自家焙煎コーヒー豆小売専門店 エカワ珈琲店
純喫茶コロナの物語/ その2
その1 その2
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『純喫茶コロナ物語』は、エカワ珈琲店の前身で、昭和30年(1955年)の秋に和歌山市雑賀屋町26番地(現在は39番地)で創業した純喫茶コロナの盛衰記です。
   目次
その1 その2
(1) 1955年、秋 (1) 70年代前半のコロナ
(2) 純喫茶コロナ誕生物語 (2) 1970年代前半外伝
(3) 昭和31年から昭和34年 (3) 昭和51年から昭和55年
(4) 続純喫茶コロナ誕生物語 (4) 1970年代前半外伝U
(5) 昭和35年から昭和39年 (5) コーヒー専門店
(6) 昭和40年から昭和44年 (6) 昭和56年から昭和62年
(7) 60年代の純喫茶コロナ (7) 喫茶店の落日
(8) 続60年代の純喫茶コロナ (8) 成功体験
(9) 昭和45年から昭和50年 (9) 純喫茶コロナのその後
1970年代前半の純喫茶コロナ
   
鉄筋コンクリートの店舗
母親は、その時代の最先端をいく、喫茶店という事業を営んでいましたが、冒険のきらいな、保守的な日本人でした。
      
ですから、店舗を建て替えるにしても、効率を優先するのではなくて、何があっても、倒壊しない建物、100年くらいは実用に耐える建物ということで、鉄筋コンクリートの建物に固守していました。

鉄筋コンクリートにこだわらなければ、簡単に用意することができる建築費を、こだわったために、3倍くらい必要になってしまいました。
  
貯金だけでは間に合わないので、当然、金融機関からの借金に頼ることになります。

母親にとって、金融機関からの借金は、冒険でも何でもありませんでした。
  
当時の、純喫茶コロナの売上げから考えると、十分に返済が可能な金額のはずでした。
 
続鉄筋コンクリートの店舗
店舗の新築に要した期間は、昭和46年(1971年)の7月から11月までの、約5ヶ月間です。

そのころ、売上げの半分は、コーヒーの出前でした。
店舗の新築中も、出前注文にだけは対応していました。

しかし、出前の注文が休店前と同じだけあったのは最初だけで、11月ごろになると、ほとんど無くなっていました。

考えて見れば、当たり前の話です。
お客さんは、自分たちの行きつけの店に、コーヒーの出前を注文します。
  
5ヶ月も休店すれば、お客さんは、どこか別に行きつけの店を見つけてしまいます。
そして、コーヒーの出前も、その店に注文をするようになります。

ちょうどそのころ、県庁の周辺では、ビルの新築ラッシュが続いていました。
  
ちょっと大きな新しいビルには、必ず、喫茶店がテナントとして入居する時代の始まりと、純喫茶コロナの新築時期が、不運にも重なってしまいました。
 
新築後の純喫茶コロナ
新装開店後の「純喫茶コロナ」には、思うようにお客さんが戻ってきません。
建築中の5ヶ月間に、喫茶店の新規開店が3店舗もあったのですから、当然のことでした。

建築費用も、建築中に、「ああでもない、こうでもない」と言っていろいろ変更したので、予算をオーバーしてしまいました。
      
必死になって金策に走り回ったのですが、結局、2階部分が未完成になってしまいました。
この部分は、後年、半分だけ部屋を作ったのですが、残りの半分は、2009年現在、いまだに未完成のままです。

新築後、客数は、思うように伸びず、コーヒーの出前も、少なくなっていたのですから、財政状態は悪化して行きます。
それに、借金の額も、最初の予定額を、相当額オーバーしていました。
国民金融公庫からだけでなく、銀行からも借金をしていました。

それでも、昭和47年(1972年)、昭和48年(1973年)は、まだ、店舗のほうが何とか繁盛していましたから、以前のような贅沢はできませんが、人並み以上の生活を維持していました。

昭和49年(1974年)になると、もうダメでした。
喫茶店間の競合が激化して、純喫茶コロナのように、食事メニューを出さない喫茶店から、お客さんの足が遠のくのを防ぐ術がありません。

借金の支払いに四苦八苦で、従業員の給金が払えなくなってしまいました。
しかたがないので、母親一人で店を切りまわすしかありません。
もちろん、大学4年生だった私も、店を手伝いました。

「純喫茶コロナ」衰退の始まりです。
 
教訓(その1)
未完成の鉄筋コンクリートの店舗を建設するのに要した費用で、純喫茶コロナの敷地と同程度の広さの敷地を、店舗の周辺で購入することができた時代です。

もしもこの時、土地を購入していたなら、その後の生活苦は無かったと思います。
  
自動車通勤の増加に伴って、昭和50年代の純喫茶コロナ周辺では、駐車場の賃貸料金が急騰して、昭和55年頃には、1台につき月額二万円くらいが、常識となっていたのですから。

それに反し、鉄筋コンクリートの店舗を建てたことで、固定資産税の支払い額が、それ以後、急上昇してしまいました。

その経験から、建物にお金をかけるなんて、愚の骨頂です。
固定資産いうものは、最少必要限あれば良いと思います。
それよりも、そんなお金があれば、投資にまわすほうが良いと思います。

なにはともあれ、借金はしないに限ります。
 
1970年代前半外伝
 
この時代、昭和40年代の後半、コーヒー好きの人は、コーヒー豆を買ってきて、家庭でコーヒーを飲むようになってきつつありました。

コーヒー好きの人たちは、コーヒー豆を、百貨店や行きつけの喫茶店で、相当に高い価格で購入していました。

その頃、京都には、出町輸入食品という、自家焙煎コーヒー豆を小売販売する店がありました。

うわさでは、ある会社を定年退職したご夫婦が開業されたお店だということでしたが、当時としては、相当に安い価格でコーヒー豆を小売していました。

うわさを聞いて、店を覗いてみると、物凄い活気があったのを覚えています。

この店は、1999年の時点で、日本一のコーヒー豆小売店です。
その後、昭和50年代に入ると、簡単にコーヒーを淹れることができる、コーヒーメーカーが、ものすごく売れていたのが記憶にあります。
 
1976年(昭和51年)〜1980年(昭和55年)
 
純喫茶コロナの台所事情が、悪化の一途をたどった時代です。
まるで、悪夢の時代でした。
 
コーヒー専門店という、サイフォンで淹れたコーヒーを売り物にする喫茶店の、大量の新規出店があって、競合が厳しくなってきました。
 
コーヒー専門店といっても、軽食メニューを扱っている店がほとんどでしたが、その目新しさから、喫茶メニューだけで勝負している、純喫茶コロナのような古いタイプの喫茶店から、お客さんを奪って、結構、繁盛していました。
 
競合が厳しくなって、コーヒー専門店という新しい型の喫茶店に、お客さんと、ビジネス街特有の出前を奪われてしまって、純喫茶コロナの売上げは激減してしまいました。
 
喫茶店が水商売ではなくなって、『喫茶業』という新しい業態が確立されたことに、純喫茶コロナが気が付かなかったのだと思います。
 
人件費が払えなくなってしまって、母親が、たったひとりで、店を切り盛りするところまで落ち込んでいました。
 
この時期、窮地から脱出する方法として、「コーヒー豆の自家焙煎」も考えたのですが、コーヒーの生豆の仕入れ方法がわからず、断念しました。
 
もっと、自家焙煎のことを徹底的に調べて、コーヒー豆の自家焙煎に踏み切っていたらと、今になれば、悔やまれます。
この時期に自家焙煎を開始した店で、有名になっている店が多数あります。
 
1970年代前半外伝U
 
昭和53年・54年に、インベーダーゲームやブロックくずし等、テーブルゲームの大ブームがありました。
 
1回100円のゲーム代金でゲームを楽しめる、テーブルゲーム機を喫茶店に貸し出す業者があって、その業者から、テーブルゲーム機をレンタルで設置している喫茶店も、たくさん存在していました。
 
喫茶店と業者の取り分は、だいたい半々で、テーブルゲーム機を設置した喫茶店では、店の売上げよりも、ゲーム代金の収益のほうが多い店が数多くあったそうです。
 
純喫茶コロナは、この時代も、『純喫茶店』にこだわり続けていました。
 
コーヒー専門店
 
この時代に登場したコーヒー専門店は、常連のお客さんをターゲットにしていました。
 
それほど広くも無い店内に、カウンター席をはじめ、ぎっしりとテーブルとイスを配置した設計になっていました。
 
コーヒーの味や香りを、お客さんに楽しんで頂くというコンセプトですから、居心地よりも効率を重視していました。

コーヒー専門店と、純喫茶コロナのような、それまでの喫茶店とでは、コストパフォーマンスが全く違っていました。

コーヒー専門店は、今までの喫茶店と比べれば、相当に少ない資本で出店ができて、小規模なお店なら、夫婦二人で充分に運営することができました。

このコーヒー専門店の登場によって、1970年代・1980年代と、喫茶店の店舗数が飛躍的に増大することになります。
  
1981年(昭和56年)から1987年(昭和62年)
 
純喫茶コロナにとって、最悪の時代です。
1日の売上げが1万円を割り込み、数千円になって、最終的には二千円くらいまで落ち込んでしまいました。
 
借金を返済するのに、新たに借金をして返済する。
1日に数千円以下の売上げでは、借金がなくても赤字ですから、その赤字を補填するためにも、新たに借金をするというような状態になっていました。
 
純喫茶コロナは、和歌山市の中心部に位置していて、土地建物ともに自己所有です。
この時代、土地の価格が急激に上昇していたので、土地を担保に、借金に借金を重ねることができました。
 
借金を重ねることで、何とか営業を継続していましたが、純喫茶コロナの喫茶店としての時代は、この時期の初期に終了していたのだと思います。
完全に、悪あがきの時代でした。
 
喫茶店の落日
 
喫茶店数の最盛期は、1981年(昭和56年)で、全国に約16万店舗存在していたそうです。
 
この年を契機に、その後は、毎年のように店舗数を減らし続けています。
25年後の2006年には、全国で約八万店舗と、その数を半減させています。
 
喫茶店の落日は、店舗数が最高を記録する1981年以前から、すでに、始まっていました。
 
喫茶需要の減少が、その原因ではなくて、ファーストフードのチェーン店やファミリーレストランチェーンの方に、喫茶店を利用するお客さんが流れていったからだと思います。
 
コーヒー専門の喫茶店で飲むコーヒーも、ファーストフードの店やファミリーレストランで飲むコーヒーも、それほど大きな違いがなかったからだと思います。
 
成功体験(教訓U)
 
人間、あることで成功した体験を持っていると、なかなか、その体験を忘れることができません。
過去の成功体験なんか通用しなくなっていても、その現実を、なかなか、認めることができずに、時代から取り残されてしまうということがあります。
 
1981年から1987年の純喫茶コロナは、ちょうど、そのような状態にありました。
 
母親は、過去の古き良き時代を忘れられずに、赤字を出しつづけながら、喫茶店の経営を継続していました。
いつか良くなる、何とかなるだろう、という淡い期待だけを頼りに、喫茶店の営業を続けていました。
 
もし、この時期の初期に、喫茶店の経営を断念していれば、借金が膨らむこともなかっただろうと考えています。
 
過去の成功体験などは、早く忘れるに限ります。
過去は過去、今は今です。成功体験なんて、あまり役に立ちません。
 
純喫茶コロナのその後
 
1988年(昭和63年)、喫茶店の経営に見切りをつけて、心機一転、新たに借金をして、コーヒー豆の小売専門店に衣替えしました。
 
最初は、UCCコーヒーから焙煎コーヒー豆を仕入れていましたが、これが結構売れました。
お客さんの大半は、店の近所の事業所でした。
 
それに気を良くして、1989年(平成元年)の8月、学習研究社から発売されたばかりの、『ユーカス』という全自動の卓上型小型焙煎機を購入して、コーヒー豆の自家焙煎を開始しました。
 
これが、大当たりで、2年後には、フジローヤルの5kg直火型焙煎機を導入して、本格的に、自家焙煎コーヒー豆の販売に取り組むことになりました。
 
その1 その2