峩々温泉とは
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歴史湯治つれづれ
峩々温泉の湧出した時期は、蔵王山が盛んに火山活動した承知年間(834〜837)であろうといわれています。嘉永年間(1847〜1853)羽前国宝沢村(現在の山形市)の猟師六治が、一頭の手負鹿が濁川沿いに湯あみしている温泉を見つけました。これを里人は「鹿の湯」と名付けて入浴するようになったといいます。明治2年(1869)群馬県人・竹内時保は、勝海舟、木戸孝允らの知遇を受け、北海道開拓使・黒田清隆伯に従って東北地方を巡視中、蔵王山中刈田岳山下の硫黄採掘に際し、荒廃した「鹿の湯」を発見し、霊泉である事を察しました。以来、あらゆる困難を克服して、明治年9に許可を得て開湯し、名前も「峩々温泉」と改めました。

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開湯以来峩々温泉は一貫して療養湯治の宿の姿勢を守り続けて来ました。日本三大胃腸病の名湯として愛され、親しまれ、形は変われど今日では失われつつある、湯治(とうじ)を守っていきたいと思います。 明治時代、この山の中の一軒宿に来るには、籠や馬にのれる人から歩きまで、種々な方法があり、荷を背負う専任の人までいたのです。当然の事ながらお金持ちがゆっくり温泉付別荘の感覚だったようです。 時は移り大正・昭和の戦前までは、こうした客層と登山や論文を書く学生さんとでゆっくり時間が流れていたようです。激動の戦争のあとは蔵王に有料道路エコーラインが開通し、歩きの山から車で簡単にお釜を観光出来るようになり、蔵王の山も峩々も様変わりを余儀なくされてしまいました。当然の事、団体客で賑わいました。 だか、しかしです。やはりそれは似合わなかったのです。 昭和50年、宴会団体お断り、麻雀カラオケご遠慮下さいの看板をあげ、本来の姿に戻りました。 農家の方は田植や稲刈のあと、漁業の方は遠洋から帰るとまっすぐ湯治に来て下さいました。お客様と暦を同じくし毎年同じ顔ぶれと新年を迎え春秋の温泉神社のお祭りをし丑湯治や寒湯治に揃ったものです。その中に東北大学病院からのすすめで療養湯治される方も世話好きおばさんがめんどうみてくれたりと、都会の人と田舎の人とのあたたかな交流も生まれました。 幸いにも五代にわたり峩々を支えて下さったお客様が培って下さった、、峩々の流儀を今流に磨き込みこれからも峩々の湯治をより良いものにしていきたいと思っております。
   
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