちいさいころ、鷲にさらわれるということ。鷲は兎・狸・狐などを爪で捕らえて食べるので、人の子をも捕らえて遠くに連れ去るとして恐れられてきたそうです。巨大で強力なところから霊鳥として尊ばれ、関東の鷲神社・大鳥神社などはこれを神に祭ったものとのこと。『東大寺要録』には、良弁僧正は関東から鷲にさらわれて山城国につれてこられた子であるという話を記しているそうで、これが『良弁杉由来』の元でございましょうか。ただいま鷲神社は家内安全・商売繁盛の信仰で栄えております。

 お酉様の下向道には浅草に出まして、何か食事して帰りますが、本年は『おりべ』さんというすき焼き屋さんにうかがいました。ご主人はその昔、「竹本織部大夫」と申され、文楽の8綱大夫師のお弟子でいらっしゃいましたが転職され、ご出身地の伊賀牛専門のお店を開業なさいました。私共がうかがいましたら、ちょうど7芝翫丈ご一家が隣座敷でご会食でした。観音様からですと、ひさご通りをまっすぐに言問通りを越えて、右側とんかつの三好弥さんを右折、一筋目を左折、右側です。お昼は要予約です。お座敷でご主人がていねいに仕立ててくださいますので、落ち着きます。あらかじめお電話をお入れいただいたほうが確実と思われます(浅草3-37-3/03-3873-8873)。なお、三好弥さんを右折いただき、しばらくした右側の『八重』とおっしゃるお好み焼屋さんは、私共の若手三味線弾きさん、鶴澤祐二氏のお家で、こちらもどうぞごひいきに。
駒込時代(11/29)

 私は、伊豆大島の高校を卒業して上京いたしました1979年4月から、1982年まで足掛け4年、駒込に暮らしました。

 はじめは『みゆき荘』と申しますアパートの間借りでございまして、当時、4畳半風呂なしトイレ共用で1万5千円の家賃でありました。今思いますとずいぶんたいへんなところだったと思います。1階の入口を入りますと細いコンクリートの廊下があり、右側が私の部屋でした。廊下を隔てました前が共同のお手洗いで、便利と申せば便利、衛生的にはどうもいただけませんでした。靴を脱ぐスペースもなく、脱ぎますと4畳半の座敷に置いてある箱の中に入れます。押入れは半間で、しかも階段下ですから斜めになっており、変な形でした。それでも、親元を離れ、好きな仕事に就き、借り物ながら自分の家?を持ちましたものですから、至極ご機嫌でした。部屋の隅の鴨居に小さな棚を吊り、故郷の鎮守様のお札を祀り、神棚といたしましたなどは、ちょっと変わっておりましょう。初舞台のお給金、當祝(あたりいわい=いわゆる大入り袋)などいただきますと、かならずお供えいたしました。特に信仰心があるわけではございませんが、当時、さまざまな芸談を拝読いたしまして、芸をやる人間はけじめと申しますか、きちんとした場所をもたなければいけないと思いましたので、そういたしておりました。困りましたのは同じ階に住む方で麻雀をよくなさる方があり、週末になりますとガラガラ夜通しなさいますので弱りました。また、買ったばかりの傘を廊下に出して置きましたところ、数時間後にはなくなっていて、東京は用心の悪いところだなと思いました。隣室はお年のいったサラリーマンさんと思われる方で、ある夜、「500円貸してください」と言って見え、お貸しいたしましたら、借用書にはんこをついて持って見えました。

 2年後に近所のはんこ屋さん『山崎印房』の2階に移りました。こちらは6畳で2万円の家賃。はんこ屋さんの大家さんは老夫婦で、奥様はお小さい頃、東京の娘のたしなみとして坂東流を習われ、名取さんでいらっしゃいました。ですから、私の舞台もときおりご見物くださいまして、翌日きっと「昨日は拝見しました」とお菓子にお小遣いをそえて部屋に届けてくださり、有難いことでした。こぎれいに住まわれておいででしたので、私も居心地よく落ち着きました。

 同じ頃、京都在住の豊澤時若師もやはり駒込に間借りなさっておいでで、よく「どや、風呂に行かんか」とお誘いいただき、近所の松の湯へまいりました。松の湯がお休みのときは神明湯。時若師はただいま柝の会で復活狂言の振りを俳優さんにうつしておいでですが、元は地方廻りの俳優さんで、銭湯の洗い場で話に興が乗ると振りも入りますので、あるとき番台の方から「いつも一緒においでになる方は役者さんですか?」と尋ねられました。当時、湯銭が180円くらいではなかったでしょうか…。

 近所に『はしもと』と申されるとんかつ屋さんがございまして、1500円でしたか、月に一度の楽しみでありました。親からの仕送りもなく、いただいていたお給金ではなかなかの贅沢でした。師匠方が「旨いものも食べなきゃいい芸はできないよ」とおっしゃるので、背伸びをしておりました。私は少しずつ背伸びをするのを信条にいたしてまいりましたが、やはり、「何でもいい」ではいかがかと考えます。お店でも、今の自分にはしっくりこないと思うお店には入りませんでしたが、少し背伸びをしたら入ることのできるお店には入るようにいたしました。なにしろ、大島の田舎育ちですから、都会のいろいろなものを存じません。歌舞伎の幕内では「どこそこの何がおいしい」とかよく話題に出ます。そういうものを少しずつ知るようにいたしておりました。また、扇太夫師でもふらっと銀座の『みかわや』にお連れ下さったり、昔の感覚の「上等」を学ばせていただきました。このごろ「きちんとしたものを身に付け、無雑作なものにも通じる」ということを思います。浄瑠璃では上は天皇から下は乞食さんまで(この言い方は旧式かもしれませんが…)語り分けねばなりません。通俗的なものは自分自身近いところにおりますので、理解しやすうございますが、上品なものはなかなか真似てできるものではないような気がいたします。ですから、上等なものを身につける努力をいたさねばと思います。それは舞台で床に控える姿にも現れるよと師匠方もおっしゃっておいででした。

 舞台に出ますのに黒紋付の床着、楽屋では部屋着がまず必要でしたが、松屋デパートが芝居から近いので、そちらの呉服部で誂えておりました。着物の知識もなく、武田様とおっしゃるお年のいった店員さんが親切にお教えくださいました。はんこ屋の大家さんでも、『はしもと』のご主人でも、皆様たいへんよくしてくださいまして、見知らぬ土地での暮らしも、おおぜいのお方のおかげで不安はございませんでした。

 このあいだも六義園にまいりますのに、駒込で下車いたしましたが、旧居?の方へはまいりませんでした。一昨年でしたかふらっと歩いてみましたら、『みゆき荘』はすでになく、ほかの建物が建ち、はんこ屋さんの方は老夫婦も亡くなられ、お子様がおいででなかったので、無人で雨戸が閉まっておりました。思い返しますと、つらいこともあったのかも知れませんが、ほとんど記憶になく、ツツジの咲く駒込駅のプラットホームの陽光と、東京に出てまいりまして希望に燃えておりました、はたちになりかけの自分の姿が浮かんでまいります。
六義園名残紅葉(11/28)

 巡業から帰京いたしまして、2日間の休日がございました。何かラジオで六義園の紅葉のことを中継しておりましたので思い立ち、午後ひさびさに駒込へ出かけてみました。

 私は伊豆大島から18歳のおり上京、4年間駒込にアパート暮らしをいたしました。ときおり、心配して出てまいります母や祖母を慰労のため、どこかへ連れて行かなければいけないと、近所の六義園に案内いたしました。たしかツツジの時期であったように記憶いたします。それ以来、足を向けておりませんので、かれこれ20年ぶりくらいで、再訪いたしましたことになります。
 
 都内の紅葉はあまり期待できないと思いつつまいりましたが、園内に入りまして、認識を新たにいたしました。たいしたものでございます。ちょっと原生林のような一角もございまして、「幽邃」など読みは知っていても、漢字変換機能でしかあらわすことのできない言葉が思い浮かびます。当月は、巡業という好機会に恵まれ、各地の紅葉を楽しんでまいりましたが、それに比して六義園の紅葉はけっしてきれいに色づいてはおりません。しかし、お日様に照らされた葉を裏側から見ますと実に壮観であります。これはあなどれないと思いました。もし、この記事をお読みのお方でご興味がおありでしたら、早速、明日にもお出ましになられますことをお奨め申し上げます。駒込駅池袋寄りの出口を出まして、まもなくです。入口を入りまして、回遊するようになっておりますが、特に午後、芦辺茶屋跡というところから渡月橋を望みますと、光線の具合でひときわ紅葉が色増し、すばらしいものです。維茂公ではございませんが、「帰る家路を忘れしぞ」です。
渡月橋

 また、この時期、紅葉もさることながら、落ち葉も趣があり、白居易の「林間に酒を温め紅葉を焚くとかや」という句も思い出されます。浄瑠璃では『源平布引瀧:松波琵琶』の三人上戸、新しいところでは『鬼揃紅葉狩』にでてまいりますが風情のあるものです。また、歌舞伎ではいたしませんが、文楽の『盛綱陣屋』で段切に紅葉を焚いて小四郎の門火とする演出も思い出されます。『菊畑』で智恵内が「総じてちり、ほこりと申すものも、ひとつふたつ落ち散ろばえばその座をけがし、見苦しく候えども、塵塚に山の如く集まるときは、多くても見苦しからず。それゆえ花壇のちりは取り捨て申せども、楓、ぬるでなどは落葉をご覧なさるるが一興と存じ、わざとほうきは入れ申さず」と申しますのもさこそとうなづかされます。

 本年は、各地さまざまな紅葉黄葉を心にしみいるように楽しみましたが、六義園をもってお名残とあいなりましょう。実に魂いやされます休日でございました。
落ち葉

ご参考までに 特別名勝 六義園
9:00開園・入場は16:30まで。ただし、12月2日まではライトアップ公開で20:00まで/年末年始休園/入園料\300-
絶景兼六園(11/18)

 16日は大阪から金沢へ移動し、夕方から一回公演でした。

 午前中、大阪で行きつけの理容店で散髪していただき、昼過ぎのサンダーバード号で大阪をあとに、金沢へ向かいました。琵琶湖の西を通って北陸に出る路線は、実にひさしぶりに乗りましたので、車窓の景色が珍しく、右に左にときょろきょろしながらの道中でした。山々は錦に色づき、そのようすが現れては過ぎ去っていくめまぐるしいさまは、さながら『高速紅葉狩』とでも申しましょうか。
 
金沢に着きまして、開演までの時間がいささかございましたので、『東の廓』と呼ばれます東茶屋街を見物に出かけました。灯ともし頃のお茶屋さんのたたずまいは、祇園町のそれを想起させます。店内を見せてくださるお茶屋もあり、2軒ほど拝見いたしました。数寄を凝らした造りに金沢の文化の高さを感じました。玄関の鴨居に、とうもろこしが半紙にくるんで吊り下げられていました。伺いますと、商売繁盛のおまじないで、とうもろこしのひげが長く伸びるのが「儲け」につながるという縁起だそうです。金沢の廓は浅野川沿いのものが東の廓、犀川沿いのものが西の廓と申すそうです。浅野川は『鏡山再岩藤』で鳥居又助が誤って奥方を刺殺してしまう舞台であります。来年、2月に大阪松竹座上演が予定されておりますので、なんとなく、思入れ深く眺めておりました。
東の廓のお茶屋さん

 そぞろ歩くうち、楽屋入りの時刻になりましたので、タクシーを拾ってと思い、大通りに出ましたが、さあ、なかなかまいりません。空車かなと思って手を上げると乗っていらっしゃったり、回送車だったりでずいぶんと時がたちました。こんなあんばいでは遅くなってしまうと、しかたなく地図を頼りに歩き出しました。日が暮れて方角知れぬ土地を地図を頼りに歩きますのはなんとも心細いものであります。汗ばむほど一生懸命歩き、無事時間までに楽屋入りいたしましたが、金沢は交通渋滞もたいへんなところで、タクシーを途中で捨てて歩いてきた俳優さんもおいででした。


 公演は夜一回公演でしたので、体調もよろしく、ふだんできないところがすんなりできたりいたしました。金沢はお鮨がおいしいところだそうで、ガイドブックにもいろいろなお店が紹介されております。タクシーの運転手さんに伺ったご推奨のお店に、竹本連中5名で終演後うかがいました。『千取寿し』さんというお店で、どれもおいしく、特に甘海老は東京ではいただけないようなおいしさでした。ご近所の造り酒屋さんの『黒帯』という芳醇な燗酒がすすみました。こちらはお魚はもちろんのこと、お米・水にも細心の注意を払われているとのことでした。金沢の鮨は、もともとが大阪風の押し鮨だったのが、近年江戸風に変わったそうです。

 翌朝、早起きいたしまして、市内をいろいろ廻ろうと宿を出ました。あいにく雨降りでしたが、雨の金沢もまたよろしかろうと、バスに乗り、まず兼六園にまいりました。私は高校時代の修学旅行、芝居に入りましてから巡業で一度来ておりまして、今回はひさびさにうかがいます。桂坂口から入場し、例の石燈篭のところに出ました。観光休憩所の案内の方が拡声器で団体さんに説明をなさっておいででしたが、早い時間ということもあり、あまり人気がなく、よい按配でした。園内はそこここに紅葉黄葉で、苔の上の落ち葉も雨に打たれすがすがしく、実に魂を清められる思いがいたしました。瓢池と申します池の奥には滝が落ち、そもそも、この辺が兼六園のもともとの場所だったそうですが、木々の色づきとともに、池にふりそそぐ雨の音、流れの音、私の傘に降る雨の音、いろいろな水の音が混ざり合い、目にも耳にも造化の妙を感じ、しばらく立ちつくしておりました。池を巡りながらいろいろな表情を眺めましたが、実にすばらしく、この雨の日によくぞここへきた、招き寄せられたかのような錯覚も覚えました。
おなじみの景色 雪吊り
 中学時代の修学旅行で、比叡山延暦寺にうかがいましたおり、お坊さんがお話をしてくださいました。たしか「一隅を照らす」というような主題だったと思いますが、がけに生えている一本の木でも、見上げる人に「美しいなぁ…」と思わせ、豊かな心にすることができる。だから、皆さんはいずれいろいろな立場の社会人になると思いますが、各自の立場で、最善を尽くし、人の心を豊かにできるようになってください…と申すような内容をお話いただいたように記憶いたします。天然の美にはなかなか人間の造りだしたものはかないません。しかし、私共も舞台を通じ、ご見物の心を豊かにできれば、何よりと存じます。
 
ほかにも廻ろうと思っていた場所もありましたが、やめてしまい、じっくり園内を散策いたしました。園丁のおばさんが熊手で苔を傷つけないように落ち葉をかき寄せています。いろいろコツがございますもので、かき寄せた落ち葉を大きなビニール袋に入れますのに、その落ち葉の山に向けて口をあけたビニール袋の口の下を両足で踏んで固定させ、お股の間にかき入れる様子があざやかなのに感服いたしました。ほかに絶景でしたのは『紅葉山』と呼ばれる小さな築山で、文字通り紅葉がたくさんあり、ちょっと原生林のような感じですてきでした。こちらもいわゆるガイドさんのコースからは、はずれているようです。


 先日の京都の紅葉狩も結構でしたが、兼六園はまことに迫力がございました。よい時期に仕事でいろいろなところへ行くことができ、ありがたいことだと存じます。
風情がございますねぇ…
追悼 今藤長之師(11/14)

 13日、長唄唄方の今藤長之師の訃報(9日逝去)が楽屋にもたらされ、一同おどろきました。このところ病気療養中でいらっしゃいましたが、先だって日本橋劇場でリサイタルをなさり、快復の様子をご披露されたそうで、何よりと存じておりました矢先でした。

 長之師は3猿之助丈一座には『黒塚』などでおなじみの深い名手であられました。もちろん長唄界を通じて屈指の天才肌のお方でファンも多く、私も個人的にそのひとりでありました。海外公演にも2度一座させていただき、舞台の横手から唄い方を幾度か観察させていただきました。美声・美音と申しますか、なかなか常人の近付くことのできない芸をお持ちであられたと思います。ご自身でも「葵さん。ぼくは唄うたいというのは90パーセントまでが素質だと思っている」とおっしゃっておいででした。ワシントン公演のおり、劇場からホテルまで、安全のため複数で往復するようにとおふれがあり、長之師と幾度かご一緒したおりにいろいろお話を伺いました。そのとき、「今回のメンバーはぼくの芸の位置がわかっていない」ともおっしゃっておいででしたが、それが不遜に聞こえないほど芸の力がおありだったと思います。

 先ごろ、7芳村伊十郎師のCD全集を求め、ときおり拝聴いたしておりますが、当時、20歳代の長之師もその演奏につらなっておいでです。お若くして大名人のお眼鏡にかない、「これからの長唄はあの子が背負って立つよ」と師匠がおっしゃっていたと、伊十郎師のお弟子さんから伺いました。さもありなんと思います。また、伊十郎・庄三郎・長之というメンバーで放送があると、どれが誰の声かわからなくなるというお話も伺いました。それほどまでに傾倒して伊十郎師の芸を身に付け、またご自身の持ち味をくわえられてあのすばらしい芸境を生み出されたのでありましょう。

 私事ながら、私の家内が藤蔭静枝先生主催の舞踊会で『鏡獅子』を出させていただくことになり、地は長之師がお勤めくださいますことになりました。ある会の楽屋で長之師とご一緒いたしましたので、そのことをご挨拶申し上げ、ついてはお稽古に使いますのに長之師のCDはございませんかとお尋ねいたしましたらば、舞踊用にはこれがよろしいでしょうと、NHKの古典芸能鑑賞会でお勤めになられたおりの録音をCDに焼いて、ほどなくお送りくださいました。早速お礼状をしたためましたら、すぐにお返事がまいりまして、「長唄連中一同、気を引き〆て勤めます」と書かれておりました。また、ご自身の奥様が吾妻流の舞踊家さんで、リサイタルに奥様が踊られると、「仲間に公私混同だと言われます。お宅もたいへんですね」とも書かれていました。

 その当日が昨年8月末で、その後ほどなくお倒れになったと伺い、案じておりました。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
うれしうまし(11/14)

 12日の浜松公演は、鰻を楽しみにして出かけました。

 
名古屋から向かいます新幹線の車中、4段四郎丈と、どこがおいしいのでしょうというお話になり、私はデパートの名店街に出ているところなら土地の有名店で、まず、はずれがないでしょうからそちらをさがしてみます、と申し上げました。浜松には初めて伺いました。下車いたしまして、あたりを見回してみましたが、なんとなくぴんときません。そこで、アクトシティのホテルオークラに行ってフロントで伺ってみました。館内の『山里』とおっしゃる和食店で鰻もいただくことができるとのことで、エレベーターで31階に向かいました。案内されましたお席は市内を一望できます絶景の窓際で、たいへん嬉しくなりました。鰻重を注文し、しばらく景色を楽しんでおりますところへ、鰻重・小鉢・肝吸・香の物が運ばれ、蓋を開けました。焼き方は京都のものに似ておりまして、東京とはいささか様子が違います。たいへんおいしく堪能いたしました。お店の方々もきりっとして感じがよろしく、次回もかならず伺いたいと思いました。
この景色を見ながら鰻を楽しみました

 終演後、新幹線で名古屋に戻り、名古屋駅高島屋の13階、『山本屋総本店』で味噌煮込みうどんをいただきました。入店いたしましたのが22:00で、もうラストオーダーでした。『ねのひ』をお燗してもらい、待つことしばし、猫舌の私には要注意の熱々の土鍋が運ばれてきました。私はこれが好物ですが、楽屋で味噌煮込みうどんの話題が出ますと、支持者が分かれます。安城市出身の扇太夫師、西尾市在住の重松師はやはり土地のお方で、お好きでいらっしゃいました。米太夫師のように絶対食べないというお方もあり、その理由は、八丁味噌がいけない・麺が硬すぎる…というものであります。えてして、東京人の好みに合わないようですが、私は好きです。ことに皆様のいやがる硬い麺が好きで、私はラーメンを食べに入りましても、硬い麺を注文いたします。余談ながら、歌舞伎座楽屋口を出ましてしばし京橋に向かって歩きますと、博多ラーメンの『一風堂』というお店がございますが、そちらでは硬い麺が三段階あり、私は一番硬い「粉落し」というのをよく注文いたします。味噌煮込みうどんは東京でもいただけるようですが、やはり、こちらのものがおいしく感じます。

 昼の鰻重、夜の味噌煮込みうどん、うれしうましの一日でございました。
京都紅葉狩(11/13)

 全国公演の合間、10日の移動日を利用して、一日京都に遊びました。

 この季節、何と申しましても紅葉狩ですので、詩仙堂・曼殊院へでかけました。まだ盛りには早いようで、木によりまして色づき方が違いましたが、堪能いたしました。いずれも紅葉狩の皆様で賑わっておりました。そういう私もその一人ですから、申せませんが、「閑静」ということばにはいささか距離のある環境でございました。しかし、色づいておりますのは紅葉ばかりではなく、公孫樹や漆、萩などの葉も美しく、そちらには人もあまり寄らないので、静かにたたずむことができます。
曼殊院の紅葉
 南禅寺へ出まして、聴松院で湯豆腐をいただき、ただいま特別公開中の對龍山荘を拝見いたしました。きものの会社が所有なさっておいでのお家で、お庭が小川治兵衛作。こちらは初めて伺いましたが圧巻でした。池を中心に回遊しながら思索にふける…ということを基本構想に造られたお庭だそうで、園路も狭く、大勢のご見物で、ずいぶん苔も痛んでおりました。こちらの紅葉はすばらしく、傾いてまいりました日影に照らされ、先端は紅、中ほどは黄、元は緑と一枚一枚の葉が染め分けられております様は、まことに天然の美と感じ入りました。桜は朝、紅葉は夕と申すらしいですが、たしかに光線の加減でずいぶん違うものだと思いました。
對龍山荘の紅葉

 夜は先斗町のいきつけのお店に立ち寄り、おおいになごみました。

 この日、私は満41歳の誕生日を迎えました。以前、5勘九郎丈に、「あなたいくつになったの?」と訊かれ、これこれですと申し上げましたら、「そう、でもまだ倍やれるね!」とおっしゃっていただきました。倍ほどできますかどうかわかりません。本年1月に病気休演をいたしまして、皆様にご迷惑をおかけしたことがございました。はじめ、お医者様から癌の疑いもあるといわれましたときには、血の気が引きました。精密検査の結果、そうではなかったので、ホッといたしました。このとき、まだ倍できるなんてのんきに構えていたら、なんにもできないうちに生涯が終わってしまう。自分で編み出すなどということはさておいて、先輩から伺ってきたものをきちんと整理しておく必要がある、といろいろ考え、そのひとつの手段といたしまして、このホームページを開設いたしました。これからもできる限り、きちんとしたことをやれるようになりたいと思っておりますので、日々精進を怠らずに勤めてまいろうと存じております。
やるせない夜景(11/5)

 昨4日、横須賀市での公演がございました。

 私は初めて横須賀に伺いましたのですが、ずいぶんと賑やかで、いろいろなお国の方が歩いていらっしゃるという印象でした。『どぶ板ストリート』というところでは日曜日でもあり、露天市が開かれておりました。スタジアムジャンパーに極彩色の刺繍を施しましたものを『スカジャン』と申すようですが、私は初めて『横須賀ジャンパー』の略称だと知りました。何軒も刺繍専門のお店がございました。また、カレーライス発祥の地でもあるとのこと。公演の合間に入ったお鮨屋さんには『軍艦巻きセット』などございましたが、海苔で胴体を巻いたあのスタイルも横須賀発祥なのでしょうか…。こう申しましてはなんですが、雑然とした感じで、ちょっと私の居所はないなと思いました。

 当月は公演がすみましてから、荷物をまとめ、汗のものは持ち帰り洗濯したり、乾かしたりせねばなりません。そんなこんなで通常より仕事も荷物も多く、終演後一息入れたくなります。横須賀は自宅通勤圏ですが、私の家からはさほど遠くありませんので、楽屋を出たところで皆様と別れ、横須賀プリンスホテルのバーにまいりました。居酒屋でワーッとやるのも好きですが、独りしずかにぽかんとしながら飲むのも好きで、ときどきそういうバーにもまいります。20階にバーがございまして、夜景がきれいだということなので、窓際の席に案内していただきました。
 お酒をいただきながら、夜景を見ておりましたが、この町にお住まいの方、皆様がすべてそうではありませんでしょうが、アメリカ軍の関連の方がずいぶんおいでだろうと思いました。「軍」と名がつきますからには有事の際は力ずくでものごとを納めにかからねばなりません。つまり殺人も辞さない…。平和を保つために武力をたくわえる、その施設の町…。ただいまのような時節、軍事施設に対してどのような事件が起きるかも知れず、関係者や周辺の皆様は落ち着かれないことだろうと思います。私にも「何があるかわからないから、横須賀の公演をすませたら早く退去した方がよい」と忠告してくれた友人もおります。子供の頃、プラモデルで軍艦や軍用機を組み立て、軍服などもかっこいいと思いました。昼間、港に留まっている軍艦を眺めておりまして、あまり色気のないものだなと思いました。従事されているお方には申し訳ありませんが…。私のようにのんきに世を送っている人間にはよく解らない部分で、いろいろ難しいことがございますのでしょう。そんなこんなを考えながら、横須賀港の夜景を眺めておりましたら、やるせなくなりました。
豆本『二月堂』(10/22)

 義太夫の詞章を掲載しました印刷物は稽古本・百段集など大正昭和の隆盛期に多数刊行されました。写真製版が取り入れられました産物として、稽古本の豆本という体裁のものが数点刊行されております。古書店にときどき出ておりますが、可愛いものです。大きさはだいたい縦12,5センチ、横9センチです。

 当月は歌舞伎座で綾太夫様と同座させていただいておりますが、私の調べ物好き?を見込まれ、いろいろとご所蔵の資料を頂戴いたしました。その中に『良弁杉由来:二月堂』の豆本がございました。昔、古書店で手に入れられたものだそうです。来る11月、歌舞伎座で『二月堂』が上演されますので、いささかそのお話を申し上げます。

 表紙は(以下、一部旧字体を新字体で書いております。/=改行)「卅三所観音霊験記之内/南都二月堂良弁杉の由来/良弁杉の段/二世 豊竹古靱太夫/四世 鶴澤清六」地紙右上に「古ウツの帆掛け舟」、左下に「世が六つ輪になった中にい」という古靱、清六両師のの判じ物の紋(正式には何と申すのでしょうか?)がこげ茶で印刷されております。見返しに「昭和三年一月京都四条/南座に於て」。扉には序文がございまして、

「浄曲良弁杉は加古千賀女の作、豊澤團平師の節附なり、千賀女は團平師の妻にして、別に霊験記壺坂の著あり。節附の至妙と相俟って広く世に行わる。良弁杉は明治二十年二月初代豊竹柳適太夫師、三味線三世豊澤廣作後に六世豊澤廣助師によって彦六座の人形浄瑠璃に上演せられたるに創まり、やがて歌舞伎にも移されて典雅優麗且つ至難の一曲として斯界に珍重せらる。/是を大正十年五月御霊文楽座に於て不肖拙技を顧みず、初めて上演したり。当時の三味線は故人三代目鶴澤清六師なり。尚また大正十四年四月同文楽座に於て第二回を上演せり。此の時の三味線は四代目鶴澤清六勤めたり。不肖儀文楽座に初演の際は他に此の段の冊子なく、当時の記念にもと最初の時より思いつつ、今日に至りしが、今亦京都南座に上演の好機会を得しにより、茲にこの小本を作製して後世の記念にと、江湖の諸彦に頒つ事とせり。請う之れを諒せられんことを。/昭和三年正月/豊竹古靱太夫」(読みやすく句読点等を入れました)

それから藍色の写真で古靱太夫師と清六師の肖像があり、本文は義太夫本の書体で書かれ、黒朱(語りの上げ下げ等の譜)が入ってございます。巻末には縮小された御霊文楽座上演時の番付が貼られています。

 文楽出身の米太夫師や瑩緑師が、やはり古靱太夫師の豆本『平家女護島:鬼界ヶ島』をお持ちでした。四ツ橋文楽座開場記念興行に復活上演なさいましたおりに出版し、座員に配布されたそうです。楽屋で何度か拝見いたしましたが、『二月堂』は初見でした。『鬼界ヶ島』の本文は活字で、なんですかお経の本のような書体でした。

 当時、古靱太夫の山城少掾師は、ご自身で復活上演なさった演目を永く世に残したいというお気持でこれらの本を刊行なさったのでしょうか。その思い実って文楽でも歌舞伎でも頻繁に上演される演目となっております。しかし、山城少掾師のお目からご覧になられますと、いかがなものかはわかりませんが…。

 先日、三島由紀夫先生と山城少掾師の対談が本に収められていると知り、図書館で拝借して読みました。『源泉の感情』というご本で、なかなか興味深い内容でした。手許に置いておきたくなり、さっそくインターネットで検索して発注いたしました。この中で、「二月堂は考えてみたら親子がひさびさにめぐり合うというだけの筋だが、好きな演目のひとつ」というようなご発言をなさっておいででした。引退御披露の演目にも選ばれております。私も山城少掾師の『二月堂』はたいへん好きで、と申しますと恐れ多いのですが、よく拝聴いたしております。

 武智鉄二先生はこの『良弁杉由来』という作品を「桜の宮物狂の一部を残し廃曲にすべし」とお書きになっておいでで、戯曲としての価値をお認めになられませんが、先日のこの欄にご紹介いたしました(『つねひごろ:東西三人会』)故・志ん朝師の「芸は演じる人間を見せる媒体」とおっしゃられるお考えが、山城少掾師のお語りになる『二月堂』にとりまして至言と存じます。
なぞる(10/20)

 よく「先人の芸をなぞることから稽古は始まる」、と申します。そして、そのなぞる「お手本の選択もたいせつだ」とも申されます。

 小学校に上がりまして、「書き方」と申しましたか、授業で練習帳のお手本をひたすら鉛筆でなぞりました。私はこれが好きでして、ゲームのような感覚で楽しんでいたことを記憶いたします。そのうちに、お寺のお習字に日曜ごとに通うようになりまして、こんどはお手本を左に置いて「まねる」ことをいたしました。ただ見て、自分の了見でひたすら真似てお清書を出すと、朱で直していただきました。小学校高学年になりますとトレーシングペーパーなるものを発見し、そのころから興味があった役者絵を透き写しいたしました。変わった子供です。これも申さば「なぞる」作業です。

 歌舞伎や義太夫に興味を持ち始めますと、父が英会話の学習用に買ってくれたテープレコーダーで放送を録音し、それに連れて声を出しておりました。つまり声でなぞりました。訪問販売の方から、当時かなりの金額で買った英会話のテキストは埃をかぶり、書棚の飾りと化しましたが、テープレコーダーは大活躍でした。歌舞伎は1吉右衛門丈の「盛綱陣屋」で篝火を呼び出すところ、「ささぁきぃ…しろおざえもんッ、(ここから早く)たかつながつまのかがりび、けいりゃくのにせくびしおおせたれば…」がお気に入りで、ひとくだり覚えるとお風呂場で真似ておりました。いよいよもって奇怪至極な子供です。当時、NHKラジオで「思い出の名人集」という放送がございまして、ゲストとアナウンサーの対談に録音がいくつか紹介されておりました。この「盛綱陣屋」は実況盤で、「播磨屋、播磨屋ッ!」という大向こうも掛かっており、そこまでも真似ておりました。中学に上がる前後からこういうことをやっておりましたのが、後年、足しになりましたが、反面、素直にわけわからずなぞれてしまったので、ほんとうはもっと深く掘り下げながら覚えなければいけないことをスキップしてしまったこともございます。

 義太夫の初歩のお稽古は、だいたい一度師匠が聞かせてくださいまして、次に一緒にそろっと連れて声を出します。そして三度目には、頼りないですが、一人で語りまして、できていないところを直していただきます。そろっと連れて声を出しますときは、先ほど申しました「書き方」の要領で、忠実に音階をなぞってまいります。自転車で申さば補助輪付きの運転でしょうか。さて一人で語るとなりますと、なかなかできるものではなく、つっかえつっかえ、直していただきながらのお稽古で、ここが肝心です。

 このごろはその連れて声を出す段階までを録音に依存してやってきて、一人で語るところからお稽古に入るということが多くなっております。教える方はそれだけ労力が減りますが、そこで失われているものがあるということを肝に銘じなければいけないと思います。つまり、教える人が実際に語り、それをその場で、それこそ全身で集中して覚え、しかるのちに、なぞる…という緊張感のなかでの学習です。録音は何度でも聞き返すことができますので、ついつい安易な態度でその演奏に接するということになります。機械が補助してくれる分、人間の「わざ」と申しましょうか、能力の開発がなおざりにされてしまう。ですから、初歩の間は、なるべく機械に依存しない稽古をしておいた方があとあとによいように思われます。昔はお稽古のとき、師匠によっては、本に心覚えの印を書き込もうとしたら、「本に書きなはんな、頭に書きなはれ!」と叱られたものだそうです。また、テープレコーダーに稽古を録音するのを拒否された方もあったそうです。私は、ただいまのようなことは言われませんでしたが、自分で緊張感を持って稽古に臨むように、わざと録音をせずにお稽古を受けた時期もございました。すみますと、記憶のあらたなうちに、ご注意いただいたことを本に書き込みました。しかし、録音は取っておいた方がより正確に覚えられると思います。要はお稽古の現場での心の持ちようでしょう。あるとき、これはかならず録音させていただこうというお稽古のとき、事前に「失礼して録音させていただきます」とご挨拶いたしましたあと、スイッチを押そうといたしましたら、電池が切れていて作動しません。このときは一言一句聞き漏らすまいと必死でした。

 書には臨書があり、絵には模写がございます。対象を見つめ、その筆の入れ方を考察し、内面までも学ぶということを伺ったことがございますが、なぞるということにもいろいろ段階があると思います。表面をなぞるにとどまらず、表面にあらわれない精神をなぞる、ということになりますと、また、深いものがございます。「先人の跡を求めず、先人の求むるところを求むる」ということが申されますが、表面にあらわれていることを幾度もなぞるうちに、その内面的なものをなぞることができるように…なればよろしいのですが、往々にしてうわべだけなぞって終わってしまいがちです。つまり空洞化したものが残る。伝統芸能は「なぞる」芸能でもありますので、よくよく心して、先人のご工夫をなぞらせていただかねばと反省する次第です。
力まかせ(10/12)

 このところ武力によるもめごとが多く、そのかげで被害をこうむっておいでの皆様のことを思いますと、実に胸が痛みます。私は政治や思想についての知識がなく、くわしいことはよくわかりませんが、力ずくでご自分たちの意見を通そうというのは、いかがなものかと存じます。

 芸の上でも、「力まかせ」ということがございます。むやみに大きな声を出したり、やたら叩きつけるような弾き方をして、なんとなく「すごいな…」と思わすやり方。私は入門いたしましたころに、ずいぶんとそのことをご注意いただきました。「なんでも声修業だと思って大きい声を出すばかりが能ではない。芝居はお客様のもので、不快な声を出したり、場違いな声を出してはいけない」と言われました。つまり「ほど」がよろしくない。「つりあい」が取れていないわけです。当時、「大きな声ですね」などといわれ、単純なものですから、いやましにことさら大きい声を出していた時期もございました。英治師匠に「あんた、これ以上ございませんというような声やで、少しはしぼらな、聞いていて飽きるがな」とご注意いただきました。かと思いますと、「極限まで苦しんでこそ芸の値打ちがある」とか「あんなにがんばって…と思うから拍手がくるのだ」という先輩もおいでになられ、そのかねあいがなかなか難しいものでございました。米太夫師匠には「今の奴らは調子をやらない(声を痛めない)、お前は調子をやるくらい一生懸命演るから偉い」と妙な誉め方をされたこともございました。

 だんだんと年数を積み重ねてまいり、自分でもいろいろと考えるようになりますと、やはり力まかせはいけないなと思います。お囃子の田中傳左衛門師のご著作の中に、「いまの長唄界はお客に受けようという意識から間拍子がむやみに早くなっています。しぜん腕達者な職分が幅をきかせています。腕っぷしの強い者が威張るのは、野盗の横行する乱世を思わせます…」とあり、大薩摩についても、「それから[唐草の合方]になります。ここが多くの方がキッパを廻してしまうところです。これでもかこれでもかと長々とキッパを廻して演奏するので、観客はあんなに一所懸命やっているのだからと拍手をします。それは同情喝采です。ほんとうは喝采させてはいけない。感心させなければならないのです」と実に結構なことが書かれてございます。

「キッパを廻す」ということを辞書で調べてみますと、

「切っ刃を回す=1:(刀を抜く時に、左手で鞘ごと回して刀の刃を上に向けるところから)刀のつかに手をかけてまさに引き抜こうとするさまにいう。/2:刀を振り回す。抜き身を振り回す。/3:(比喩的に)相手に対して縦横に反論し攻撃する。おどしてきめつける。

とございます。あまり芸の上からは品のよろしくないということになりましょうか。もちろん、大薩摩の唐草合方が粒も揃って、すかっと演奏されれば聞いておりましてもこころよく、結構なことです。また、ご見物に受けようという姿勢も芸能の実演家としては欠くことのできないひとつとも存じます。しかし、この傳左衛門師のおっしゃられることをよくよく噛みしめますと、その実演家の人間性の高潔さということを考えさせられます。そういたしますと、「芸は人なり」とよく言われますが、その一大事にたどりつくようです。
落語 『東西三人会』(10/3)

 昨2日、役を勤めましてから国立演芸場へ大急ぎで駆けつけました。と申しましても、私が出演いたしますのではなく、れっきとした「お客様」で、落語を楽しみにまいりました。1969年にそれぞれの師匠に入門なさいましたお三方、笑福亭松喬(故・6笑福亭松鶴)・古今亭志ん橋(故…と書きますことが悲しい…2古今亭志ん朝)・柳家小里ん(現・6柳家小さん)の皆様が主催なさっておいでの、『東西三人会』という落語会であります。

 私は、もともと落語が大好きで、寄席に出かけることはまれなのですが、もっぱら自宅で録音を楽しんでおります。以前、「鹿芝居(しかしばい=噺家さんの素人芝居)」の竹本を依頼されまして、「寺子屋」や「先代萩」などを鈴本で勤めましたが、このときの熱心な俳優さんの中に、小里ん師・志ん橋師もおいででした。それがご縁で、会いますとご挨拶を交わしたり、夜の銀座で芸のお話を伺いながらごちそうになったり、というご縁が続いております。また、松喬師は大阪でよく伺います小料理屋さんで隣り合いまして、おしゃべりさせていただいておりますうちに、すっかり意気投合し、大阪公演に伺いますと、ご自宅でご一門とともに師匠の手料理を頂戴するなど、ご懇意いただいております。

 昨日の会も半年くらい前から手帳に記入し、楽しみにいたしておりましたが、舞台出演の関係で、残念ながら松喬師の「手水廻し」は拝聴できず、志ん橋師の「位牌屋」の中途から拝聴しました。当日券を求めまして入りましたが、自由席の場内はすでに満席で、立見をいたしました。ご案内のとおり、志ん橋師の師匠、志ん朝師が逝去され、志ん橋師にもさぞやお心落しでしょうが、お元気に爆笑を取り、仲入りとなりました。 ロビーの椅子に腰掛けておりますと、来年の国立演芸場のカレンダーが目に止まりました。毎月、噺家さんの高座姿が変わりますが、10月は志ん朝師で、9月がすんでカレンダーをめくると、10月1日祥月命日の志ん朝師の写真が出てくるとは、まことに感無量であります。

 トリは小里ん師の「居残り佐平次」で、実に堪能いたしました。いろいろなご意見はおありでしょうが、私は失礼ながら、たいへんすばらしい出来でいらしたと存じます。とくに「勝ちゃん」が結構で、「ああ、こういう人なんだろうな…」と思いました。圓生・志ん生・志ん朝…皆様の「居残り―」それぞれ結構に存じますが、「勝ちゃん」は昨日の高座が一番合点いたしました。以前、小里ん師といろいろお話をさせていただきました折に、「昔のことがわからなくて、今の人は噺がしにくいだろうって聞かれるけど、昔も今も人の了見ってものはそんなに変わるもんじゃない。その了見ををよく呑みこんで、あとは設定をきちんと整えたらいいと思うんだ…」と伺いまして、とても心に残っております。「葵さん、昔の人の録音もそりゃすごいけど、リアルタイムの寄席にも来てよ」とも言われましたが、なかなか出かけるまでに至っておりません。

 打ち出しの前に、お三方が舞台に座り、ご挨拶がございました。志ん橋師がまず口火を切るところで、万感胸に迫り、嗚咽をこらえながら師匠志ん朝師の訃をご披露なさいました。慕っておいでになった師匠との悲しみをこらえながら高座を勤め、演芸がすみましてのご挨拶で、さすがにこらえきれずに涙にむせびながらの志ん橋師の胸中、察するにあまりあります。「鹿芝居」に私どもの別な太夫さんが頼まれておいでになりまして、噺家さんのギャグに釣り込まれ、つい笑ってしまわれたら、客席でご見物だった志ん朝師が、「あの人は本職でしょ。そいじゃあ笑っちゃいけないよ…」とあとでおっしゃったというお話を思い出しました。なかなか「けじめ」に厳格であられたようです。次に松喬師がご挨拶を引き取り、淡々と志ん朝師とのご縁を話されました。松鶴師とはご懇意だったそうで、大阪に志ん朝師がお見えになると、ずいぶん大事になさったそうです。お稽古も寄席では出さないような大きな声で、部屋の障子がビリビリ震えるくらい丁寧におつけになられたとのこと。最後に小里ん師が述べられ客席の力強い拍手の内に打ち出しとなりました。

 志ん朝師亡きあと、落語は滅ぶとかいろいろなご意見がさぞ出ることと存じますが、私はこの『東西三人会』を拝見し、「なかなかどうして、まだまだ…」という認識を強くいたしました。帰りに、ちょっとだけ楽屋にご挨拶に伺いましたが、皆様さきほどのご挨拶の興奮がさめやらぬなか、てきぱきと着替えておいででした。本来ならば志ん橋師におくやみを申し上げなければいけないのですが、皆様にとても楽しく拝聴したことのみ手短に申し上げ、松喬師には「来年2月、また大阪で」と約し、失礼いたしました。たいへん、気持ちの良い会でありました。

 文藝春秋の1999年「九月特別号」に『志ん朝・勘九郎/芸を語る 父を語る』という対談がございますが、その中の、志ん朝師のおことばを引用させていただきます。

「…それで、勘三郎さんのよさっていうのは、うちの親父にも通じるんだけど、芸人というのはね、最終的に芸を見せるんじゃなくて、その人間を見せるんだ、ということだと思っているわけですよ。―略―落語も芝居も、それは媒体なんだと思うんです。その人を見せるんじゃなかったら、誰のを見ても同じなわけですよ。―略―『芸は人なり』なんですよ」

 次回『東西三人会』は来年4月9日(火)の予定だそうです。ぜひお出かけを。
散歩 千鳥ヶ淵(9/25)

 国立劇場で舞踊会がございまして、その出番の合間に散歩に出かけました。陽気もよろしいので、千鳥ヶ淵の方へ足を向けました。途中、いつもは通り過ぎてしまう英国大使館の前にさしかかりましたので、門扉から中をのぞきましたが、簡潔な建物で格調があり、部屋の中はどんなだろうと思いました。以前8三津五郎丈の随筆でお父様(7三津五郎丈)をここの花見に車でお連れしたら、「もっとゆっくり走っておくれ」とのことで、あんまりゆっくり走っていたらついに故障してしまったというお話を思い出しました。

 千鳥ヶ淵緑道に出ますと「戦没者墓苑」の表示が目に付き、ふと思い立って参拝することにいたしました。私の伯父にあたる方が沖縄戦で生死不明、おそらく戦死されただろうとのことで、こちらにはご縁がございます。ちょうど墓苑の脇から入る道でしたが、おりしも萩が盛りで、ちょっとした小径となり、風情がございました。今年は萩を見ていないなと、このところ思っておりましたので、ちょうどよい具合でした。

 納骨堂にはお彼岸ということもあってか、生花がおびただしく、私も白菊を一輪献花いたしました。この納骨堂の地下には各地から採集された身元不明の戦没者の皆様のお骨が納められているそうで、地上に安置されているお棺は東洋一の大きさのものだそうです。その中にまた天皇陛下から下賜されました骨壷があり、各地の代表のお骨を納めているとのこと。拝礼いたしまして、「前屋」という屋根のついた休息所でしばらく休みました。

 このあたり、高速道路が近く、かなり車の音が聞こえますが、夏の名残のツクツクホウシも鳴いており、さほど気になりません。見ておりますと、間隔はありますが参拝の皆様が次から次へお見えになられます。タンクトップにショートパンツといういでたちのウォーカーの女性が足早にきて、じつに懇切なる拝礼をなさり、また足早に去っていったり、杖をついた老夫婦が拝礼をしてから帰りかけ、思い出したように記念撮影をしたり、二十代とおぼしきグループが神妙に拝礼したり…という光景を目にしながら、しばらく過ごしました。

 私は世界の情勢や政治的なことにうとく、よくわかりませんが、ただいまの時節、世界のどこかで人が人に殺されているという事実。しかも巻き添えのような形で非業の死を遂げられるという状況を悲しみます。いろいろな事情があるのでしょうが、そのような形でしかご自分たちの考えを示すことのできない人々を情けなく思います。しからばどうしたらよろしいのか…そんなこんなを考えながら、考えてもまとまらないので、そこそこに墓苑を退出いたしました。

 これから日に日に秋が深まり、千鳥ヶ淵の桜葉も色を変え、やがて枝から落ちていくことでしょう。また、そのころ歩いてみようかと思います。
レディファースト(9/21)

 お俊伝兵衛(堀川)・お染久松(新版歌祭文)・お染半九郎(鳥辺山心中)・お初徳兵衛(曾根崎心中)・おふさ徳兵衛(心中重井筒)・お千代半兵衛(心中宵庚申)・おさん茂兵衛(大経師昔暦)・お里澤市(壺坂)・おさが嘉平次(生玉心中)・お半長右衛門(桂川連理柵)・お軽勘平(忠臣蔵)・お七吉三郎(伊達娘恋緋鹿子)・お駒才三(恋娘昔八丈)・お園六三(三世相)・おしず礼三(小磯が原)お富与三郎(源氏店)・夕霧伊左衛門(吉田屋)・小春治兵衛(心中天網島)・梅川忠兵衛(冥途の飛脚)・三勝半七(酒屋)・十六夜清心・浦里時次郎(明烏)…。

 順不同で竹本に関連したカップルを羅列してみました。お富与三郎に義太夫が?とお思いでしょうが、火の番小屋・伊豆屋・観音久次内に入るようです(私は存じませんが…)。それはさておきまして、たいがいが女性の名前が先であるということ。どういうわけなのでしょうか。もっとも…安珍清姫(日高川)・権八小紫(比翼塚)と男性が先のものもありますが、このほかにちょっと思いつきません。当時の女性の名前として「お○○」が、圧倒的に多く見受けられます。またほとんどが悲劇のカップルであります。もっとも悲劇ゆえにご見物の同情が集まり、支持されますのでしょうが…。

 ところで、こうした「○○××」というカップルを称するのをなんと申しますのでしょうか?調べてみましたがわかりません。「演目の通称」、ときに「角書」にもなりますが…。ご存知のお方がございましたらお教え下さいませ。
重要無形文化財保持者…(9/11)

「芸能 第三十九−五十一号/認定書
伝統歌舞伎保存会/柳瀬信吾殿/(竹本葵太夫)/昭和三十五年十一月十日生
文化財保護法第五十六条の三の規定により重要無形文化財歌舞伎の保持者として認定します
平成十三年七月十二日/文部科学大臣 遠山敦子(印)」

 上記文面の認定書を昨10日、歌舞伎座4雀右衛門丈楽屋において授与されました。

 1979年に初舞台をいたしましてから、多くの皆様にお世話になりながら、この道を歩いてまいりました。この場で皆様にご報告申し上げ、ひごろのご支援に感謝申し上げます。ありがとう存じました。

 伝統歌舞伎保存会につきましては、会のサイトがございますのでご参照いただくことといたしまして、私ども竹本が会とどのように関わっておりますか、ちょっと申し上げます。私ども竹本は「歌舞伎」の構成要員として重要と認められ、重要無形文化財の団体指定を受けております「伝統歌舞伎保存会」の会員のお仲間に入れていただいております。会員と認定されますには、履歴・現在の技量などが審査の対象となるようで、候補者を選んだ上で総会にかけ、賛成を得てから文部科学省に伝え、文部科学大臣の答申を得る…とふだんあまり使わない言葉の受け売りで、本人もよく解っておりませんが、まあ、20年以上のキャリアがあり、そこそこ歌舞伎のためになると認められれば「入会」のお声がかかることになっておりますようです。このところ伝統歌舞伎保存会もいろいろな事業を企画実施しており、終演後の義太夫・長唄・舞踊などの研修などが行われておりますようです。竹本からも数人の方が講師として事業に参加されました。また、私ども竹本研修出身者にとりましては、研修中も修了いたしましてからも、何かとお世話になる会でございます。

 認定書の文面を読みますと、「重要無形文化財の保持者」とございますので、いわゆる「人間国宝」と混同しがちですが、あちらは「個人指定」。こちらは「団体指定」でして「重要無形文化財団体指定を受けている伝統歌舞伎保存会の会員」というのが適切でありましょうか…。

 皆様どうお思いになられるかは存じませんが、私は、「伝統歌舞伎保存会会員」というものをひとつの目標にいたしておりました。と申しますのは、この世界に入りまして師匠方のお宅にお稽古などで伺いますと、きっとこの「認定書」が額に入れて飾られておりました。それを見まして、「きちんとできるようになったら、ああして認めていただけるんだな…」と子供心に思いました。芸というものは、その価値基準が定められないものでございましょうから、その時代の有識者・ご見物がどれだけその人の芸を受け容れるかということが、数の上での評価ということになりましょうか。竹本では俳優さんのように名題制度もなく、文楽のように「切」の制度もございませんので、この「伝統歌舞伎保存会会員」が、私にとりまして、この世界で「一人前」という感覚でおりました。過去にありがたいことに「芸術選奨文部大臣新人賞」などいろいろな栄誉を頂戴してはおりますが、こう申し上げてはなんですが、いわば「時のはずみ」でいただけたような感じで、今回の認定は子供のころのあこがれがひとつ叶い、とても嬉しく存じております。今回、第10次ということで、俳優さん14名、音楽9名、狂言作者さん1名と計24名の皆様が新会員に認定されました。皆様それぞれの思いで認定書を受取られたことと存じますが、私は申し上げたような感想でございました。

 14:30を期して、伝統歌舞伎保存会の会長であられる4雀右衛門丈の楽屋に一同参集し、俳優さんから順に認定書を授与されました。「認定書。○○殿、以下同文…」というあとに、ひとことおことばが添えられ、一番最後に頂戴しました私には、「いつも舞台でご一緒して、私はあなたとおなじ年齢のつもりで勤めております。しかしやっておりますとあなたの方が私より年上に思えてきます。これからもなくては歌舞伎ができないお仕事ですからご精進ください」というようなことをおっしゃっていただきました。全員で記念写真をということで一同認定書を持ちまして並びました。ちょうど楽屋のモニターから『組討』の「エイエイオー、エイエイオー」と勝どきが聞こえる中シャッターが切られまして、お開きとなりました。


関連のサイトをお取次ぎさせていただきます。
伝統歌舞伎保存会 http://www.bestlife.ne.jp/kabuki/
文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/toushin/010602.htm
好奇心(2001/8/24)

 よく人様から、「調べ物がお好きなんですね」などと言われることがございます。別段、学究肌とか博覧強記と申すわけではございませんが、興味の湧くことについては、ずいぶんとしつこく調べることがございます。そのかわり、そうでないものにつきましては、無知でございまして、楽屋で皆様に教えていただいたりいたしております。

 私の場合、一生の仕事として選んだ、この歌舞伎義太夫というものが、さいわいにして、私の一番の好奇心の対象でありつづけておりますので、自然、生活の中で周波数を合わせている時間が長くなる、ということになります。

 思いますに、自分の専門分野には「常にアンテナを張る」ということが、とてもたいせつなことではないでしょうか。楽屋におりましても、師匠方のお話や身のこなしに反応し、適切な行動をとるということが、芸の習得や、舞台における機転につながります。私は米太夫師に「お前ねぇ、楽屋にはいっぱい芸の落し物があるんだ。そしてそれは拾っても罪にならないんだよ」とお教えいただきました。松三郎師も「何か先輩の話で、これは役立つなと思ったら筆記しておくんですよ。若いからっていっても、忘れちゃうこともあるからね」とおっしゃいましたが、落し物も落ちておらず、記憶もいささか減退気味の今になって、そのお教えのありがたさをなおさらに感じます。

 ワープロを使い始めましたころ、盛んに芸のお話を入力いたしました。ただいま読み返してみますと、忘れていたお話も書いてございます。パソコンに移行いたしましてからは、ともかく気になったことを書いておこうと、エクセルを使いまして、「投げ込みメモ」と申すファイルをつくり、分類は後日ということにして、入力いたしております。昔でしたらカードによる整理なのでしょうが、私はこの形式が長続きいたしております。このような作業をしたいがために、ワープロやパソコンの操作をおぼえたのですが、十数年前の私をご存知の方からは、およそ、パソコンを扱う私の姿が浮かばないことと存じます。現に、このサイトへのご感想文の中には、舞台の私とキーボードを打っている私とが結びつかない…とおっしゃる方もおいでです。ワープロの出始めには、内心「あんなもの」と思って敬遠しておりました私ですが、いまやワープロさまさま、パソコンさまさまであります。

 先日、『化競丑満鐘』の丸本を読んでおりましたときに、「オオカミの糞」が文中に扱われておりました。「薬屋に売ればお金になる」「かがりびに投げ込んでのろしとなる」などの記述ですが、そういう伝承があるのかしらんと、調べましたが手持ちのものでは判りませんでした。そこでインターネットの検索エンジンに「オオカミ」と「糞」を入力して調べましたら、あるわあるわ…。改めてインターネットの学恩に感謝いたしました。私はCD-ROMの平凡社世界大百科事典を愛用いたしておりますが、こちらも、関連事項の表示をクリックいたしますと、そちらの記事に移行でき、次から次へ思いがけない関連が生まれ、楽しく過ごすことができます。

 このごろ「ことばの表情」ということをよく考えますが、こうして調べてまいりますことが、いつしか表情になるような気がいたします。
朝顔(2001/8/18)

 毎朝の日課に朝顔の水遣りがございます。今年の朝顔は、歌舞伎の専門誌『演劇界』の編集長、小宮様から頂戴したもので、いささかの曰くがございます。

 6歌右衛門丈が逝去され、4月2日、ご自宅でのお通夜にお参りいたしました。私は大阪松竹座出勤中でしたので、役を終えてから新幹線に乗り、自宅で着替え、お参りし、また新幹線で大阪に帰りました。このとき、岡本町から二子玉川の駅に戻りますのに、タクシーがなかなか来ませんで、ようやく乗ることができました。しばらく行きますと、歩いて駅までおいでになられるご様子の皆様が目に止まりましたので、駅までよろしければと、窓から申し上げました。このとき小宮様がおいでになられたのですが、後日まで覚えていてくださり、先日、朝顔市にいらしたときに、宅急便で朝顔の鉢をお送りくださったというわけであります。ですから、朝顔の水遣りはささやかな親切のたいせつさ、また、そのことに感じてくださるお気持、そして、6歌右衛門丈へのご供養…いろいろなことを思わせてくれます。

 私はだいたい朝が好きですから、前夜遅く寝付きましても、6時には起きてしまいます。窓を開け放ち、洗面し、神棚にお水を上げ、パソコンの電源を入れ、そして朝顔の鉢の水遣りをいたします。鉢についております「入谷 朝顔市」のタグには、「日中、葉のぐったりしたときにたっぷりのお水をやってください。米のとぎ汁か日なた水が最適」というように書いてございますが、日中は出かけますので、朝たっぷりとお水を上げております。実に次から次へと花をつけ、目を楽しませてくれます。蔓も勢いがよろしく、鉢の枠(何と申すのでしょう…)にからめただけでは窮屈そうなので、ベランダの柵にからめております。

 以前、私も朝顔市に参ったことがございました。朝顔というくらいだから、朝行かなければどんな花が付いているのか解らない…と早起きし、求めましたまではよろしかったのですが、あとがいけません。日比谷線の通勤ラッシュの時間帯で、北の方から、よくもまあこんなに次から次へ人も乗ってくるものだというくらい本数が来るのですが、もちろんいずれも満員。朝顔の鉢を持って乗り込むなど、とてもとても…。ようやく隙を見つけて乗りましたが、あとで楽屋で「それは無茶だ」と言われました。いわゆるラッシュの時間帯に電車に乗ることなくすんでおりましただけに、世間を知りませんでした。その鉢は手入れがよくなかったのか、あまり花を持ちませんでしたので、今回は「こんなに花が付くものなのか…」と感心いたしております。

 まだまだつぼみがあり、楽しみなことであります。
散歩 谷中の雨(2001/8/17)

 先日、思い立ち、谷中界隈を散歩いたしました。

 目当ては「朝倉彫塑館」のお庭であります。日暮里駅で電車を降り、両側に昔の風情を残した店舗の点在する御殿坂を登り、左折いたしますと、ほどなく彫塑館の前に至ります。私はあまり彫刻という芸の教養がございませんのですが、館内のお作はじっと拝見いたしておりますと、その人物の考えまでもにじみでてくるように感じられます。九代目團十郎丈や双葉山関の彫像もございます。館内は普請道楽の朝倉文夫先生のご工夫が随所に見られ、建物自体がすばらしい芸術と存じます。書斎や蘭の温室、客間の結構など、「お座敷拝見」を楽しむことができます。私は特にこちらのお庭「五典の水庭」が大好きでして、以前訪れたときから、また伺いたいなと思っておりました。夏の時分は雄大な石組みと満々たる池の清水を座敷から眺め、しばしぽかんといたしますのが心の滋養になるような気がいたします。朝倉先生の居間であったお部屋に座って、しばらくお庭を眺めておりますと、うす曇りであった空がさらに暗くなり、猛烈な雨が降り始めました。職員の方が急いでガラス戸を閉めたり、縁先にビニールを掛けたり奔走されましたが、私のおりました居間はさいわいにして対象外で、心ゆくまで池にふりそそぐ雨を楽しみました。昔、6菊五郎丈が京都のあるお寺を訪ね、「ここは時雨が結構なのですよ」と人に言われましたら、途端に時雨がまいてきて、「親切な寺だ…」とおっしゃったという故事を思い出しました。雨が激しくなってまいりますと、今まで姿を見せなかった池の鯉がさかんに跳ね、にぎやかなことでした。しばらく雨は降り続き、やがて小降りとなりまして、やみました。なにか芝居の一幕を見終わったような感じがいたしました。

 彫塑館を出まして、少し界隈を散歩して帰ろうと、山岡鉄舟先生・三遊亭圓朝師ゆかりの「全生庵」を訪ね、それぞれのお墓にお参りいたしました。圓朝師の辞世は「耳しいて 聞き定めけり 露の音」という、実に深みのございます結構な句であります。本堂の脇で「幽霊画展」を開催中でしたので拝見いたしました。ときおり書物・雑誌等で紹介されておりますが、現物を拝見するのは初めてでした。わりあい明るい室内でしたから、凄みはあまり感じられませんでした。しかし、家に帰って夜中のお手洗いに行けなくなるようではいけませんから、程々というところでしょうか。

 「いせ辰」で千代紙の珍品「猫の義太夫寄席」を拝見して、車で池之端に出ました。おりしも不忍池の蓮が咲き始め、神秘的な景色でございました。「蓮玉庵」でおそばをいただき、夜からの稽古のため、楽屋入りいたしました。夏の昼下がり、楽しい散歩でありました。

 翌日、国立小劇場で開催されました「音の会」を拝見にまいりましたら、ロビーでたまたま朝倉摂先生にお会いしました。「昨日、彫塑館へ伺いました」と申し上げましたら、びっくりしておいででした。私も、年に数えるほどしかお目にかからない先生に、翌日お会いするとは思いもかけず、なにかご縁を感じた次第です。

 こんどは雪の日に、また彫塑館のお庭を拝見いたしたいものだと考えております。
喰っちゃあ寝(2001/8/5)

 休日を利用いたしまして、8月3日から、ひさびさにて故郷、伊豆大島へ帰省いたしました。

 羽田・大島間は日本近距離航空が就航していますが、ながらく64人乗りのYS-11でしたのが、さらに小さいダッシュエイト300という、椿の花を機体に描いた、56人乗りの機種に変わっていました。8:15に飛び立ち、8:50に大島空港着の予定でしたが、天候の具合か何かで少々遅れて到着。母が車で迎えに来てくれていました。大島というところは潮風のため、すぐに車が傷む土地でして、上等の車には皆さんあまり乗っておられません。わが家の場合は実用一点張りですが…。

 実家へ帰り、まず庭に祀ってある小祠、仏壇にお参りいたし、父母とお茶を飲みながら近況を語らい、祖母の家に向かいました。大島では、商売をいたしております父母の家でなく、緑に囲まれた祖母の家の方が落着きますので、いつもそちらに滞在いたします。昼前、お風呂を立ててもらい、ゆっくりつかりました。窓から青々とした桜の木が見え、いい気分です。上がってから昼食。近所の方が作られたトマト、くさやの干物、祖母が漬けたきゅうり、などをつまみながらビールを飲み、ごはんと味噌汁で満腹になりました。食後、蝉時雨の中、昼寝をして目覚めますと、祖母も昼寝をしておりました。実にのどかなものです。起き出して、少し町中を歩こうと出掛けました。農協の売店で「大島バター」を発送してもらい、坂になっている町を、浜の方に下りて行きました。海岸は、このごろ遊歩道などができて整備され、歩きやすくなっております。護岸のコンクリートの上には、ところてんの原料となるテングサが干してあります。しばらく歩きますと、昔、地引網を引いたという地引浜に出ます。ここは青海亀の産卵地で、看板で注意を呼びかけています。もう時刻も17:30で海に入っている人もまばらでした。両側を防風のために植栽された、竹やぶの道を上りながら町中に戻り、実家に立ち寄りました。ちょうど母はトコブシを煮付けているところでした。私はこのトコブシが大好物で、帰るとかならず用意してくれています。それができあがったので、持って祖母の家に帰り、入浴してから夕食となりました。そこへ、近所のおばさんが見え、世間話となりました。「町営の火葬場は、重油から電気に変わり、早く焼けるようになったらしい」とか「信ちゃん(私)の同級生の〇子ちゃんは、旦那と離婚してから新しい彼ができたらしい」など、いろいろな情報をもたらしてくださいます。22:00には眠くなり、こてっと寝てしまいました。

 翌日は、「カナカナカナ…」というヒグラシ蝉の鳴声で目が覚めました。時計を見ると4:30。いかに早起き好きな私でも、まだ早いかな…と思いましたが、思い切って起きてしまい、入浴。浴後、庭の縁台に腰をかけ、緑を眺めながら缶ビールを飲みました。休日の朝の儀式であります。さすがに、裸でビールなど飲んでおりますと、蚊が寄ってくるので、廿四孝の孝子など気取っていられないと、蚊取り線香を点けました。すると、祖母が掃き集めておいた落ち葉の山が目に付いたので、これをくすべて、蚊を追い払ってやれと、たき火を始めました。祖母も寝床からちらちら様子を見ていたようですが、私の手際が気に入らず、寝間着のまま起き出して、点火を手伝ってくれました。そのうちに、「寝ていられない!」と、着替えて本格的に起きてしまいました。都会では、よほどの敷地がないと、たき火などできませんでしょうが、たまにこうしていたしますと、なにか気がはればれいたします。以前は、5:30ころになると、薮鴬の鳴声で目を覚まされたのですが、このごろは、どこへ行ってしまったのか来なくなったと祖母の話。残念だなと思いつつ、口笛で鳴きまねをいたしますと、近くで「ケッキョ、ケッキョ…」と鳴いております。どうやら、代が替わったらしい。そのうち、朝食をとり、またも朝寝と決め込みました。「喰っちゃあ寝、喰っちゃあ寝」であります。昼食は、さすがにあまり空腹感がなく、近所でいただいたトウモロコシをゆでたもの、昨日、トコブシとともに、もぐってとっていただいたサザエの壷焼きでした。朝食のときには、生卵をごはんに掛けましたが、これもご近所からのいただきもの。お互いに、収穫したものを分け合う、昔からのお付き合いが続いております。食後、お風呂を掃除して水を張っているあいだ、祖母といろいろ話しておりましたら、浴槽からあふれさせてしまいました。大島では水を大事にする慣わしがあり、もったいないので、バケツに汲み入れ、庭に撒きましたが、80歳の祖母が、バケツの水をザバーッと撒くありさまは、なかなか頼もしいものでした。夕方涼しくなってから、親戚に挨拶に回り、先祖代々の墓にお参りいたしました。その足で、行きつけのお寿司屋さんに立ち寄り、そのあと、浜辺にある「御神火温泉」というクアハウスに寄りました。全身浴・ハーブ湯・寝湯・打たせ湯・サウナなどがあります。知らないうちに表は雷雨となり、母が心配して車で迎えに来てくれました。植木がかわいそうだと、祖母など渇望していた雨でしたので、幸いでした。しかし、降るとなったらたいへんな豪雨で、なかなか、ほどほどとはまいりません。懐中電灯で道を照らしながら帰ってくると、祖母の家の入り口のコンクリートに大きなガマガエルが鎮座しています。私はこの系統の生き物が苦手で、おそるおそるよけて通りました。ふだん、どこにどうしているのか、毎年、夏になると祖母の家に現れるのです。まったく、大島にまいりますと、いろいろ珍しいものに出会えます。

 野口雨情先生作詞の「波浮の港」という歌は、~\磯の鵜の鳥ゃ日暮れにゃ帰る…(実際は大島に鵜は棲息いたしておりません)」という歌詞で、皆様ご存知のお方もおありと存じます。この、何番でしたかに、~\島で暮らせば乏しゅうてならぬ…」という歌詞がございます。なるほど祖母の話を聞きますと、今の暮らしとは比較にならぬほど、昔はいろいろなものがなかった…。今の暮らしさえ、東京で暮らす私には、「乏しゅうてならぬ」観がございます。しかし、流れている時間は、都会ではけっして求めることのできない、心おちつく、のどかな時間であります。二泊三日の帰省は、実によろしい加減の息抜きでありました。
禁断の果実(2001/8/5)

 宇都宮市在住の劇評家であられる、清水一朗先生からのご依頼で、8月2日、鹿沼市の無形文化財、「奈佐原文楽」上演用に「絵本太功記:尼ヶ崎の段」を録音いたしました。当初は地芝居用の竹本を録音してくれとのご依頼かと思い、お受けしたのですが、よくよくお話を伺ってみますと、なんと、人形芝居上演用の本行素浄瑠璃とのことで、三味線の慎治君ともども、おおいにあわてました。私どもに本行の浄瑠璃を語れというのは筋違いで、しかるべきお方のほうがよろしいのではと、申し上げたのですが、ご懇望で、これも勉強と思い、やむなくお引き受けいたしました。

 私は17歳くらいに、女流の越道師から「尼ヶ崎」切場の操のクドキまで、1991年に9綱大夫(当時、5織大夫)師に同じく~\ただ茫然たるばかりなり」までをお稽古していただきました。そのおりのことを一生懸命復習し、なおかつ山城少掾師の録音を拝聴し、後半を勉強いたしました。慎治君は、大阪まで出向き、鶴澤清介師に習われました。こうして準備いたしてまいりまして、いよいよ鹿沼市の市民文化センターでの収録にこぎつけました。私どもの方では、「あまり本行の語り方にこだわると竹本らしさが薄れる、芝居の邪魔になる」と申しまして、手ほどきや声修業には本行を稽古するのはよいが、舞台に立つようになったら、本行から離れたほうがよい、とされております。この「竹本と本行の関係」につきましては、別の機会によくよく考えてみたいと存じておりますが、それにしても私など、本行の浄瑠璃を一段、舞台で語った経験がございませんので、今回のお仕事はたいへんにありがたい機会でございました。

 文化センター大ホールの舞台中央に、演奏する台を設置してくださり、見台の前にマイク。客席は咳など入らぬようにお人払いで、清水一朗先生ただお一人。客席の電気も消され、正面は闇であります。録音技師の方は下手の鳥屋のところに機器をしつらえ、舞台には私と慎治君ただ二人…。だいたいあつかましいと申しましょうか、あまり舞台のことにかけては動じません私ですが、この数日来、気にかかってきた仕事が、いよいよ最終段階に入ると思いますと、固くならざるを得ません。「では、よろしければ」とのことで、慎治君がオクリを弾き始めました。語り始めてみますと、広いホールの舞台で、自分の意志と関係なく、浄瑠璃の時間が私を引っ張って行くようで、後ろを振り返ることもなく、~\月もる片びさし」まで語り、一度、区切りを付け、再開。今度は~\波たち騒ぐ如くなり」の大オトシまで。そして、あとは段切までと、三分割して収録いたしました。

 一段語り終わり、やはり、本行の切場は、なみたいていの技量・体力では勤まらない…浄瑠璃は語れるように手順ができている…手負いが出てくると太夫は楽…などなど、今まで知識として伺ってきたいろいろなことを実感できました。また、ふだん語りませんコトバ(セリフ)も語りましたので、これは存分に語れたら、さぞ楽しかろうと思いました。よく人に「文楽のようにコトバを語れなくて、竹本の仕事は不満ではないですか」と尋ねられますが、たしかに、できるできないは別として、コトバを語るおもしろさに、いささか目覚めましたようです。この録音は奈佐原文楽で「尼ヶ崎」を上演するときだけ、再生されるというものですので、皆様のお耳に届くことは、まず、ございますまいと存じます。しかし、たいへんでしたが、終わってみますと、「禁断の果実」を食したような感じもいたします。素浄瑠璃…こののち、どのようにかかわってまいりますことか…。

●奈佐原文楽につきまして●

 江戸期から宿場町として栄えた奈佐原の地で、伝承されてきた人形芝居です。栃木県の重要無形文化財に指定されています。現在では鹿沼市奈佐原町の文楽保存会・文楽座の皆様により伝承されています。

 義太夫を演奏する方もお仲間うちにいらしたらしいのですが、没後は別の一座の方に客演していただかれ、さらに、そのお方の録音によって上演されたらしいのですが、テープの劣化で新しく入れなおそうということで、今回のご依頼があったわけです。
歯磨きのチューブ(2001/8/1)

 毎日かならず手にいたしますもののひとつに、歯磨きのチューブがございます。残り少なくなってまいりますと、最後のひと絞り…といろいろな角度から押し出します。そういうとき、ふと思い出すお方がございます。常磐津宮尾太夫というお方で、永年、千東勢太夫師のワキを勤めておいででした。私は最晩年しか存じ上げないのですが、周囲の皆様は「味のある常磐津」「古風な語り口」と評価しておいででした。

 地方巡業で常磐津の皆様と楽屋がご一緒のおり、勘寿太夫師に発声についてのお話を伺っておりましたときに、この宮尾太夫師のお話が出ました。あだ名を「歯磨きのチューブ」と申されたそうで、語っておられまして、もう声が続かないかな…というときに、もうひと絞り出てくるというもの。このお話に私は感心いたしました。プロの演奏家はこうあらねばならない…と。

 私は息が短いのが悩みです。なんとかそれが傷にならないように気をつけて語るのですが、肝心のところへ来るまでに「皆になってしまう」のです。この「皆になってしまう」というのは「すべてを使い果たしてしまう」ということを言ったものです。それとくらべますと「最後のひと絞り」はたいしたものです。声の使い方、また、体の使い方から編み出された技術でしょうが、なんとか工夫して身に付けたいものだと思います。

 このごろはチューブも絞りやすいラミネート製ですが、昔の銀色のものを思い浮かべていただいた方が、このお話にふさわしいように存じます。
それにしても「歯磨きのチューブ」、勲章のようなあだ名だと思います。
宿 ニューさがみや(2001/7/29)

 7月興行を打上げ、休みに入りましたので、80歳になります祖母によろこんでもらいたいのと、私自身の癒しを兼ね、中学二年生の息子と三人で、伊豆山温泉にでかけ、とても結構なお宿に泊まりました。

 私はいわゆる「おばあちゃん子」で育ちましたので、祖母には「楽しいことをできるだけ感じて、大往生してもらいたい」、と思っております。今回は大島在住の祖母が出て来やすい場所ということで、いくつか考えておりましたところ、あるお客様の行きつけ、この『ニューさがみや』さんを教えていただきました。頂戴したパンフレットを見ておりますと、なかなかお手ごろな価格で、さらにそちらのHPを拝見するにいたり、即決。E-mailで予約をいたしました。

 千穐楽の翌日、休みの日の「儀式」であります朝のビールを楽しんでから、息子と踊り子号で熱海へ向かいました。熱海駅から港まで、途中、あっちへひっかかり、こっちへひっかかりしながら、坂をぶらぶら下りていきました。港で大島から高速艇でやってきた祖母を迎え、昼食のあと、『起雲閣』を見学し、14時過ぎ、伊豆山の宿へ入りました。台風の接近で曇っていたので暑くなかったのが幸いでした。

 チェックインいたしますと、星野副支配人様がご挨拶においでくださり、お部屋のことでもいろいろご配慮をいただきましたのは、ご紹介くださったお客様のおかげで、ありがたいことでした。このお宿は伊豆山の海岸べりに立地し、道路を隔ててすぐ海。全室「オーシャンビュー」であります。私どもは最上階7階に入れていただきました。部屋に落着きますと、大きくとられた窓からは、左に真鶴、眼前に初島(晴れると大島)、右に熱海・網代が望めます。フロントで渡された印刷物に「チップ拝辞」の旨が記されています。たしかに、「いくら包もうか…、この方が係かしらん…」などと気を遣うので、ありがたいことです。

 ひと息してから、早速屋上の露天風呂へ。相模灘を見渡し、気分爽快であります。高みから海を眺めておりますと、前日まで勤めておりました『俊寛』の幕切れが思い出されます。去っていく赦免船をいつまでも呆然と見守る俊寛…。そんなこんなを考えたり、ぼーっと波を眺めていたりしているうちに温まりました。部屋に帰ったら、祖母は鍵を持ったまま、まだ帰っておらず、それではと、1階の大浴場へはしごいたしました。こちらは「うたせ湯」の力強さが気に入りました。湯上りのサービスとしてラウンジでソフトドリンクの無料接待があり、息子はアイスコーヒー、私は(有料ですが)ビール。ここからも海が見え、台風接近でいささか高くなって寄せる波を飽かず眺めておりました。部屋に帰ってからタオルを干そうと思い、部屋の風呂場に入りましたら、浴槽は小さいながらも、窓が大きくとってあり、ここでも海が見えます。食事までの手持ち無沙汰な時間、お湯をためて文庫本を持ち込み、ゆっくりと浸かりました。

 もうここまでで、すでに「いい宿だ…」と印象付けられており、「料理がまあまあでも、それはそれでいいや…」と思いつつ、夕食になりました。しかし、これが実にみなおいしく、味付けも薄味で上品なものでした。祖母は何度「あー、おいしい」を繰り返したことでしょうか。食後しばらくして、祖母は温泉地お約束のマッサージを楽しんでいましたが、私はいつしか満腹感で寝付いてしまいました。

 翌朝、このお宿の名物、「ご来光を望みながら露天風呂で入浴」は早起き人間として外せないことで、フロントにお願いしておいた「ご来光コール」が4時半過ぎに掛かってきました。「本日は雲が厚いですが、真鶴の方から上がり始めました」とのお電話で、それっ、と屋上の露天風呂へ。家族用の露天風呂が3室あるのですが、空いていたので、そこから柏手を打ってご来光を拝しつつ、朝の入浴を楽しみました。祖母も私の起き出したあと起きて、楽しんだようです。普段の私は、それからすかっと起きてしまうのですが、休日のことでもあり、のんびりと朝寝を楽しみました。

 朝食も、もりもりおいしくいただき、館内や近所にある「走り湯」などを見物し、11時チェックアウト。日本旅館は10時チェックアウトが多いようですが、11時ですと朝の1時間は、ずいぶんゆとりが違います。駅まで宿のマイクロバスでお送りいただき、タクシーでいささかの熱海見物をしてから、「あー、長生きしてよかった…生き延びた…」と申しながら、祖母は大島へ帰っていきました。

 わずか一泊二日の温泉旅行でしたが、なかなか充実した旅でした。このところ、見物よりも宿を楽しむ傾向の強い私ですが、今回のニューさがみやさんは皆様にお薦めできるとても結構なお宿であります。私如き者が申し上げなくても、心得た方はご存知でしょうが、どうぞ、いちどお出かけを。

http://www.atami-sagamiya.com/



そのほか 旅の断片

『温泉饅頭 延命堂』
大湯の近所に本店あり。息子と1個ずつバラ売りを食べようと思って頼みましたら、冷茶をいれてくださいました。親切なお店です。帰りに駅のなかの支店で買って帰ろうと思ったら、お店のおばあちゃんが、とうとうと来歴をお物語りくださいました。「今は三代目ですが、初代さんは本業はお菓子屋ではなく、銀行をやっていました。熱海の漁師さんに無担保でお金を貸してあげて旅館なんかを建てさせてあげたんです。その人たちも代が替わって初代さんから受けた恩を今の経営者の人はご存知ないんです…」。もっと伺っていたかったのですが、お勘定を待っているほかのお客様と、われわれの帰りの電車の時間のために、さっさと買って辞去。

『熱海大湯間欠泉』
駅前にございます機関車と並んで溶岩のあいだからぶくぶくと噴き出る温泉…と思っていたら大間違い。休止のときに行き合わせ、説明板を読んでいましたら、突然「シューッ!」と噴出し、思わず「おーーっ」と身を引きました。もうもうと上がる蒸気。なかなか大したものであります。近所の元・本陣では入浴休憩もでき、次回は入ってみようかしらんと思いました。

『そば 鳳家』
銀座のバーのマスターに「葵さん、熱海に行くんだったら糸川においしいおそば屋さんがありますよ」と教えられたお店。手打ちでおいしいおそばでした。ここで知る人ぞ知る熱海の名士、「のり平」さんにばったりお目にかかりました。故・藤太夫師未亡人(置屋経営、ご自身も芸妓)が「『熱海は東京の奥座敷』ということがわかるお店」とおっしゃって、随分前にいちどお連れくださったゲイバー(と申し上げてよろしいのでしょうか)のご主人で、歌舞伎をよくご覧になっておいでです。就業中は女装なさるのですが、昼は普通の男性で、ふっと目が合い、「はてな、どこかでお目にかかったお方だが…どなただったか」と思っておりますうちに、あちらも「あらっ」(とおっしゃったかどうかは解りませんが)と気づいてくださり、「おひさしぶりですねぇ」とご挨拶いたしました。あとで祖母と息子にどういうお方なのか説明いたしますのに苦労しました。ちなみに、このおそば屋さんをお教えくださったマスターも…ゲイです。

『起雲閣』
もともとが根津嘉一郎様の別荘をお宿にして営業されていたものが廃業され、それを熱海市が買い取り、ただいまでは博物館のような感じで公開しています。私はいちど泊まってみたいと思いつつ果たせませんでしたが、なかなか素晴らしいところであります。とくに、サンルームが気に入りました。各部屋を担当の係の女性がご説明くださるのですが、サンルームの係の方は「ごめんあそばせ」調で実に楽しく拝聴いたしました。

『熱海城』
歴史的なものでなく、近年の建物で、今まで熱海を訪れることはあっても登城したことはありませんでした。また、そのつもりもありませんでしたが、祖母の「この歳まで登ったことがないから行ってみたい」という要望で出かけました。感想は…とくに申し上げません。甲冑の展示コーナーで、赤穂浪士の討入の折、内蔵之助がかぶっておりますものは火事場用のもので、鉢が熱を持たないように鋼でなく、革や和紙を貼りあわせた一閑貼りでできており、錣も付かずビロードの布が付いているのは水を吸わせて熱気を防ぐためとのこと。勉強になりました。その後、近くの岬公園のティールームで憩いました。窓の外にやたら鳶が飛翔しています。野生の鳶を餌付けしているのだそうです。いつもは大空高く飛んでいる姿しか見たことがなく、近くで見ますとなかなか迫力があります。「とんびにあぶらげさらわれた」なんて可愛いものではなく、近づかれたら私など逃げ出してしまいます。ここから、ロープウェイで熱海後楽園ホテルのところへ降りるのですが、乗り口のところに『熱海秘宝館』というのがございます。子供のころ、夏の恒例の家族旅行は、かならず熱海に最後に一泊して大島へ帰るのがお約束でしたが、いつもこの『秘宝館』は無視されていました。子供としては「秘宝」なんてどんな面白いものがあるのだろうと思っていたのですが…。やはり、中学二年生の息子同伴では無視せざるを得ません。

『熱海後楽園ホテル』
タワー館最上階(18階)のレストランはランチのお値段も安く、景色を眺めながら簡単にお食事するのには手ごろだと思いました。夜はさだめし夜景がきれいでしょう。

 あいかわらず、とりとめのなき散らし書きとなりました。熱海は物心ついてからは家族旅行、この世界に入りましてからは、在住の藤太夫師のご縁で大島への行き帰りに立ち寄りました。藤太夫師は桃山町と申します駅の裏の高台にお住まいでした。今はそのお住まいには別のお方がお住まいですが、駅からその建物を懐かしくしばし見上げておりました。
梅干(2001/7/26)

 私は梅干をいただけませんでした。そして、ただいまも、どちらかというと好んでいただきません。おにぎりが何種類かあると、梅をよけていただきます。しかし、いつでしたか、おいしいおにぎりで、梅の分を残すのがもったいないと思っていただきましたら、実においしくいただくことができました。それ以来、大ぶりで肉厚、少し甘味のあるものでしたら歓迎…という勝手な梅好きになりました。

 今年は暑気ことのほか厳しく、いわゆる「夏ばて」をせぬようにと、知人から梅干を頂戴しました。毎朝の食事のほかに、楽屋の冷蔵庫に瓶詰めして置いておき、舞台の後にふた粒いただいたりしました。そのおかげか、暑さでまいることもなく、元気に過ごしております。体調を整えるためのお薬もいろいろあるようですが、それより、古来の食品をいただいて、「これでだいじょうぶ」と体に思い込ませた方が、なにかよろしいような気がいたします。

 ただいまの時期は、収穫した梅の実をからからに干し上げる「土用干し」の最中で、京都の北野天満宮では正月の「大福梅」用に八月下旬までその作業が続くとのことです。『櫓のお七』の前段に「お七部屋(通称:炬燵)」という場が舞踊会で出ることがございます。成立についてよく存じませんが、そのなかで、~\無理を湯島の神さんへ、梅を断ちたる逢瀬さえ…」という詞章があります。恋する吉三郎に逢いたさに、かわいやお七さんは、好物の梅干を断って湯島天神へ願掛けをなさったのですね。

 話がそれからそれへと飛躍しておそれいりますが、ただいま東京国立博物館で『天神さまの美術』展が開催されております(8月26日まで)。私は5月に京都で拝見いたしましたが、天神様への信仰の篤さを感じさせられる品々が多数ございます。来年は天神様没後1100年だそうで、文楽・歌舞伎で『菅原伝授手習鑑』ばやりではないかと思われます。通しで出ましたらどこの場が当たりますか…。
祇園祭(2001/7/21)

 永年あこがれているものに祇園祭見物がございます。芝居に入りましてから「おりがあれば…」と毎年思うのですが、叶いません。7月は東京歌舞伎座の3猿之助丈奮闘公演が本年で31年連続。私も1980(昭和55)年から21年連続で出演させていただいておりますので、叶わぬも道理であります。

 そんな私のことをお気遣いくださり、京都のお客様が毎年山鉾巡行の17日を過ぎますと、かならず「粽(ちまき)」をお送りくださいます。お客様の次男様御一家が「鶏鉾」の鉦方と笛方に毎年ご奉仕なさっておいでなので、そのご縁であります。粽のおまつりの仕方もいろいろあるようですが、半紙でくるみ、紅白の水引をかけ、玄関の内側の桟の上につるしておまつりいたしますことで、出入りのときに清められるというやり方を推奨くださいます。

 また、本年は知人が仕事の関係で鉾町の近所に転居されたので、毎日メールで様子を知らせてくださいました。巡行の日には四条河原町の「辻廻し」の様子を携帯電話で実況中継くださいましたが、囃子の音や掛け声が加わり、実に臨場感あふれるものでした。

 この時期、インターネットで京都新聞のサイトを拝見いたしますと、毎日、祇園祭関連の記事が掲載されております。読んでおりますと、うずうずしてまいります。役をすませて、新幹線に飛び乗り、「宵山」だけでも見物して早朝に帰京しようか…とも思いましたが、この暑中にくたびれが出て、舞台にさしさわってはいけないと、断念いたしました。知人の話では「宵山もいいけど、山鉾巡行を見ないとねうちがない」そうで、当初「京都はいやだ。東京に帰りたい」と言っておられた知人も「ほんの少し京都が好きになった」そうであります。

 3猿之助丈の奮闘公演50周年が終わってからなら、いちどくらいお休みがいただけるかな…と考える次第であります。
お扇子(2001/7/13)

 この暑さで、皆様お扇子をご使用になられておいでのこととと存じます。「夏炉冬扇」などと申しますが、私どもでは一年中お扇子を用います。だいたいが、ほてりを冷ます実用としての役目です。ご挨拶のときの結界に前に置く…などというご挨拶はあまりいたしませんので儀礼的な面での出番は滅多にございません。ときとして、自分で語りのお稽古をいたしますときに拍子をとったりもいたします。

 私はお扇子が好きでして、自分の好みに合うものを見つけるため、よくお店をのぞきます。ただいまは暑気厳しき夏場のことであり、実用一辺倒の「渋扇(しぶおおぎ)」を持ち歩いております。これは、浅草の文扇堂のお品で、何種類かあるなか、お芝居の小道具で出てまいりますごくお古い形のものです。「髪結新三」の弥太五郎源七が花道でばさっと開くあれです。子供の頃、テレビ中継で白鸚丈のそれを拝見してから「あのお扇子が欲しい…」と永年あこがれておりました。めずらしい子供だと思います。先日求めたばかりなのですが、まだ開閉がなめらかでなく、軽く「ザラッ」と開くまでしばらく使い込まねばなりません。ほかにも気に入っておりますものがいくつかございますので、気分で使い分けております。

 不思議なもので、お扇子はなぜか気に入ったものほど早くなくしてしまいます。私は物に執着心が強い方だと思いますが、お扇子だけはなぜかなくしてしまいやすいのです。先日、京都の十松屋(とまつや)福井というお能の扇を扱うお店で、大ぶりで骨も美しく、使いやすい結構なお扇子を求めたのですが、いくらも使わないうちになくしてしまい、惜しいことをいたしました。

 襲名等の慶事には、そのご挨拶の品としてお扇子がつきものです。仕事柄、いろいろなお方から頂戴いたしますが、なかなか息の合うものに出会えません。丁寧なお家ですと大ぶりと小ぶりを組になさり、「夫婦(みょうと)」でくださいます。このごろはその中間サイズが主流ですが、いまひとつ使い勝手が良くなく、しまいこんだり、人に差し上げたりしてしまいます。来年からご案内のとおり襲名ラッシュとなりますが、大名跡ばかりですので、お配り物も華やかなものとなることでしょう。こちらも「御祝準備預金」をしなければいけません…。


橘屋の旦那(2001/7/10)

 7月8日、17市村羽左衛門丈が逝去されました。初手術から復帰された折、「あんたみたいに元気な癌の患者は見たことがないって先生に言われたんだ」と楽屋でお話しになっておいででした。

 私は菊五郎劇団の扇太夫師の前名を継いでいるものですから、旦那は劇団の太夫となることを期待されておられました。一時期、3猿之助丈の舞台ばかり出ておりましたころ、楽屋の廊下でお目にかかると、「おい、葵太夫。早くうち(劇団)へ帰ってこいよ」とお声を掛けていただいたりもしました。

 菊五郎劇団には、昭和30年代まで鏡太夫師というご立派な師匠がおいでになり、俳優さんから尊敬されていました。なにしろ、6菊五郎丈と互角に渡り合ったという師匠ですから、当時若手の羽左衛門丈は、いろいろなことを教わられたそうです。鏡太夫師は引退されてから、河内長野の山奥でひっそり暮らしておられたのですが、相三味線だった松三郎師が訪ねておいでになると、「おれが死んでも誰にも知らせるなよ。ただ市村だけには知らせてくれ」とおっしゃったそうで、ずいぶん羽左衛門丈には目を掛けておいでだったのでしょう。私にも稽古場の控室や楽屋で「鏡さんからこういうことを言われた…」というお話をしてくださいました。「鏡さんにね、『若旦那は声がよろしい。しかし、その声をすべて使いきろうとなさるから一本調子のセリフになってしまう。六代目のように声の悪い人は少ない声で何とか乗り切らなければいけないから、セリフに工夫をされるんだ』って言われたんだ。お前(葵太夫)もおれと似たようなところがあるから、おぼえておきなさい」というように…。

 また、ある俳優さんが稽古のとき、私どもにずいぶんと「そこはそうじゃない、ここはこう…」とおっしゃったことがございました。すみましてから、「○○がああ言っていたけど、それは注文だよ。お前たちの覚えてきたのはそれでいいんだ。それはそれできちんととっておいて、今月は○○のやり方にしてあげなさい」とおっしゃっていただいたことがございます。

 1994年4月、国立劇場で『義経腰越状』の「泉三郎館(五斗の鉄砲)」と申します珍しい狂言が出まして、そのころ芝居を退いておられました松三郎師が羽左衛門丈の懇望で出演され、私が語らせていただきました。松三郎師は鏡太夫師の相三味線だった関係で、羽左衛門丈ともお親しく、お子様方もよく師匠のお宅へ遊びにおいでになるくらいでした。「珍しい狂言だから、市村さんに記録用に本をさしあげたい」と松三郎師がおっしゃるので、私が詞章を書き、師匠が朱を入れてお納めいただきました。

 ほかに私が語らせていただきました主なものは、「弁慶上使」(1992年10月・1994年5月・1999年9月)「園部邸合腹(前)」(1992年11月)「熊谷陣屋(後)」(1993年4月)「佐太村」(1995年3月・2000年3月)「一力茶屋」(1997年9月台湾)「守宮酒」(1998年8月・1999年6月)でしょうか…。弁慶のノリのセリフ、「ヤアヤア門前に控えし者ども確かに聞け」を「肺がかたいっぽないから、一息で言いたいところが言えないんだ…」とおっしゃっておいででした。

 文楽の当代9綱大夫師に伺ったお話では、羽左衛門丈が文楽の「渡海屋」をご見物になり、歌舞伎にない緊張感に感激され、それから師匠の舞台をいつも注目してくださるようになった。お孫さんにも義太夫を稽古して欲しいと頼まれているとのことでした。

 初日と千穐楽には私どもの楽屋のれんを上げて「おめでとう」とにこやかにご挨拶くださいました。旦那と同じ大正5(1916)年生まれの重松師が部屋においでになると、「オイ、同い年。がんばろうぜ!」と声をおかけになっておいででした。もうひとかた、米太夫師も同い年でしたが、米太夫師(1993年)・重松師(2000年)・旦那の順でこの世を旅立たれました。


明珍風鈴(2001/7/9)

 夏の暑さをやわらげる工夫が古来いろいろとございますが、風鈴を吊りますのもなかなかよろしいものです。この時期、いろいろな風鈴が店頭に並んでおりますが、私は、ながらくあこがれておりましたものがございました。

 姫路の「明珍(みょうちん)宗理」と申される五十二代続く甲冑師のお家で作られる火箸の風鈴であります。十文字の金具の先に四本の火箸を吊り、その真中に短冊を下げた歯車状の金具があります。それが風で揺れて火箸と触れ合うたびに「チーーーン…」と上品な音色がいたします。江戸名産のガラス細工、南部鉄のものもそれぞれ結構ですが、私はこの明珍製を以前見ました折から欲しいなと思っておりました。しかし、なかなか高価で、風鈴にこの値段は…となんとなくそのままになっておりました。昨年、姫路に出かけられるという知人にお願いして、ついに手に入れましたが、もう風鈴という季節でもなくなっておりましたのでしまっておき、このほど桐箱から出してベランダの窓際に下げました。私どもは集合住宅に居住いたしておりますので、お隣のご迷惑にならないよう気を遣います。

 同封されておりました由緒書を拝見しますと、ご先祖の栄誉が連ねられております。なかでも「天正二年勝頼公御着ノ諏訪法性甲ハ宗介十七代ノ孫信家ノ作ニシテ是レ又諏訪社ノ神宝ナリ…」が興味を惹きました。『本朝廿四孝』で登場します「諏訪法性の御兜」はこちらの製品だったのですね。

 夏の朝が大好きな私は、今朝も5:00起床。シャワーを浴び、神棚にお水を上げ、いただきものの朝顔に水をやって、パソコンの前に落着いております。明珍風鈴は身にしみわたるような結構な音色を出してくれています。
名古屋の一夜(2001/6/24)

 「名古屋の一夜」と申しましても深長な意味合いはございません。6月22日、国立劇場の公演中ながら、名古屋中日劇場で公演中の猿之助丈一座で、7月興行『続篇華果西遊記』稽古の召集が掛かり、泊りがけで行ってまいりました。

 私は『西遊記』に出演いたしませんが、作曲を担当いたしますので、三味線の慎治氏にお手伝いいただき、2人して17:28発のひかり号で東京を発ち、2時間弱で名古屋着。タクシーで栄の中日劇場にまいりました。名古屋の芝居には1996年6月中日劇場の「俊寛」以来ご縁がなく、御園座にはなんと1984年10月以来出ておりません。ひさびさの名古屋の街は、ところどころに変化が見られました。中日劇場では、この日『新・三国志2』が1回公演なので、終演後ロビーに畳敷(じょうしき=長い茣蓙)を敷いて、稽古が始められており、私どもの到着を待って、『西遊記』の骨子を作り上げようというものでありました。すでに、常磐津さんも勘寿太夫・三蔵(玄奘三蔵の詞章の中で「三蔵」「三蔵」…と語るのが申し訳なし)両師が待機され、振付の藤間勘吉郎師が俳優さんにだいたいの振りをうつされたところで、では冒頭からということになりました。

 6月10日に脚本の石川耕士先生と、「こういう線で…」という打合せをいたし、その演出プランに基づいて作曲いたしましたものを、初めて皆様の前でお聞かせするのですが、心配いたしておりましたのは、常磐津さんとのやりとりでした。それぞれがこしらえたものを、いざ演奏いたしましてつながりが悪いといけない…。さいわい流れはうまくできていたようですが、幕切れ近く、常磐津さんと重複する旋律がございましたので、こちらは遠慮申し上げ、別の旋律に変更いたしました。

 俳優さんも立って(演技をして)、幕明きから順に進行してまいりますと、そのつど猿之助丈による演出のチェックが入ります。常磐津・黒御簾・私どもにも「そこは長いので半分に」「曲調が沈んでいるので華やかなものに」「それはセリフで言わせます」「ここは掛合よりも竹本さんだけで」など即座に指摘があり、修整したものをその場で確認していただきます。実にてきぱきとした判断で、当方の作曲の苦労など思いやる間もなく(?)、バッサバサと刈り込まれ、変更がなされていきます。それでよろしいのですが…。私もいつまでも前の曲にこだわっていてはいけませんので、すみやかに頭を切り替え対応いたします。面白いのは、曲を考案しておりますときに、「このくだりは要らないな…」とか「これは曲が付けにくいな…」と思っておりました個所は「バッサバサ」の対象になり、内心「ヤレヤレ…」とほっといたします。慎治氏にも「これは削除候補だけど」と言っているとその通りになり、妙なところでよろこんだりします。

 さて、こうして進行してまいりますうちに、時間も経過し、21:00を過ぎますと、私はそろそろ、今月の22:00就寝の習慣から寝声になってまいります。今月は、「引窓」を毎日2回勤めているせいか、いつもは「宵っ張りの早起き」ですが、起きていられず、早めに就寝いたしております。早起きだけは変わりませんが…。ですから、そのころにさしかかりますと、とてもつらく、声も無理して出すといけませんので、注意しながら勤めました。23:00過ぎにようやく全編終了しましたが、変更がかなりあったので、常磐津さんと新たにお稽古用の録音をすることになりました。俳優さんはみなさんお帰りになり、常磐津さんと私どもでマイクに向かい声を出すのですが、なかなか思うようにまいりません。勘寿太夫師も「こんぴらふねふね」を替え歌で「きゃっぴら猿猿」と語られるのですが、深夜に及び詞章がくちゃくちゃになり、思わぬことを語られるので一同大爆笑でした。なごやかな(?)うちに録音が終了したのが日付が変わって0:30ころ。「おつかれさまでした」とご挨拶しあいまして、近所のホテルにまいりましたが、翌日発送するMDの編集と弾き合せに使う譜本の修整・複写などの作業を終えたのが2:00近く。それから飲みに出るわけにもいかず、部屋の冷蔵庫のビールでも…と開けたら何も入っていない。今日はひさしぶりにお酒を空けよ、との知らせなるかとベットに入りました。どういうわけか隣室で音楽をかけてしゃべっている方があり、その声が耳について、なかなか眠ることができず、5:00ころになってようやく入眠したようでした。しかし、7:00には起きてしまいました。

 ホテルは久屋大通りに面しており、公園の緑が霧雨に煙って窓からきれいに見えます。散歩しようと着替えて道に出ました。ところが12階の部屋から見るのと近くで見るのとは大違い。スプレーによる落書きや浮浪者の住家など見たくないものを見てしまい、そこそこに引き揚げてしまいました。あちらさんもそこに住まなければいけないご都合がおありかとは存じますが、私としましては実に迷惑なことです。美しくない…。7:30に慎治氏から電話が掛かり、ぼつぼつまいりましょうかということになり、タクシーで名古屋駅へ。車中、運転手さんに名古屋の浮浪者事情をうかがいました。高速道路の下などは屋根付きで格好の一等地だとのこと。

 8:25発のひかり号で、煙る浜名湖(絶景)や田植えのすんだ風景を楽しみながら、東京着。10:30無事国立劇場到着。寝不足で粗相の無いよう、気をつけながら「引窓」2回を勤めました。
 
鳴かぬ蛍の身を焦がす(2001/6/22)

 「弁慶上使」の詞章に~\鳴く蝉よりもなかなかに鳴かぬ蛍の身を焦がす」というものがございます。辞書を引きますと、「外部に表すものよりも、表さない方が、かえって心中の思いが切実である。」(小学館『日本国語大辞典』)と説明されています。詞章の深い意味合いはひとまず置きまして、「蛍」について、いささか書いてみることにいたします。

 先日、数寄屋橋辺を歩いておりましたら、ソニービルの角の一郭で、「岡山県矢掛町の蛍」という企画展示が目に止まりました。小屋の中へ何人かでまとまって入り、真っ暗な中、流れてくるテープの説明とともに、蛍の光を楽しんでいただこうというものです。物珍しさに、私も行列につきまして、順を待ちました。入ってみますと、そこにひとつ…あそこにひとつ…と弱々しく光を放っている感じで、期待していた様子と異なりました。はるばる岡山から銀座までつれてこられ、こうして私どものために一生懸命輝いている…かどうか、蛍の了見はわかりませんが、だいぶくたびれている感じに見受けられました。

 私の生い育ちました伊豆大島は、いわゆる真水の乏しいところで、川や水の流れがほとんどありません。したがいまして、蛍の成育など思いもよらぬことで、その姿をはじめて見ましたのは、1994年6月に伊那市へ巡業にまいりましたときでした。近所の辰野というところの蛍が見事らしいから、夜になったら見に行こうと、電車に乗って皆で出かけました。「ほたるまつり」か何かの最中で、おおぜいの人出があり、蛍も野原のそこここに無数飛び交い、壮観でした。その後、蛍を見る機会もなく、先日の対面に続きます。

 余談でありますが、1999年に逝去されました三味線の豊澤瑩緑(えいろく)師は「瑩」という字をよく誤読、誤植されるお方で、「蛍」と間違われ、「蛍緑」と書かれたり、「ケイろく」と読まれたりされておりました。幕内ではあまりございませんでしたが、ご見物の中にはいまだに「けいろくさんの三味線は…」とおっしゃるお方もおいでです。「妹背山婦女庭訓:吉野川」の妹山を弾いていただきましたおり、「雛流し」にかかり、師匠が「オーッ、シャシャシャシャン、チーン、シャン」と弾かれます直前に、毎日のように三階から「ケイロクッ!」と声が掛かりました。お声のご様子から、お若いお方だと思いましたが、どなたか教えて差し上げて欲しいと思いながら~\未来へ送る…」と語りだしたものでした。幸いと申しますか、師匠は晩年聴力がずいぶんと落ちておられたので聞き取られなかったのですが、やはり名前を間違って呼ばれますと、気の悪いものです。もうひとつ、ある劇場の口番さんに、「ホタロクさん、ホタロクさん」と呼びかけておられ、私どもはひやひやいたしました。瑩緑師は文楽出身で7豊澤廣助師のお弟子で「廣若(ひろわか)」を名乗っておいででしたが、歌舞伎に転向されてから、姓名判断の方に考えていただかれ、「瑩緑」に改名なさいました。初期のワープロ時代には、この「瑩」という字が出ませんで、苦労いたしました。蛍のお話が脱線いたしましておそれいります。
顔文字と歌括弧(2001/6/21)

 ただいま、「顔文字」が電子メールの世界で流行しております。私は使ったことはございませんが、なかなかの創意工夫に頭が下がります。

 歌詞を示す記号に「歌括弧(うたがっこ)」というものがございます。私は近年までその名称を存じませんで、「山形のマーク」など申しておりましたが、あるお方に「あれは歌括弧というそうですよ」とお教えいただきました。浄瑠璃の詞章を引用いたしますときに用いますが、パソコンにはこの記号はございません。しかたなしに、外字で作成し、使用しておりましたが、ほかの機種では文字化けしてしまいます。インターネットでいろいろなサイトを拝見しておりますと「♪」で示しておいでのところもありますが、やはり義太夫の場合感じが違います。なにかないかな…と考えましたときに、ふと、顔文字のことが思い出され、記号の組み合わせで作ってみようと思いつきました。そして、ただいま使っておりますのが「~\」で「チルダ」プラス「バックスラッシュ」の合成です。ただし、これは横書きテキストのときに使用が限定され、ワードなどに呼び出すとうまくまいりません。

 歌括弧、パソコンの辞書に入れていただきたいものです…。
客席の化粧(2001/6/20)

 今月出演いたしております国立劇場の歌舞伎鑑賞教室には、さまざまな学生さんがいらっしゃいます。ご見物のことを申し上げて失礼ですが、先日、上演中に最前列で大きな鏡を取り出し、お化粧を始めた女学生さんがおいでになったのにはいささか驚きました。

 ちょうど濡髪が「与兵衛に捕らえられる覚悟だ」というのを母が止めるあたりから、最前列花道寄りの女の子が、鞄から鏡を取り出し、顔をいじり始めました。しばらくして、ふと見ると、それが一人ならず、二人、三人にふえているのです。そして、まつげを持ち上げる金具を使ったり、まぶたに何かを刷いたり…。唖然といたしました。よく「電車の中で化粧を平気でする女性」ということが取りあげられますが、出演者が一生懸命演じている至近距離で化粧を始める…いったいどういう了見なのでしょうか。これで、濡髪がほくろの取れたことを確認するため、鏡を見込むところになったら、双方で鏡に向かって奇妙な図となるところですが、さすがにそれまでには作業が終了したようでした。

 その場にふさわしくない行動というものの判断ができないというのは、そういう躾を受けてこられず、お気の毒に思います。よしんば、親御さんから受けられなくても、成育なさる過程での分別がいろいろついてきそうなものですが、そのような環境に身を置かれなかったのでしょう。

 私は伊豆大島で育ち、あまり躾についてやかましく言われないまま成育いたしました。しかし、この世界に入りまして、「大島から出てきたんだってさ」「離れ小島の?」などと言われますと、「自分に粗相があったら、父母、大島の人の恥だ」と思い、礼儀作法の本などを自主的に読みました。その反動で、いささかそういうことにこだわりすぎる部分があると反省もいたしますが、伝統芸能の世界には、必要なことだと確信いたしております。ときおり「葵太夫さんの親御さんは躾にお厳しかったのでしょうね」などとおっしゃっていただきますと、冷や汗が出ます。私の基本姿勢は「清潔」で、舞台姿にもそれが反映するのではないでしょうか。舞台に出ます人間、やはり、何をしても美しくなくてはいけないと思います。それには、日常の生活がかなり影響すると考えます。

 私は歌舞伎鑑賞教室もさることながら、「躾身だしなみ教室」を企画していただきたいものだと思います。また、テレビやゲームでもそういうものを取りあげていただいて、「このようなときに取る行動は?」などと問い掛けていただきたい。皆様も少なからず、ただいまの世の中、身だしなみのない方の行動で不快な思いをなさっておいでと存じます。「あの子は自然児で…」などと親御さんがおっしゃっているのを見ますと、ご自分の手抜きを「自然児」ということばで言いくるめていらっしゃるようで、私は好みません。平気で道路に痰を吐く女学生、そういう了見の女性が母親となり、育児にあたる…。どんな人が育つのでしょう。

 文化行政がどうのこうのという前に、私どもひとりひとりが、人に迷惑をかけないきちんとした人間であらねばと、反省する次第であります。
髪型(2001/6/15)

 私の髪型は現代からはいささか離れた感じの「刈り上げ六四分け(勝手に名付けました)」であります。俗に「幹部刈り」ともいわれ、昔の幹部俳優さんの髪型です。ときおり、分け目をつけず、オールバック風にいたしたりします。また、役がすんで入浴し、洗い髪のまま飲みに出かけました先で、たまたま15仁左衛門丈ご夫妻に出あい、ご挨拶いたしましたら、しばらく目を凝らして私を見つめ、「アアッ!あんたか…」とようやく気づいていただいたこともございます。ずいぶん様子の変わるものらしい…。このように真行草を使い分けております。
 
 芝居に入りましてしばらくは耳の後ろに廻すくらい毛先が長かったのですが、いつのころからか、現在のような髪型になりました。扇太夫師はお若いころ床屋さんに修業に入ったこともあり、なかなか髪形についてはおうるさく、ちょっと無精して伸びていようものなら、「君、だらしないね」とご注意がございました。芸人たるものかくあるべきというスタイルをお持ちで、竹本の楽屋でパンチパーマがはやった時分は苦々しいお顔をされていました。かなりの人がパンチパーマをかけましたが、私は自分で似合わないと思い、かけませんでした。いちどオールバックにしようと思いましたが、私の毛は前へ向かって伸びているらしく、うまくいかず、アイパーをかけました。忘れもしません。床屋さんから楽屋に帰ってきたら、森本頭取が、「なんや、徳川天一坊みたいやな」と言うのでがっかりして、すぐに元通りにしてしまいました。

 床で汗をかき、長い場面ですと前髪が落ちてきます。英治師が、「今の津大夫はん(4世)がな、若いころあんたのように床で前髪が落ちてくると女の子が騒いだものや」とおっしゃておられましたが、そんな粋なものではなく、具合が悪いので、落ちないようにしばらくポマードやヘアチックを使っておりました。ただいまは水性ジェルのスーパーハードというのを用いておりますが、一切前髪が落ちてくることもなく、また実に簡単に洗い流せます。ヨーロッパ公演に参りましたときに、ロンドンでヘアチックを切らしてしまい、ハロッズデパートに買いに行きましたが、売っていません。同じ形のものがあるのでこれだろうと思いましたら、腋の下の汗止めでした。床山さんにその話をいたしましたら、鬘用に余分のポマードがあるというのでわけていただきました。海外と申しますと、面白いなと思ったのは、ミラノで入った床屋さんで、はじめに洗髪し、整髪料をつけて分けてしまい、余分な部分を刈っていくという式でした。あとで、細かい毛が襟に入り、どうも具合が悪かったことを記憶いたしております。昔のアメリカ巡業で、岡太夫師が床屋に入ったら、「○○はどうか?」といろいろなオプションをすすめられ、わからないままにうなづいていらしたら、法外な値段を取られ、「馬鹿にしている!失礼千万な!」とむかついておいでだったとは、米太夫師にうかがいました。

 このごろの茶髪・金髪はもちろん竹本にはおりませんが、おもしろいことに、扇太夫師が猿若師と二人揃って、白髪を赤っぽい色で染めて舞台にお出になったことがあったそうです。2松緑丈に、「オイ、今日は外国人の竹本さんだよ」とさんざんからかわれたとのことです。また、はげていた三味線弾きさんが、鬘をおつくりになって舞台に出たら、俳優さんがあまりの変貌振りにおかしくて芝居ができなくなってしまったというようなことも伺っております。

 6歌右衛門丈はやはり髪型に厳しいお方で、これは他流の若手の方ですが、パーマをかけて出ましたら、「あの方はちょっと…」と駄目が出てしまったそうです。ただいまでは、俳優さんもあまり神経質におっしゃいませんが、やはり、清潔感が何よりと存じます。昔、興行主がある若手に「君、ちゃんと散髪して舞台に出なさい」と注意しましたら、「すみません、床屋に行く間がないんです」というので、「そんな忙しいお方にわざわざご出演いただかなくても結構」とその若手がクビになったとは重松師が聞かせてくださいました。
夢の稽古(2001/6/11)

 ただいま朝5:30。さきほどまで夢を見ていました。当代の9綱大夫師には、おりおり懇切なご指導を頂戴しておりますが、なんと、先代8綱大夫師に、夢の中で稽古をしていただきました。古今の大名人に稽古していただけるなど、夢のような話…まさしく夢だったのですが…。夢ですからなんとも飛躍的な展開で、あらましはこうです。

 なぜか8綱大夫師が一段高い高座のようなところにいらっしゃる。私はその下まで行って頭を下げ、「お師匠さん、『酒屋』の~\こうした難儀はできまいもの」の鼻に抜く発声のコツをお教え願えませんでしょうか」と単刀直入にお願いすると、「…。ホナ一段やりまっさ」と小さな少しかすれた声でお手本を語りだしてくださる。これは聞き逃してはいけないと全身耳にして憶えようとするのですが、これが、~\鐘に散り行く花よりも…」で始まるいつもの『酒屋』の切場ではなく、なにか腹のさぐりあいで立廻りになるような激しい浄瑠璃。どんどん語り進まれ、「ちょっとごはん食べに行こう」と地下にある小料理屋さんでカウンターに腰掛け、師匠が「わしはこれ」とミニチュアのような盃を取られ、お酌すると、「あとは、あなた好きなようにお飲みなさい」……とその辺で目が覚めました。

 実に不思議な夢でした。どういう加減でこういう夢を見たのかわかりません。ときどきCDで聴きます先代桂文楽師の落語に『夢の酒』というのがございます。夢の続きに呪文を唱えて入っていくというものですが、叶うことならもう一度夢に戻りたいものです。おもしろいもので夢は起きたときにはわりあい憶えておりますが、時間がたつとじき忘れてしまいます。これは「有り難い」夢なので、さっと起きてしまい、こうして綴ってみました。
宗之助丈との対談(2001/6/10)

 5月大阪松竹座出演中、澤村宗之助丈のホームページを管理なさっておいでの方から、対談をしてくれないかとお誘いをいただきました。宗之助丈は子役さんのころからのなじみですからお受けし、当日、実に気楽な気分でおしゃべりをいたしました。その記事がこのほど掲載されましたので、ご案内申し上げます。

 このおりお世話になった管理者two様こそ、私のホームページ開設の大恩人なのであります。松竹座の楽屋に出張ご指導くださり、帰京いたしましてからも遠隔ご指導を賜っております。ありがたいことです。どうぞ、ご労作、澤村宗之助丈のホームページもご覧くださいませ。

           
 http://www12.u-page.so-net.ne.jp/gb3/two/
散歩 北の丸公園(2001/6/9)

 梅雨の晴れ間の8日、国立劇場の役を終えてから、思い立って北の丸公園まで散歩いたしました。私はぶらぶら歩くことが好きなのでよく散歩をいたします。好きな場所は緑の多いところで、水が流れているところなどは特に好きです。伊豆大島という川や滝のない土地で生まれ育ったせいか、たとえ人工でも水が流れているとわくわくいたします。

 国立劇場の正面前庭はご担当のご努力で、このところいろいろ工夫が凝らされているようです。ほとんどの植物に説明板が付いており、小植物園といった趣があります。万葉集に詠まれている植物ばかり集めた植物園というのをときおり見かけますが、歌舞伎・文楽に出てくる植物ばかり集めてもおもしろいな、などと思いました。

 信号を渡り、ものものしい警護の半蔵門を横目にして千鳥ヶ淵公園に入ります。ただいまは新緑の色も落着き、前日の大雨のおかげで木々がみずみずしく、お堀の水も満々とし、気が晴れ晴れいたします。そこを抜けて千鳥ヶ淵の交差点を右折。塀の向こうは吹上御所かと思うと、そこにいる雀さえ、宮中とこちらとを自由自在に行き来しているんだなとゆかしく思われます。

 やがて国立近代美術工芸館前へ。旧近衛師団庁舎とのことで、私の祖母の父、つまりひいじいさんの話を思い出しました。ひいじいさんは大島から近衛師団へ配属され、先の皇太后様のおとうさま(お名前失念)のお馬の口取りをしていたと祖母が自慢していました。なんでもたいへん太った宮様だったらしく、馬にお乗せするにも二人がかりでお尻を持ち上げたいへんだったそうです。ひいじいさんは芝居が好きで、よくまねしていたそうで、私はどうもひいじいさんの血を多分にうけついでいるようです。ひいじいさんが四月になくなり、私が数ヵ月後の十一月に生まれましたので、生まれ変わりではないかとよく祖母に言われました。

 建物の脇に「北白川宮像」がそびえていますが、その説明板を読むと、「幕末に生まれ、青蓮院・輪王寺・寛永寺の門跡を歴任し、明治になって還俗。外国へ兵学を学びに行き、帰国して近衛師団長。台湾へ出兵のおり、台南で疫病にかかり、四九歳で没す…」とありました。なんとも波瀾万丈の宮様ではあります。お坊さんから軍人。熊谷直実は戦の無常を感じ出家しましたが、その逆とはおもしろいな…などと思っているうち北の丸公園に着きました。

 池の水際に菖蒲でしょうか、きれいに開花し、そこをしばらく行くと大きな池に出ます。芝生では寝そべる人、語らう人、我と来て遊べやと雀に餌をやる人、犬を遊ばす人…さまざまです。私はぽつんと水際に独り座ってみましたが、なんということはないので、じきに立ち上がりました。そこへ、誰が捨てたのかチラシが風に吹かれ池に入りました。ふだんならそのまま見過ごすところですが、この景色にこんなものが入っていたのでは…と手を伸ばして拾い上げました。私は美しくないものが嫌いで、書店でも平積みになっている本が乱れていると直したりします。しからば、自身の身辺すべて整然となっているかというと、そうではない…。こういうのを勝手癇症というのだそうです。さて、水で濡れたチラシを捨てようと思ってあたりを見まわしましたが、ゴミ箱がないのです。仕方がないから濡れたチラシをつまみながら武道館の方へ歩き出しました。ところが行けども行けどもゴミ箱がない…。ようやく茶店に捨てるところがあり、解決しました。なんということはない、北の丸公園にゴミ拾いに来たようなものだなと、そこを去りました。

 公園というもの、それぞれお越しになる方が思い思いに楽しまれればよろしいと思いますが、やはり、他人が見ていやな思いをさせてはいけない。そういう身だしなみと申しますか、心がけがもっと定着すればと、何によらず思い起こさせられるこの頃です。まず自分がきちんとしなければ…。
箸が転んでも…(2001/6/8)

 ただいまでは通用いたしますか、「箸が転んでもおかしい年頃」ということを申します。特に十代後半の女の子などに。当月、国立劇場の歌舞伎鑑賞教室で「引窓」を語らせていただいておりますが、ときどき気になりますのは、私が語っているありさまが滑稽に見え、いわゆる「わる落ち(失笑)」がきていないかということです。特に、俳優さんと一緒に泣いたりいたしますときに、ふとそんな思いがよぎります。別段、いつも通り堂々と勤めておればよいのですが…。

 こんなことがございました。1985年11月の文化庁移動芸術祭の巡業でした。演目は『奥州安達原』「袖萩祭文」で3猿之助丈の袖萩で、私は前半を勤めました。場所は島原のお城のそばの会館。幕が明きまして、語り始めると客席前方の学生さんの一群がこちらを注目なさいます。そのうち、3猿之助丈の登場になり、ほとんどのご見物はそちらに目を向けられるのですが、下手側最前列の女の子二人が、私が語り始めると互いにひそひそおしゃべりしては私を観察なさり、「フフフ…」なんてやっていらっしゃる。こちらが語るたびに視線を転じこれをなさるのですから気になって仕方がありません。40分くらい経過しましたか、袖萩が癪をおこして、お君が介抱するくだりにさしかかってふと見ると、そのお二人は涙ぐんで母子の情愛に打たれている様子。私は内心「ヤレヤレ…」とほっといたしました。舞台では袖萩が「ナニ、わしが寒かろうと思うて…」と言い、手探りでお君が自分に着せ掛けてくれた着物をさわります。客席のそこここですすり泣きの声…。その孝心に「オォ!」と驚くのがキッカケで、こちらが~\親なればこそ」と一杯に(精一杯に、満身の力をこめてという意)語りました。途端です。例のお二人が、すかさずこちらを見て「アハハハハ」「…」。

 そんな経験がございますので、とくに女学生さんのご見物の時には気になるのです。まあ、そういうお方ばかりではございませんでしょうが。
「改まる」ということ(2001/6/2)

 今年の初め、茶道遠州流の新家元様が新聞に述べておられた記事で、「普段と改まる気持を大事にしたい」ということに同感しました。日常の喧騒から離れ、改まった気分で一服を…。私はお茶をたしなみませんが、それまでの空気と異なる場に身をおき、気分を変えること、それも不思議と緊張感のある場所でくつろぐということが好きです。

 挨拶でも、この頃は「簡略に」という傾向がありますが、「ここははずせない」という部分はきちんとしていきたいと思っております。たとえば、お正月の初日には紋のついた着物を着て楽屋入りいたします。私の入門時、扇太夫師は黒の五つ紋に仙台平の袴という正装で楽屋入りなさいました。そのころは、俳優さんでも幾人か黒紋付の方がおいででしたが、だんだんと結婚式などに着る略礼服のスーツ姿が定着してしまいました。俳優さんはお元日に先輩方へのお年始を黒紋付で廻られるようですが、私も扇太夫師在世中はお名前を頂戴した師匠ですから、お元日に紋付袴でお年始に伺っておりました。私はこの道に入りましたときに、師匠方のきちんとしたお身なりを見て、少しずつですが、舞台以外の着物を揃えるようにいたしました。黒の五つ紋付袴という正装、縫紋の付いたお対に紬の袴の略礼装…ようやく夏冬が揃ってきたところです。着物を着ることが好きなので、洋服で行って出先で着替える場合など、家から着物で行ってしまうこともよくあります。人によっては「なんと物々しい…」とお思いになる方もあるようですが、私はごく自然な気持で着物を着ております。

 初日・千穐楽には「おめでとうございます」と挨拶を交わす習慣があります。また他座に先輩が出ていれば、伺ってご挨拶を申し上げます。私たちの職分は普段の通勤の身なりに規制がなく、ノーネクタイの方がほとんどです。私もその口ですが、初日・千穐楽には改まる意味合いでネクタイを締めるか、それに準じた服装で家を出ます。自分に対しても人に対しても改まる気持からそういたします。そういう日にジーンズにTシャツで出勤する方もおいでですが、それはまたその方のお考えで、どうこう申しませんが、役を勤める者としての「改まる」気持は忘れてはいけないのではないかと思います。舞台に臨むときに共演者と交わす「お願いいたします」という挨拶、床に着席してからの床本への拝礼、私は自分の気持として大事にしております。松三郎師に「昔の仕事をやっているんだから昔の人を作らなきゃ…」とご注意を頂戴したことがありますが、「昔の了見(ものの見方)」が消滅してきているのは事実です。