![]() 2001年12月 |
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| お酉様(12/2) わが家では、浅草鷲(おおとり)神社の酉(とり)の市、早稲田の穴八幡神社の一陽来復(いちようらいふく)御守授与に参拝いたしますのが毎年の慣わしとなっております。 11月30日、本年の三の酉に参詣いたしました。昔のお酉様はたいへん寒かったそうで、扇太夫師も「ぼくたちは角袖の襟を立てていったものだよ」とおっしゃってでした。しかし、私がお参りにうかがうようになりましてからは、あまり寒い記憶はございません。先日も暖かな晩でございました。 人出はなかなかのもので、鳥居の前で昨年の熊手をお納めし、ご本殿の方へご参詣の皆様の波に漂いながら押されてまいります。我が家では、中ほど左側の『吉田』さんとおっしゃいますお店で、毎年縁起物の熊手を頂戴いたします。台帳に控えておいてくださいますので、うかがいますと既に江戸文字で名札が書いてあり、熊手の注連縄に差し込んでくださいます。こちらは歌舞伎・落語関係のごひいきが多く、7芝翫丈御一家、5勘九郎丈、皆様のお買い上げが飾られております。たいへん上品な江戸前の飾りで、私はこちらのものでないとお祀りする気がいたしません。ときおり、雑誌等で紹介されておいでですから、ご存知のお方もございましょう。景気よく三本締めをいたしまして、社務所で『かっこめ(こちらが公式の御守)』を受け、参拝の列に戻り、「立ち止まらないで下さい!」と連呼されるなか、お賽銭を投げ入れ、柏手を打ち、お参りいたします。本来はまず神前に参拝いたしまして、下向(げこう=参拝の帰り道)にお札や縁起物をいただいて帰るのでしょうが、なにしろ、「一方通行厳守」ですので、都合上順が逆になります。 お酉様と浄瑠璃は何か接点はないかと考えてみました。思い当たりますのは、『良弁杉由来:二月堂』の良弁僧正がおちいさいころ、鷲にさらわれるということ。鷲は兎・狸・狐などを爪で捕らえて食べるので、人の子をも捕らえて遠くに連れ去るとして恐れられてきたそうです。巨大で強力なところから霊鳥として尊ばれ、関東の鷲神社・大鳥神社などはこれを神に祭ったものとのこと。『東大寺要録』には、良弁僧正は関東から鷲にさらわれて山城国につれてこられた子であるという話を記しているそうで、これが『良弁杉由来』の元でございましょうか。ただいま鷲神社は家内安全・商売繁盛の信仰で栄えております。 お酉様の下向道には浅草に出まして、何か食事して帰りますが、本年は『おりべ』さんというすき焼き屋さんにうかがいました。ご主人はその昔、「竹本織部大夫」と申され、文楽の8綱大夫師のお弟子でいらっしゃいましたが転職され、ご出身地の伊賀牛専門のお店を開業なさいました。私共がうかがいましたら、ちょうど7芝翫丈ご一家が隣座敷でご会食でした。観音様からですと、ひさご通りをまっすぐに言問通りを越えて、右側とんかつの三好弥さんを右折、一筋目を左折、右側です。お昼は要予約です。お座敷でご主人がていねいに仕立ててくださいますので、落ち着きます。あらかじめお電話をお入れいただいたほうが確実と思われます(浅草3-37-3/03-3873-8873)。なお、三好弥さんを右折いただき、しばらくした右側の『八重』とおっしゃるお好み焼屋さんは、私共の若手三味線弾きさん、鶴澤祐二氏のお家で、こちらもどうぞごひいきに。 |
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| 追悼 鶴澤燕三師(12/3) 文楽三味線の鶴澤燕三師が逝去なさいました。私は燕三師とはいささかご縁がございまして、感慨無量でございます。 私が高校に入学いたしましたころ、同級生の女の子が『セブンティーン』という雑誌の切り抜きを持ってきてくれました。坊主頭の少年が三味線を稽古している写真が大きく載っておりました。それは、鶴澤燕三師のもとへ中学卒業と同時に正式に入門された、鶴澤燕太郎というお弟子さんの修業の様子を取り上げましたもので、当時、歌舞伎義太夫の太夫になりたいと志しておりました私には、やはりそういう世界に飛び込む同世代がいるのだと心強く思ったことでした。「燕太郎君に励ましのお便りを出そう」と住所も掲載されておりましたので、早速、自分の気持を綴ったものを送りました。ほどなく、お返事を頂戴いたしましたが、ご本人・お父様、そして燕三師とお三方から頂戴し、驚きました。掲載されていた宛先は燕三師のお宅であったのでした。ちなみに、その「燕太郎君」は、ただいま私共竹本の豊澤菊二郎氏であります。 それから、東京公演の都度、拝見すると燕三師に感想をおたよりいたしましたが、すぐにコクヨの便箋に万年筆で克明にしたためられたお返事を頂戴いたしました。あるとき、「あなたの浄瑠璃の聴き方はお若いのに商売人の聴き方です、商売人になってみませんか」とお言葉をいただきました。そこで、実は歌舞伎の太夫を志していることを申し上げましたら、即座に「浄瑠璃を語りたいのなら文楽に入りなさい、私が世話をしますから」と言われ、息子さんのことでお話したいことがあるからと、父親まで呼ばれました。結果、私がどうしても歌舞伎の義太夫を語りたいということで、この道に入りましたが、数年しまして大阪の床屋さんでばったりご一緒いたしました。燕三師がおすませになられて、ご挨拶申し上げますと、「まあ、どうかしっかりやってください」とおっしゃっていただきました。「何年か文楽で修業して義太夫の基礎を身に付けてから歌舞伎に転向したらいいじゃないですか」とも言われておりましたが、文楽に行っておりましたらどうなっておりましたでしょうか…。 燕三師の演奏はたいへん惹きつけられる音色で、子供心に『曾根崎心中:天満屋』など、うっとりして拝聴いたしました。床での態度もお品があり、三味線という楽器はこういうふうに扱うものかと思いました。また、お弾きになっていらっしゃらない間、棹に手をかけて息を詰めていらっしゃるご様子、弾ききってもしばらくはそのままの状態で構えておいでのご様子、床に出ておいでの時間はすべてお体が戯曲のために生きているような感じがいたしました。ふだんもなかなか厳格なお方だったらしく、いろいろなお話を耳にいたしておりますが、やはりそうして舞台に臨まれたからこそ、あのようなご立派な演奏をなされたのだと思います。 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 |
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| ウイルスメール(12/4) このところ、『ワーム』と称する、コンピューターウイルスが流行しております。 私のところへも、感染なさった方がご存知ない間にウイルスの働きで勝手に送信された、「Re:(無題)」というメールが、このところ頻繁に届きます。その方面に詳しい知人が、「プレビューウインドウに表示しただけで勝手に自身で開封し感染する」と教えてくれましたので、プレビューウインドウは非表示にしてしまいました。送られてまいりますと、すぐに削除し、「削除済みアイテム」でさらに削除しております(私はアウトルック2000を使用いたしております)。ウイルス対策用のソフトも常駐させておりますが、いったい効いているのかどうかわかりません。 PCに詳しい知人も、感染してしまったとのことで、なかなかあなどれません。感染いたしますと、「アドレス帳」にございますメールアドレスから無作為にウイルスメールを送信し、しかも、その記録を残さないというのですから、たちが悪い。かく申す私も「知らぬは本人ばかりなり」で既に感染して、思わぬメールを皆様にお送りいたしているのではと、にわかに心配になってまいりました。 読者の皆様で、お便りを下さいましたお方には、なるべくお返事をいたすようにしておりまして、アドレスも当方に残っておりますが、もしも、私からそのようなメールがワームの機能で送られましたらば、速やかにご処理くださいますようお願い申し上げます。また、そのようなことがございましたら、ご一報賜りたく、お願い申し上げます。 |
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| おそば(12/8) この季節、おそば屋さんの店頭には「新そば」という貼紙が目につきます。 私が幼い時分、よく祖母が~\信州(しんしゅ)信濃の新そばよりも、わたしゃ信ちゃんの傍が良い」と子守唄のように言っていたことを憶えております。都々逸の~\遠く離れて気をもむよりも、わたしゃあなたの傍が良い」の替歌なのでしょうが、私の名が信吾ですので「しん」がたくさん入って、語呂が面白いと思います。ちなみに、祖母の名も「シン」であります。京都のいろまちでは、深夜におそばの出前が取れるお店があり、お酒のあとちょっと食べようかということがございます。若い舞妓ちゃん(若いに決まっておりますが…)が「うちは…」と遠慮しますと、おねえさん芸妓が「おそば外れはあかんのえ」と勧めます。「お客様のお傍を離れたらいけない」というゲン(縁起)かつぎであります。 おそばは私の好物のひとつで、よく頂戴いたします。家でも乾麺をゆがき、ざるそば仕立てでいただきますし、出先でもよくのれんをくぐります。東京風の濃い味付けのお汁が好きで、あらかたいただいてしまいます。栄養士の方がご覧になったら笛を吹かれそうです。どうかしますと立食いにも入りますが、なかなかおいしいお店もあるものです。以前は立食いそばと申しますと、ずいぶん質の悪い感じがいたしまして、事実、私が東京に出てまいりました時分にはずいぶんとお粗末で、これは人の食べるものかしらん…というおそばでしたが、このごろは、なかなかどういたしましてあなどれません。また、お店も衛生的で、仕事の合間に出先で急いでいただくときなど、重宝いたします。 お店によりましては見識で、わさびが葉のついたまま出てきまして、そばが出るまでにご自分であたってください…というご趣向もございますが、私は好みません。めんどうなのです。上方落語の笑福亭松喬師が、ご自作のおそばパーティーをなさいますと、よく寄せていただきます。お弟子さんがたっぷりあたってくださったわさびをそば猪口のお汁に入れず、おそばになすりつけてから、ちょっとお汁をつけていただくことを松喬師から奨められました。ちょうどお刺身をいただくときの要領です。これはわさびがちゃんとしているときに、実においしくいただけます。いちどお試しを。しかし、産地から粉を取り寄せ、気温の加減などを考えて打上げられたおそばは何もつけずにいただいても風味があり、おいしいものです。巡業などで信州にまいりますと、おそばの名店がいろいろございますようですが、おそばはおいしいが、お汁が口に合わないことがございます。良い悪いではなく、好き好きで勝手なものです。もっとも芸にもそれは申せますが…。お好みということでは、「カレーなんばん」もたいがいはうどんでいただきますが、亡くなられた義三郎師が「おそばでもおいしいよ」とおっしゃるので方々で試してみましたことがございます。なるほどおいしい。「松坂屋の永坂更科のがなかなかおいしかったです」と報告いたしますと、早速出かけられ「うん、葵君の言ったとおりうまかった」とよろこんでいただけました。義三郎師は深川っ子で、いつもおそば屋さんでは、「もり」か「ざる」なのですが、なぜかカレーなんばんもお好きでした。 歌舞伎座の正面左側奥に『歌舞伎そば』がございます。食券をお求めになり、カウンターで供される式ですが、こちらの男性の店員さんの仕事振り(特に忙しいとき)は一見に値します。ご自身の体験から生み出されたのであろう「型」がございまして、見得こそいたしませんが、充分パフォーマンスとなっております。「かき揚げざる」がおいしく、なかなか量もございます。私共もときおり頂戴いたしますが、ちょうど揚げ物をなさっておいでのときにまいりますと臭いが衣服に付き、楽屋で「あっ、歌舞伎そばに行ってきましたね」とわかってしまいます。 幕内の風習に「とちりそば」というものがございますが、当節、あまり聞きません。楽屋近くの喫茶店の「コーヒー券」がそれにとって代わっているようです。 昔、東京ではおそばはかならず「おかわり」をしたものだそうで、一枚だけ食べて帰るのは「しみったれ」だったとうかがったことがございます。ですから、老舗と呼ばれるお店の「せいろ」などお話にならないくらい一枚の量が少ない…。これは「おかわり」を前提にした量であるとのことだそうです。量と申せば、盛岡の「わんこそば」。私も二十歳代の頃、挑戦したことがございました。たしか68杯くらいいただいたように記憶しております。 今日は実はクール宅急便で、ご懇意のお方から信州の生そばが届き、これからゆがいていただこうという魂胆でございまして、それでおそばの話題とはなりました。 |
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| 勝手口(12/15) 昨14日、あるお集まりにお招きいただき、作家の関容子先生との対談で、歌舞伎義太夫のお話を申し上げてまいりました。主催はお洋服のお店で、お得意様ばかり50名様ほどでしょうか。昼食の後、私共のお話がございまして、桂文楽師が落語を一席うかがうという番組であります。会場は、名にしおう新橋の金田中(かねたなか)さんでした。 金田中さんと申しますと、政財界・文化人のそうそうたる皆様がおいでになるところで、私のようなものは、これまで、また今後もご縁があるか?というような料亭であります。新橋演舞場の向かいにございますが、立派な数寄屋造りの外観で、シンプルな玄関先はちょっと滅多なものが寄り付けない威厳がございます。以前は昔ながらの建築だったそうですが、火事で焼失。「最後の江戸の火事」と評されたとのことです。以前、『妹背山婦女庭訓:吉野川』が出ましたときに、7芝翫丈が、「あたしがね、あにさん(6歌右衛門丈)の定高で雛鳥をやったとき、ロビー(歌舞伎座)での稽古で~\かささぎの橋はないかと…ってクドキのところでウーウー消防車が通るの。あんまりすごいんでなにごとだろうと思ったら、それが金田中の火事」とおっしゃっておいででした。 さて、その金田中さんに仕事ではありますが、うかがうことになり、ふと思い浮かんだことがございました。それは『わが師、桂文楽』(柳家小満ん著・平凡社刊)に「お座敷」という章があり、「料亭では玄関脇の入口から入りお帳場の女将にちょっと挨拶をしてから…」と書かれていたことです。私共はまず料亭で仕事ということはございませんから、「なるほど、噺家さんはこういうお仕事のときは楽屋口ならぬ勝手口からお入りになるんだな…」と知りました。それが今回、自分自身が出演者として料亭にうかがうわけですから、その通りに立派な玄関の右脇にございます勝手口と思われる戸を恐る恐る開けて「ごめんください…」と入ってまいりました。「あら、そんなこちらからでなく、玄関からお入りいただいたらよろしいのに…」とおっしゃっていただきましたが、お声の感じから正解だったようでほっといたしました。 関先生との対談がすみまして、控室でこの勝手口のお話を申し上げたりいたしておりますうちに、当代文楽師が演芸を終えて戻られました。初対面のご挨拶をいたしましてから、関先生が「こちらは先代さんがそうなさっていたというのを本でお読みになって、そのとおりなさったそうですよ」と文楽師におっしゃると、「あたしたちはみんなそうなんですよ。昔はきびしくてね。われわれふぜいが玄関からうっかり入ろうものなら下足番のおじさんに叱られます。塩まくぞ!なんてね。それくらいけじめがきちんとしていました。あたしも師匠(8文楽師)のお供でいろんな料亭さんを廻りましたから勝手知ったる…でね。文楽を襲名したときにごひいきのお客様が、お祝いに新喜楽さんでごちそうしてくれるっていうんでね、いつものように勝手口からうかがったんですよ。そうしたら今日はお客さんなんだからって玄関から通されました…」とのことでした。 楽しんでいただこうとする芸人、楽しもうというお客様、そのけじめをつける入口…。ただいまふと思い出しました。9福助丈が八重垣姫を6歌右衛門丈のご自宅に教わりにいらしたとき、私と三味線弾きさんには玄関から入るようおっしゃり、ご自分とお供の芝喜松丈は勝手口にお回りになりました。「謙虚」という言葉が薄らいでいる昨今、いろいろと考えさせられる勝手口でありました。 |
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| 師恩 竹本藤太夫師(12/22) 冬至の本日、お世話になりました竹本藤太夫師の祥月命日であります。 私は扇太夫師に前名の葵太夫を頂戴いたしましたが、きちんとした師弟関係は師匠の方でお考えにならず、なんとなく「身内」のような感覚でお世話になっておりました。そこで、そのつどいろいろな師匠方にご指導をいただいておりましたが、3猿之助丈のお芝居で起用していただくようになりましてから、当時、3猿之助丈の方の責任者であられた藤太夫師に、ずいぶんとお世話になりました。 藤太夫師はお若い頃、「天下茶屋の師匠」と呼ばれた、文楽の6竹本土佐大夫師のお弟子で「土佐栄大夫」と名乗られ、競争激しい当時の文楽で、『妹背山婦女庭訓:道行恋苧環』の橘姫を語るところまで出世なさいましたが、戦争にとられてしまわれました。復員後は文楽に戻らず、佐世保でカメラ店を開業されておりましたが、事情で竹本に入られ、豊竹岡太夫師のご門弟となられまして、3猿之助丈の舞台に活躍なさいました。立ち声のお方で「ピーーーン」としたお声をご記憶のお客様もおいでと存じます。 私がこの道を志しましたとき、なにしろ後継者不足でしたので、皆様よろこんでお迎えくださいましたのですが、ただおひとり、藤太夫師だけが、「この仕事は事業に失敗した私のような世捨人がやる仕事だから、あなたのように前途のある青年がやるものではない。まず大学まできちんと勉強しなさい、それから考えても遅くない」とご助言くださいました。しかし、私は高校卒業後すぐに入門いたしましたので、藤太夫師もしようがないなと思われたのでしょう。それからは丁寧にお稽古くださいました。 こう申しますと失礼ですが、なにか、うまが合うというのでしょうか、ご一緒しておりましても打ち解けておりました。私は藤太夫師にいろいろお仕えしておりますのが、自分でもごく自然体で、「こうさせていただきたい、こうしたらよろこんでいただけるかしらん…」という感じでした。3猿之助丈の付人の京子さんに、「葵太夫さん、藤太夫さんに後姿がそっくりですね」とか、長唄の方に「巡業中いつも一緒で親子かと思った」と言われたりいたしました。私が藤太夫師のお手伝いをしている姿がほのぼのしていたらしいのです。巡業中、バス移動のときなど、偉いお方は二人がけの席におひとりで座られるのですが、いつも私が脇に座らせていただき、芸の話、戦争中の話などお聞かせくださいました。藤太夫師も話好き、私も話好きでちょうどよかったのでしょう。大島へ帰省いたしますときには、熱海にお住まいの藤太夫師のお宅にご挨拶に寄ってから帰っておりましが、大風呂がお好きな藤太夫師は、港のそばの後楽園に入りに行くから一緒に行こうと、お見送りいただいたことがございました。 いわゆる「芸人」とは違った気質をお持ちで、会社感覚と申しますか、「組織の運営」などと、普通われわれの楽屋であまり出ない単語がお話によく出まして、当時あまり皆が関心を持たなかった、「竹本協会」発足のことなど熱意を持ってお話しになられました。ただいま私方に竹本協会事務局がございまして、皆様のお手伝いをさせていただいておりますのも、藤太夫師の影響かなと思います。 お稽古は懇切丁寧で、なんべんでもやってくださいました。『高野物狂』『かいな』『鳥居前』『八幡山崎』『橘姫』…。なかでも橘姫はご自分の文楽時代に思い出のお役で、とくに詳しくお稽古いただきました。ほかにも、基礎が不足している若手には、早くから芝居においでになり、役以外の「入門編」のお稽古をなさいました。 ある太夫さんが、「わしがこの次、竹本の天下を取るから、君も協力して欲しい」とおっしゃったので、「たかが30人にも満たない中で何が天下だ…」と笑っておいででした。文楽時代の6土佐大夫師、また歌舞伎の岡太夫師、ご両人共に頭脳明晰、人格識見備わったお方だったそうで、お手本になさっておいででした。そして、「どんな方にもお世話になるんだから、きちんと接しなければいけないよ」とおっしゃっておいででした。ですから、大道具さんや口番さんに藤太夫師は人気がありました。 この世界にねたみや中傷はいつの世にもございますようですが、入座されたときに楽屋に置いてあった舞台衣裳が一式盗まれたり、ずいぶんといろいろと言われたり、ご苦労なさったようです。「だんだんと上になってくるにしたがって孤独になるけど、それは仕方がない。世間というとこの芝居の中だけという人間ではつまらんよ。どんな大会社の社長と並んでも自然にふるまえるような人にならないと…。ときん紳士ではいけない」 胃の開腹手術をなさってからもご立派に舞台を勤めておいででしたが、ちょうど5時蔵丈御襲名の『妹背山婦女庭訓:入鹿館金殿』(1981/6)から声に不調が起きました。翌月、3猿之助丈の『平家女護島:俊寛』のとき耳鼻咽喉科で診てもらわれましたら、精密検査を要すとのことで東大病院に通院。胸部の大動脈瘤が発見されました。このとき、3猿之助丈一行の訪欧公演の出演が予定されておりましたのですが、とりやめとなり急遽私が代役で参加いたしました事情は、「今月のお役(2001/7)」で申し上げました。 帰国いたしまして、東大病院に入院中の藤太夫師にご報告に上がりますと、たいへんよろこんでいただきました。しかし、動脈瘤はやっかいな部位にできているそうで、手術が難しい…。声帯を害して切らねばならないとの予見でしたので、「いざとなったら浪曲の広澤瓢右衛門ばりでいくさ」と笑っておいででした。 12月22日に手術。しかし血管がうまくつながらずご逝去。享年63歳。くしくも岡太夫師の祥月命日と同じ日でした。 私は国立劇場開場15周年の『菅原伝授手習鑑』に出演いたしておりました。「車曳」を勤め、楽屋で扇太夫師に「ありがとうございました」とご挨拶を申し上げると、乾いたお声で、「藤さん、死んだってさ…」。目先が真っ暗になりました。まさかお亡くなりになるとは思わなかった…。前夜もお見舞にうかがい「なあに、手術でいけなかったら、先生にちょんと切ってもらえばオダブツさ」とお元気に笑っておいででしたのに…。気を取り直し、次の幕の「佐太村(前)」の床に座りましたが、このときのお三味線が鶴澤絃二郎師で、藤太夫師の相三味線だった師匠です。もう勤めておりましてもたまらなくなり、きっかけの合間に泣きじゃくるわ、~\白太夫、唾を呑込んで奥へ行く」など声になりません。下りてきてから絃二郎師が、「葵さん、おたくもつらいだろうが、気を落としちゃいけませんよ…」と慰めてくださいました。 お世話になった身といたしましては、かかる場合、きちんとお見送りをせねばいけない。当日はご遺骸に対面できない状況でしたので、まず身ぎれいにしておかねばと、銭湯にまいりました。ちょうど冬至とあって、大きな湯船にユズが袋に入れていくつも浮いております。つかりながら、短い間ながらたいへんにお世話になったことがつぎつぎに思い出され、湯船で泣き出してしまいました。 没後20年…。ただいま、ご遺族のご厚意で藤太夫師の床本はすべて頂戴し、お名前も預からせていただいております。「圓満院釈勝響居士」。浄土真宗をご信仰でしたので、京都の西大谷、親鸞上人御廟所のそばに分骨が納められております。京都にまいりますと、お参りいたしますが、いつも「信ちゃん、慢心したらいかんよ」とおだやかな藤太夫師のお声が聞こえてまいります。 |
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| 歳末(12/31) わが家の年越しは年年歳歳、いたしますことが簡略になってまいります。 芝居の稽古が29日にすみまして、30日には家族で分担して大掃除のようなことをいたしますが、私など少しいたしますとすぐに缶ビール休憩となりまして、いいかげんなものであります。京都のお客様が毎年お送りくださいます京都の立派な注連縄飾りを玄関のドアに掛け、松の枝に奉書を巻き、紅白の水引で結びました門松を立てますと、外見だけは迎正の態となります。毎年気をつけておりますのは、この時期、芝居も休日、一年も終わりということでホッといたしますのか、風邪を引きやすく、あまり気を緩めないようにいたします。 暮れには有難いことに皆様からお心に掛けていただき、いろいろとお送りいただきますが、今年は鯛とマグロがいっときにまいりまして、あわてました。宅の冷凍冷蔵庫はわりに大きい方なのですが、とても入りきる量ではなく、一計を案じ、いつも家族でまいります近所のお鮨屋さんにお願いして料理していただきました。冷凍で頂戴いたしましたマグロの柵はなんですか戻すコツがございますようで、さすがプロのわざ、きれいな色に戻って盛り付けられました。海水と同じ塩水につけましてから、ペーパータオルでくるんで戻すのだそうです。一部を「ヅケ」にしていただきましたが、これがまたおいしい。漬け込むたれは、醤油5・みりん1、そして水1だそうで、1時間半くらいが適当とのこと。鯛は天然物で、尾を見ましてきれいな形のものが天然物、ちょっとくだびれているのは養殖物だそうで、顔つきも違うそうです。食べた食べた…。しあわせな歳末でありました。 今年を振り返ってみますと、12ヶ月毎月本公演に出演したことになります。8月は歌舞伎座の改修工事で打ち日が短こうございましたが、あとはよく勤めたと思います。 1月=国立大劇場『文治住家』と歌舞伎座『実盛物語(前)』『団子売(シン)』の掛持ち。『文治住家』は文楽の曲からの歌舞伎化で、気を遣いました。また毎日の劇場掛持ちやなにかでくたびれましたのか、新年早々の12日から3日間の病気休演は申し訳ないことでした。尿管結石の激痛でとてもおなかに力など入らず、ご見物・代役・ご関係の皆様にご迷惑をおかけしたことを遺憾に思います。その後は安定いたしておりますが、やはり、不規則な生活やストレスなどで再発の可能性もございますそうで、生活に注意いたしておりますせいか、風邪を引くこともなく、よい按配であります。 2月=松竹座『車曳』。病後の地方公演、しかも他に義太夫狂言は出ておりませんでしたので、なにかございましたときには心配でしたが、精密検査の結果、おそらく大丈夫だろうとのことで、まいることにいたしました。16日に正月激痛の元となった結石が排出されました。その辺のことは澤村宗之助丈のHPでおしゃべりいたしておりますので、ご一読くださいませ。 3月=歌舞伎座『金閣寺:爪先鼠』。ご見物になられた辛口の方から、「ひさびさに葵さんのいいのを聞かせてもらったよ」とおっしゃっていただきましたが、まずは体調もよろしかったように思います。 4月=松竹座『石切梶原:星合寺』。私に廻ってくるとは思っておりませんでしたので、役が当たりましたときにはあわてました。3鴈治郎丈は「イキさえつんでいたら、見計らいなんて生ぬるくなるから…」とおっしゃるとおり、毎日新鮮な舞台でありました。文楽の9綱大夫師と桜ノ宮のお花見も良い思い出であります。 5月=松竹座『怪談敷島譚:責場』。作曲をさせていただきました。子役さんの芸熱心なのに感心…。ふた月続きの松竹座出演は珍しいことです。 6月=国立大劇場『引窓』。7月=歌舞伎座『俊寛』『大炊之助館:奥庭』。8月=歌舞伎座『化競丑満鐘』。9月=歌舞伎座『紅葉狩(シン)』。10月=歌舞伎座『先代萩:御殿まま炊き』。11月=全国公演『鮨屋』。12月=歌舞伎座『吃又』につきましては、『今月のお役』をご覧下さいませ。 私なりに毎日毎日の舞台をたいせつに勤めさせていただきました。力不足のこともございましたが、皆様に歌舞伎のために少しでもお役に立てているとお思いいただけますれば、何よりの一年でございます。来年も相変わりませず、歌舞伎をごひいきにお願い申し上げます。 ではこれから、年越しそばをいただいて、2002年を迎えることにいたします。皆々様にもご機嫌よろしうご越年のほどを。 |
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