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2001年7月
明珍風鈴(2001/7/9)

 夏の暑さをやわらげる工夫が古来いろいろとございますが、風鈴を吊りますのもなかなかよろしいものです。この時期、いろいろな風鈴が店頭に並んでおりますが、私は、ながらくあこがれておりましたものがございました。

 姫路の「明珍(みょうちん)宗理」と申される五十二代続く甲冑師のお家で作られる火箸の風鈴であります。十文字の金具の先に四本の火箸を吊り、その真中に短冊を下げた歯車状の金具があります。それが風で揺れて火箸と触れ合うたびに「チーーーン…」と上品な音色がいたします。江戸名産のガラス細工、南部鉄のものもそれぞれ結構ですが、私はこの明珍製を以前見ました折から欲しいなと思っておりました。しかし、なかなか高価で、風鈴にこの値段は…となんとなくそのままになっておりました。昨年、姫路に出かけられるという知人にお願いして、ついに手に入れましたが、もう風鈴という季節でもなくなっておりましたのでしまっておき、このほど桐箱から出してベランダの窓際に下げました。私どもは集合住宅に居住いたしておりますので、お隣のご迷惑にならないよう気を遣います。

 同封されておりました由緒書を拝見しますと、ご先祖の栄誉が連ねられております。なかでも「天正二年勝頼公御着ノ諏訪法性甲ハ宗介十七代ノ孫信家ノ作ニシテ是レ又諏訪社ノ神宝ナリ…」が興味を惹きました。『本朝廿四孝』で登場します「諏訪法性の御兜」はこちらの製品だったのですね。

 夏の朝が大好きな私は、今朝も5:00起床。シャワーを浴び、神棚にお水を上げ、いただきものの朝顔に水をやって、パソコンの前に落着いております。明珍風鈴は身にしみわたるような結構な音色を出してくれています。
橘屋の旦那(2001/7/10)

 7月8日、17市村羽左衛門丈が逝去されました。初手術から復帰された折、「あんたみたいに元気な癌の患者は見たことがないって先生に言われたんだ」と楽屋でお話しになっておいででした。

 私は菊五郎劇団の扇太夫師の前名を継いでいるものですから、旦那は劇団の太夫となることを期待されておられました。一時期、3猿之助丈の舞台ばかり出ておりましたころ、楽屋の廊下でお目にかかると、「おい、葵太夫。早くうち(劇団)へ帰ってこいよ」とお声を掛けていただいたりもしました。

 菊五郎劇団には、昭和30年代まで鏡太夫師というご立派な師匠がおいでになり、俳優さんから尊敬されていました。なにしろ、6菊五郎丈と互角に渡り合ったという師匠ですから、当時若手の羽左衛門丈は、いろいろなことを教わられたそうです。鏡太夫師は引退されてから、河内長野の山奥でひっそり暮らしておられたのですが、相三味線だった松三郎師が訪ねておいでになると、「おれが死んでも誰にも知らせるなよ。ただ市村だけには知らせてくれ」とおっしゃったそうで、ずいぶん羽左衛門丈には目を掛けておいでだったのでしょう。私にも稽古場の控室や楽屋で「鏡さんからこういうことを言われた…」というお話をしてくださいました。「鏡さんにね、『若旦那は声がよろしい。しかし、その声をすべて使いきろうとなさるから一本調子のセリフになってしまう。六代目のように声の悪い人は少ない声で何とか乗り切らなければいけないから、セリフに工夫をされるんだ』って言われたんだ。お前(葵太夫)もおれと似たようなところがあるから、おぼえておきなさい」というように…。

 また、ある俳優さんが稽古のとき、私どもにずいぶんと「そこはそうじゃない、ここはこう…」とおっしゃったことがございました。すみましてから、「○○がああ言っていたけど、それは注文だよ。お前たちの覚えてきたのはそれでいいんだ。それはそれできちんととっておいて、今月は○○のやり方にしてあげなさい」とおっしゃっていただいたことがございます。

 1994年4月、国立劇場で『義経腰越状』の「泉三郎館(五斗の鉄砲)」と申します珍しい狂言が出まして、そのころ芝居を退いておられました松三郎師が羽左衛門丈の懇望で出演され、私が語らせていただきました。松三郎師は鏡太夫師の相三味線だった関係で、羽左衛門丈ともお親しく、お子様方もよく師匠のお宅へ遊びにおいでになるくらいでした。「珍しい狂言だから、市村さんに記録用に本をさしあげたい」と松三郎師がおっしゃるので、私が詞章を書き、師匠が朱を入れてお納めいただきました。

 ほかに私が語らせていただきました主なものは、「弁慶上使」(1992年10月・1994年5月・1999年9月)「園部邸合腹(前)」(1992年11月)「熊谷陣屋(後)」(1993年4月)「佐太村」(1995年3月・2000年3月)「一力茶屋」(1997年9月台湾)「守宮酒」(1998年8月・1999年6月)でしょうか…。弁慶のノリのセリフ、「ヤアヤア門前に控えし者ども確かに聞け」を「肺がかたいっぽないから、一息で言いたいところが言えないんだ…」とおっしゃっておいででした。

 文楽の当代9綱大夫師に伺ったお話では、羽左衛門丈が文楽の「渡海屋」をご見物になり、歌舞伎にない緊張感に感激され、それから師匠の舞台をいつも注目してくださるようになった。お孫さんにも義太夫を稽古して欲しいと頼まれているとのことでした。

 初日と千穐楽には私どもの楽屋のれんを上げて「おめでとう」とにこやかにご挨拶くださいました。旦那と同じ大正5(1916)年生まれの重松師が部屋においでになると、「オイ、同い年。がんばろうぜ!」と声をおかけになっておいででした。もうひとかた、米太夫師も同い年でしたが、米太夫師(1993年)・重松師(2000年)・旦那の順でこの世を旅立たれました。
お扇子(2001/7/13)

 この暑さで、皆様お扇子をご使用になられておいでのこととと存じます。「夏炉冬扇」などと申しますが、私どもでは一年中お扇子を用います。だいたいが、ほてりを冷ます実用としての役目です。ご挨拶のときの結界に前に置く…などというご挨拶はあまりいたしませんので儀礼的な面での出番は滅多にございません。ときとして、自分で語りのお稽古をいたしますときに拍子をとったりもいたします。

 私はお扇子が好きでして、自分の好みに合うものを見つけるため、よくお店をのぞきます。ただいまは暑気厳しき夏場のことであり、実用一辺倒の「渋扇(しぶおおぎ)」を持ち歩いております。これは、浅草の文扇堂のお品で、何種類かあるなか、お芝居の小道具で出てまいりますごくお古い形のものです。「髪結新三」の弥太五郎源七が花道でばさっと開くあれです。子供の頃、テレビ中継で白鸚丈のそれを拝見してから「あのお扇子が欲しい…」と永年あこがれておりました。めずらしい子供だと思います。先日求めたばかりなのですが、まだ開閉がなめらかでなく、軽く「ザラッ」と開くまでしばらく使い込まねばなりません。ほかにも気に入っておりますものがいくつかございますので、気分で使い分けております。

 不思議なもので、お扇子はなぜか気に入ったものほど早くなくしてしまいます。私は物に執着心が強い方だと思いますが、お扇子だけはなぜかなくしてしまいやすいのです。先日、京都の十松屋(とまつや)福井というお能の扇を扱うお店で、大ぶりで骨も美しく、使いやすい結構なお扇子を求めたのですが、いくらも使わないうちになくしてしまい、惜しいことをいたしました。

 襲名等の慶事には、そのご挨拶の品としてお扇子がつきものです。仕事柄、いろいろなお方から頂戴いたしますが、なかなか息の合うものに出会えません。丁寧なお家ですと大ぶりと小ぶりを組になさり、「夫婦(みょうと)」でくださいます。このごろはその中間サイズが主流ですが、いまひとつ使い勝手が良くなく、しまいこんだり、人に差し上げたりしてしまいます。来年からご案内のとおり襲名ラッシュとなりますが、大名跡ばかりですので、お配り物も華やかなものとなることでしょう。こちらも「御祝準備預金」をしなければいけません…。
祇園祭(2001/7/21)

 永年あこがれているものに祇園祭見物がございます。芝居に入りましてから「おりがあれば…」と毎年思うのですが、叶いません。7月は東京歌舞伎座の3猿之助丈奮闘公演が本年で31年連続。私も1980(昭和55)年から21年連続で出演させていただいておりますので、叶わぬも道理であります。

 そんな私のことをお気遣いくださり、京都のお客様が毎年山鉾巡行の17日を過ぎますと、かならず「粽(ちまき)」をお送りくださいます。お客様の次男様御一家が「鶏鉾」の鉦方と笛方に毎年ご奉仕なさっておいでなので、そのご縁であります。粽のおまつりの仕方もいろいろあるようですが、半紙でくるみ、紅白の水引をかけ、玄関の内側の桟の上につるしておまつりいたしますことで、出入りのときに清められるというやり方を推奨くださいます。

 また、本年は知人が仕事の関係で鉾町の近所に転居されたので、毎日メールで様子を知らせてくださいました。巡行の日には四条河原町の「辻廻し」の様子を携帯電話で実況中継くださいましたが、囃子の音や掛け声が加わり、実に臨場感あふれるものでした。

 この時期、インターネットで京都新聞のサイトを拝見いたしますと、毎日、祇園祭関連の記事が掲載されております。読んでおりますと、うずうずしてまいります。役をすませて、新幹線に飛び乗り、「宵山」だけでも見物して早朝に帰京しようか…とも思いましたが、この暑中にくたびれが出て、舞台にさしさわってはいけないと、断念いたしました。知人の話では「宵山もいいけど、山鉾巡行を見ないとねうちがない」そうで、当初「京都はいやだ。東京に帰りたい」と言っておられた知人も「ほんの少し京都が好きになった」そうであります。

 3猿之助丈の奮闘公演50周年が終わってからなら、いちどくらいお休みがいただけるかな…と考える次第であります。
梅干(2001/7/26)

 私は梅干をいただけませんでした。そして、ただいまも、どちらかというと好んでいただきません。おにぎりが何種類かあると、梅をよけていただきます。しかし、いつでしたか、おいしいおにぎりで、梅の分を残すのがもったいないと思っていただきましたら、実においしくいただくことができました。それ以来、大ぶりで肉厚、少し甘味のあるものでしたら歓迎…という勝手な梅好きになりました。

 今年は暑気ことのほか厳しく、いわゆる「夏ばて」をせぬようにと、知人から梅干を頂戴しました。毎朝の食事のほかに、楽屋の冷蔵庫に瓶詰めして置いておき、舞台の後にふた粒いただいたりしました。そのおかげか、暑さでまいることもなく、元気に過ごしております。体調を整えるためのお薬もいろいろあるようですが、それより、古来の食品をいただいて、「これでだいじょうぶ」と体に思い込ませた方が、なにかよろしいような気がいたします。

 ただいまの時期は、収穫した梅の実をからからに干し上げる「土用干し」の最中で、京都の北野天満宮では正月の「大福梅」用に八月下旬までその作業が続くとのことです。『櫓のお七』の前段に「お七部屋(通称:炬燵)」という場が舞踊会で出ることがございます。成立についてよく存じませんが、そのなかで、~\無理を湯島の神さんへ、梅を断ちたる逢瀬さえ…」という詞章があります。恋する吉三郎に逢いたさに、かわいやお七さんは、好物の梅干を断って湯島天神へ願掛けをなさったのですね。

 話がそれからそれへと飛躍しておそれいりますが、ただいま東京国立博物館で『天神さまの美術』展が開催されております(8月26日まで)。私は5月に京都で拝見いたしましたが、天神様への信仰の篤さを感じさせられる品々が多数ございます。来年は天神様没後1100年だそうで、文楽・歌舞伎で『菅原伝授手習鑑』ばやりではないかと思われます。通しで出ましたらどこの場が当たりますか…。
宿 ニューさがみや(2001/7/29)

 7月興行を打上げ、休みに入りましたので、80歳になります祖母によろこんでもらいたいのと、私自身の癒しを兼ね、中学二年生の息子と三人で、伊豆山温泉にでかけ、とても結構なお宿に泊まりました。

 私はいわゆる「おばあちゃん子」で育ちましたので、祖母には「楽しいことをできるだけ感じて、大往生してもらいたい」、と思っております。今回は大島在住の祖母が出て来やすい場所ということで、いくつか考えておりましたところ、あるお客様の行きつけ、この『ニューさがみや』さんを教えていただきました。頂戴したパンフレットを見ておりますと、なかなかお手ごろな価格で、さらにそちらのHPを拝見するにいたり、即決。E-mailで予約をいたしました。

 千穐楽の翌日、休みの日の「儀式」であります朝のビールを楽しんでから、息子と踊り子号で熱海へ向かいました。熱海駅から港まで、途中、あっちへひっかかり、こっちへひっかかりしながら、坂をぶらぶら下りていきました。港で大島から高速艇でやってきた祖母を迎え、昼食のあと、『起雲閣』を見学し、14時過ぎ、伊豆山の宿へ入りました。台風の接近で曇っていたので暑くなかったのが幸いでした。

 チェックインいたしますと、星野副支配人様がご挨拶においでくださり、お部屋のことでもいろいろご配慮をいただきましたのは、ご紹介くださったお客様のおかげで、ありがたいことでした。このお宿は伊豆山の海岸べりに立地し、道路を隔ててすぐ海。全室「オーシャンビュー」であります。私どもは最上階7階に入れていただきました。部屋に落着きますと、大きくとられた窓からは、左に真鶴、眼前に初島(晴れると大島)、右に熱海・網代が望めます。フロントで渡された印刷物に「チップ拝辞」の旨が記されています。たしかに、「いくら包もうか…、この方が係かしらん…」などと気を遣うので、ありがたいことです。

 ひと息してから、早速屋上の露天風呂へ。相模灘を見渡し、気分爽快であります。高みから海を眺めておりますと、前日まで勤めておりました『俊寛』の幕切れが思い出されます。去っていく赦免船をいつまでも呆然と見守る俊寛…。そんなこんなを考えたり、ぼーっと波を眺めていたりしているうちに温まりました。部屋に帰ったら、祖母は鍵を持ったまま、まだ帰っておらず、それではと、1階の大浴場へはしごいたしました。こちらは「うたせ湯」の力強さが気に入りました。湯上りのサービスとしてラウンジでソフトドリンクの無料接待があり、息子はアイスコーヒー、私は(有料ですが)ビール。ここからも海が見え、台風接近でいささか高くなって寄せる波を飽かず眺めておりました。部屋に帰ってからタオルを干そうと思い、部屋の風呂場に入りましたら、浴槽は小さいながらも、窓が大きくとってあり、ここでも海が見えます。食事までの手持ち無沙汰な時間、お湯をためて文庫本を持ち込み、ゆっくりと浸かりました。

 もうここまでで、すでに「いい宿だ…」と印象付けられており、「料理がまあまあでも、それはそれでいいや…」と思いつつ、夕食になりました。しかし、これが実にみなおいしく、味付けも薄味で上品なものでした。祖母は何度「あー、おいしい」を繰り返したことでしょうか。食後しばらくして、祖母は温泉地お約束のマッサージを楽しんでいましたが、私はいつしか満腹感で寝付いてしまいました。

 翌朝、このお宿の名物、「ご来光を望みながら露天風呂で入浴」は早起き人間として外せないことで、フロントにお願いしておいた「ご来光コール」が4時半過ぎに掛かってきました。「本日は雲が厚いですが、真鶴の方から上がり始めました」とのお電話で、それっ、と屋上の露天風呂へ。家族用の露天風呂が3室あるのですが、空いていたので、そこから柏手を打ってご来光を拝しつつ、朝の入浴を楽しみました。祖母も私の起き出したあと起きて、楽しんだようです。普段の私は、それからすかっと起きてしまうのですが、休日のことでもあり、のんびりと朝寝を楽しみました。

 朝食も、もりもりおいしくいただき、館内や近所にある「走り湯」などを見物し、11時チェックアウト。日本旅館は10時チェックアウトが多いようですが、11時ですと朝の1時間は、ずいぶんゆとりが違います。駅まで宿のマイクロバスでお送りいただき、タクシーでいささかの熱海見物をしてから、「あー、長生きしてよかった…生き延びた…」と申しながら、祖母は大島へ帰っていきました。

 わずか一泊二日の温泉旅行でしたが、なかなか充実した旅でした。このところ、見物よりも宿を楽しむ傾向の強い私ですが、今回のニューさがみやさんは皆様にお薦めできるとても結構なお宿であります。私如き者が申し上げなくても、心得た方はご存知でしょうが、どうぞ、いちどお出かけを。サイトはこちらです。



そのほか 旅の断片

『温泉饅頭 延命堂』
大湯の近所に本店あり。息子と1個ずつバラ売りを食べようと思って頼みましたら、冷茶をいれてくださいました。親切なお店です。帰りに駅のなかの支店で買って帰ろうと思ったら、お店のおばあちゃんが、とうとうと来歴をお物語りくださいました。「今は三代目ですが、初代さんは本業はお菓子屋ではなく、銀行をやっていました。熱海の漁師さんに無担保でお金を貸してあげて旅館なんかを建てさせてあげたんです。その人たちも代が替わって初代さんから受けた恩を今の経営者の人はご存知ないんです…」。もっと伺っていたかったのですが、お勘定を待っているほかのお客様と、われわれの帰りの電車の時間のために、さっさと買って辞去。

『熱海大湯間欠泉』
駅前にございます機関車と並んで溶岩のあいだからぶくぶくと噴き出る温泉…と思っていたら大間違い。休止のときに行き合わせ、説明板を読んでいましたら、突然「シューッ!」と噴出し、思わず「おーーっ」と身を引きました。もうもうと上がる蒸気。なかなか大したものであります。近所の元・本陣では入浴休憩もでき、次回は入ってみようかしらんと思いました。

『そば 鳳家』
銀座のバーのマスターに「葵さん、熱海に行くんだったら糸川においしいおそば屋さんがありますよ」と教えられたお店。手打ちでおいしいおそばでした。ここで知る人ぞ知る熱海の名士、「のり平」さんにばったりお目にかかりました。故・藤太夫師未亡人(置屋経営、ご自身も芸妓)が「『熱海は東京の奥座敷』ということがわかるお店」とおっしゃって、随分前にいちどお連れくださったゲイバー(と申し上げてよろしいのでしょうか)のご主人で、歌舞伎をよくご覧になっておいでです。就業中は女装なさるのですが、昼は普通の男性で、ふっと目が合い、「はてな、どこかでお目にかかったお方だが…どなただったか」と思っておりますうちに、あちらも「あらっ」(とおっしゃったかどうかは解りませんが)と気づいてくださり、「おひさしぶりですねぇ」とご挨拶いたしました。あとで祖母と息子にどういうお方なのか説明いたしますのに苦労しました。ちなみに、このおそば屋さんをお教えくださったマスターも…ゲイです。

『起雲閣』
もともとが根津嘉一郎様の別荘をお宿にして営業されていたものが廃業され、それを熱海市が買い取り、ただいまでは博物館のような感じで公開しています。私はいちど泊まってみたいと思いつつ果たせませんでしたが、なかなか素晴らしいところであります。とくに、サンルームが気に入りました。各部屋を担当の係の女性がご説明くださるのですが、サンルームの係の方は「ごめんあそばせ」調で実に楽しく拝聴いたしました。

『熱海城』
歴史的なものでなく、近年の建物で、今まで熱海を訪れることはあっても登城したことはありませんでした。また、そのつもりもありませんでしたが、祖母の「この歳まで登ったことがないから行ってみたい」という要望で出かけました。感想は…とくに申し上げません。甲冑の展示コーナーで、赤穂浪士の討入の折、内蔵之助がかぶっておりますものは火事場用のもので、鉢が熱を持たないように鋼でなく、革や和紙を貼りあわせた一閑貼りでできており、錣も付かずビロードの布が付いているのは水を吸わせて熱気を防ぐためとのこと。勉強になりました。その後、近くの岬公園のティールームで憩いました。窓の外にやたら鳶が飛翔しています。野生の鳶を餌付けしているのだそうです。いつもは大空高く飛んでいる姿しか見たことがなく、近くで見ますとなかなか迫力があります。「とんびにあぶらげさらわれた」なんて可愛いものではなく、近づかれたら私など逃げ出してしまいます。ここから、ロープウェイで熱海後楽園ホテルのところへ降りるのですが、乗り口のところに『熱海秘宝館』というのがございます。子供のころ、夏の恒例の家族旅行は、かならず熱海に最後に一泊して大島へ帰るのがお約束でしたが、いつもこの『秘宝館』は無視されていました。子供としては「秘宝」なんてどんな面白いものがあるのだろうと思っていたのですが…。やはり、中学二年生の息子同伴では無視せざるを得ません。

『熱海後楽園ホテル』
タワー館最上階(18階)のレストランはランチのお値段も安く、景色を眺めながら簡単にお食事するのには手ごろだと思いました。夜はさだめし夜景がきれいでしょう。

 あいかわらず、とりとめのなき散らし書きとなりました。熱海は物心ついてからは家族旅行、この世界に入りましてからは、在住の藤太夫師のご縁で大島への行き帰りに立ち寄りました。藤太夫師は桃山町と申します駅の裏の高台にお住まいでした。今はそのお住まいには別のお方がお住まいですが、駅からその建物を懐かしくしばし見上げておりました。