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松尾塾公演『松王下屋敷』(8/28)

 毎夏恒例の松尾塾子供歌舞伎公演が、本年も8月16・17日大阪国立文楽劇場、そして29・30日東京国立小劇場で開催されました。演目は『菅原伝授手習鑑』から増補の「松王下屋敷」と「寺子屋」、清元の舞踊『夕顔棚』で、私は大阪公演の「松王下屋敷」と「寺子屋」を勤めました。

 「松王下屋敷」というお芝居、皆様にはおなじみがないと思います。まず大歌舞伎では出ないお芝居です。松尾塾では2000年の公演にこれを採りあげ、私は重松師と勤める予定でお稽古用の録音もいたしましたが、重松師は公演前に逝去され、これがお形見となりました。重松師のおっしゃるには、「『寺子屋』で松王が『覚悟したお身替わり、うちで存分ほえたじゃないか』というセリフから後世の作者が増補として書いたもの」とのことでした。

 名著『浄瑠璃素人講釈』では、「…この外題は、書下しの年月も、作者も、上演の芝居も解らぬのである…」「…要するに末世の作物であるから…」「…よほど念を入れて語らねば、なお更に値打ちのない物となるのである…」「…何にしても古き名人の語ったと云う風格などはない物故、別に取立てむつかしい物ではないが、「節」や「息」を修業するには好き一段である。よく三味線に就いて修業すると、大変ためになる一段であると思う。…」というように紹介されております。

 神津武男先生の調査では、文久2(1862)年、京都和泉式部境内における「松王やしき」が記録上の初出で、初演かと思われるそうです。大正期は『義太夫年表(大正篇)』によると、京都新京極の竹豊座や京都文楽座などで「付け物」の格でこの一段が出ており、角大夫・5實大夫という「切」の字を冠した大夫さんがお勤めです。昭和は高木浩志先生調査の『文楽興行記録』によりますと…

▼2年12月21日/道頓堀浪花座/若手素浄瑠璃/「松王下邸」島=浅造(のちの10若=4重造)
▼4年11月20日/「第11回浄瑠璃研究会」/生駒=?
▼5年8月24日/東京劇場/素浄瑠璃/?=?
▼7年10月27日/東京劇場/素浄瑠璃/3相生=芳之助
▼9年5月1日/四ツ橋文楽座/『増補菅原伝授手習鑑:松王下邸』7駒=団六(のちの6寛治)
▼9年9月16日/堀江演舞場/「花菱会」素浄瑠璃/千駒=友駒(7駒大夫息)
▼10年12月5日/東京並木倶楽部/「大日本義太夫因会」素浄瑠璃/「松王邸」稲=猿喜知
▼12年10月24日/北陽演舞場/「新義座」素浄瑠璃/「松王下邸」津磨=綱延(のちの4錦糸)
▼12年12月6日/丸ノ内仁寿講堂/「新義座」素浄瑠璃/「松王下邸」津磨=綱延
▼13年2月10日/東京鈴本演芸場/「第2回義太夫会」素浄瑠璃/「松王下邸」都(安藤鶴夫先生父君)=文之助
▼14年4月1日/朝鮮巡業/「新義座」/「松王下邸」越名=勝芳(のちの5南部=2勝太郎)
▼36年12月17日/道頓堀文楽座/『増補菅原伝授:松王下邸』「玄蕃上使」5南部=5吉三郎(のちの9吉兵衛)「小太郎恩愛」織の(現9綱)=藤蔵

 …という皆様方がお勤めです。このうち昭和9年5月の四ツ橋文楽座と昭和36年12月の道頓堀文楽座が人形入りの本興行のようです。その後昭和53年8月16日に5呂大夫=9吉兵衛のお二人でNHKから放送なさったそうですが、この音源は所持しておりません。今回、三味線の慎治氏が重松師の遺品整理中、女流の方(未詳)の録音を発見され、参考にさせていただきました。どちらかと申しますと素浄瑠璃で流行したようで、作曲もいわゆる「おいしい」フシが満載されています。~\…我々夫婦を杖よ柱と…」というところなど、おそらく当て込んでご見物をワアワア言わせたところと思います。

 重松師に弾いていただき稽古用の録音はいたしましたが、どういうところをふくらまして「芝居としてのおもしろさ」を出したのか、実態がつかめず、当時東京の宿舎に滞在中だった時若師に「役者」としてのお話を伺ったこともございます。時若師は「中村福太郎」という旅を廻った役者さんでしたのでこうした演目に明るく、江戸博歌舞伎などで珍しい演目を指導なさいました。のちにこの「松王下屋敷」も上演されました。ながらく病気療養中でしたが、本年、舞台の方は引退されました。

 「松王下屋敷」と「下屋敷」が外題になっておりますが、本行の五行本(加嶋屋版)標題は「松王邸」。松王の身分で下屋敷は持たないと思いますが、やはり増補の「本蔵下屋敷」と混同されたのでしょうか。通称「本下(ほんしも)」同様、「松下(まつしも)」と呼ばれたようです。以前、3猿之助丈と石川耕士先生と『義経千本桜:鮓屋』の台本再構成のお話になったとき、私が「権太が家で御台と若君の身替わりに女房倅を立てるところで『権太内』が書けますね」と申し上げたところ、3猿之助丈が、「そう、下屋敷ね」とおっしゃったことがございます。

 勤めてみますとなかなか量感もあり、今回「寺子屋」と両方はオーバーワークでした。稽古中はダブルキャストでそれぞれ2回づついたしますので、それでかなり消耗し、公演2日目はだいぶ怪しい声で皆様に申し訳ない次第でした。東京公演は9月興行の稽古と重なり勤めることができませんでしたが、またいつか語らせていただきたいと思っております。
拝見 『第10回 常磐津一巴太夫の会』(8/25)

 去る8月22日、国立大劇場で常磐津一巴太夫師の会がございましてお招きいただき、拝聴に伺いました。第一部が門弟皆様の発表会で、第二部が一巴太夫師のリサイタルという構成であります。

 発表会では、常磐津巴奈津太夫(はなつだゆう)という名取の「門弟」である12團十郎丈が「乗合船」を語られました。萬歳のくだりを中心にした抜粋でしたが、通人などに「江戸」を感じさせるたいへん味わいのある語りぶりでした。ファンの方も客席に多数見受けられましたが、さぞよろこばれたことと存じます。その二つ前に「二段目(仮名手本忠臣蔵)」を語られた常磐津杉巴太夫(すぎはだゆう)様は本名を杉崎則夫様と申し上げ、京都のタクシー会社「洛東グループ(ゾウムセン)」の社長さんです。歌舞伎にお詳しく、代々の團十郎の役者絵収集でも高名な方で、南座での11海老蔵丈襲名ご披露のおりには、京都造形芸術大学でその所蔵品の展観がございました。私ははじめて常磐津の「二段目」という曲を拝聴しましたが、義太夫を元にうまくまとめられており、さすが歌舞伎ご愛好だけにセリフが結構で、ワキで本蔵を語られる一巴太夫師ともども聴き入ってしまいました。ある常磐津の職分の方から伺いましたが、このごろこうした素浄瑠璃の会が少なく、舞踊の地のお仕事が主流となり、職分の方でもセリフを言える方が少なくなってきたとのことです。

 第二部はゲストを交えてたいへん豪華な構成でありました。「吉田屋」はいつも芝居でタテ三味線を勤められる常磐津八百二師がワキに廻って、伊左衛門を当たり役とする15仁左衛門丈がタテをお弾きになります。これがたいへんご立派な演奏ぶりで、つくづく敬服しました。きちんと手を憶えられ、間違わず、音も立派にお出しになり、お見事です。お父様の13仁左衛門丈もお三味線はあざやかでしたが、「孝夫さんよう弾くようになったな」とよろこんでいらっしゃるのではないかと思いました。お父様もご当代も私どもに対するご注文は具体的ですが、こうしたふだん表立たない素養に裏付けがあるのです。

 立方が4松緑丈の「景清」、お能のような厳粛な空気の5玉三郎丈の「新山姥」がございまして、喜利が12團十郎丈の「鶴亀」でした。これがなんと申しますか12團十郎丈の魅力満載と申しますか、わくわくするような舞踊で、途中のキマリで拍手が出かかって控えられたお客様がございましたが、そのお気持ちがよく解りました。

 記念品に、このたび出版なさった『歌舞伎一期一会』というご本を頂戴しました。ただいま途中まで読んでおりますが、たいへんわかりやすい文章で一巴太夫師のあゆみが綴られています。文中、1978(昭和53)年1月歌舞伎座「吉田屋」で13仁左衛門丈の推挙により、関西常磐津の太夫として初めてタテ語りを勤められたことが紹介されています。このとき私はまだ正式に竹本に入ってはいませんでしたが、見習いのようなことをしておりました。楽屋のトイレで一巴太夫師と並んで用を足しておりましたら、「義太夫さんにこんな若い方がいらっしゃる。がんばってくださいね」と外見と違ってやさしく声をかけていただいたことを憶えております。また大向こうの森様という方が「原則、地方には声を掛けないが、例外として清元志寿太夫・竹本米太夫・芳村五郎治には掛ける。でもあなたはとっても結構だからこれから声を掛けます」というお話ではちょっと驚きました。くわしくはまたの機会に申し上げたいと思いますが、私もこの森様に「新口村」の代役で注目していただき、東京・京都とふた月毎日幕明きに「葵太夫!」と励ましのお声を頂戴したことがあるのです。森正次様とおっしゃいまして奥村土牛先生のような容貌の方でしたが、「原則地方には掛けない」とは知りませんでした。

 祇園に『えん』さんという有名なバーがございまして、私は数回お客様のお供で伺ったことがございます。こちらのご主人が常磐津一三太夫(いちぞうだゆう)師で文字一三というお名前で三味線もなさいます。いつでしたか一巴太夫師のことを「あちらが一生懸命やってきてくださったおかげで関西の常磐津も仕事がふえて、皆さん感謝しなきゃいけまヘン」とおっしゃっておいででした。とかく上に立つ方はなにかと風あたりが強く、いろいろとご苦労もおありだったことと思います。

 一巴太夫師は私どものような若手にも、いつも礼儀正しくきちんと挨拶を返してくださいます。祇園に『権兵衛』という有名なうどん屋さんがございます。あるとき入りますと入口のテーブルで一巴太夫師がお弟子と召し上がっておいででした。「葵さん、一緒に食べましょうよ」とお誘いくださいましたが、もうお済みの頃合いだったので拝辞して奥へ入っていただきました。帰りにお会計をしようとしますと、「お師匠はんから頂戴しました」とのことでした。このごろおみ足がご不自由なのでゆっくり歩いていらっしゃるのに追いつき、お礼を申し上げましたら、「…一緒に食べたかったのに」と笑っておいででした。親切なお方です。

 会の当日は門弟の皆様のワキを勤め、リサイタルも出ずっぱりで、よくお声が保つなと驚きましたが、ますますご壮健でご活躍くださいますようお祈り申し上げる次第です。