戦後に起きた五島列島福江島間伏沖 韓国小型船沈没事故



崎浜宏美神父著書「石蕗の詩(つわぶきのうた)」の82ページに、戦後間もなく起きた座礁事故の話が書かれている。
当時は日本降伏後に起きたアメリカ軍とソ連軍による南北分断によって、韓半島の人々はそれぞれ厳しい軍政下で生きていた。
対立と緊張が続く韓半島か済州島あたりから逃れてきた難民であったのだろうか。

今も福江島の北にある間伏の藪に覆われた土の下で韓国人の遺骨は静かに眠り続けている。
犠牲者の霊がいまだに眠ったままであるという事実に対し慰霊碑などを建立し、
五島市民で冥福を祈ることが今後の五島市と韓国との友好を深めることになるのではないだろうか。

1945年(昭和20年)9月2日 日本が連合軍に降伏し、朝鮮半島はアメリカ軍とソビエト連邦軍によって
北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。
1945年以降はアメリカ軍やソ連軍の厳しい軍政により朝鮮半島から難民・密航者が日本に多数流入した。
朝鮮半島に帰還したものの、その後の動乱を避けて再び日本に移入した者が多かった。
戦火を逃れるため日本に流入した難民は20万〜40万人とも言われる。
1945年(昭和20年)9月27日 済州島にアメリカ軍小部隊が進駐
1946年(昭和21年) 全羅南道に所属していた済州島が独立
1946年(昭和21年)11月27日 五島列島福江島間伏沖 韓国小型船沈没事故
1948年(昭和23年)4月3日 済州島4.3事件
1950年(昭和25年)6月25日 朝鮮戦争


 戦後間もない昭和21年11月27日の夜のことであった。
韓国から密かに30名ぐらいの人を乗せて五島に向かっていた小型船が、間伏の西に美しい姿を見せている鴨島の浅瀬に乗り上げ、座礁沈没してしまったのである。

 数名の者は、現場から約2キロの海を泳いで間伏の浜に辿りつき助けを求めた。

彼等の顔は油にまみれ黒く汚れて、とてもこの世の者とは思えない姿だった。

真夜中、大声と手まねで何かを必死に訴えるのであったが、浜辺に近い浜崎さん一家は突然のことでもあり、しばらくは声も出せない程だったという。

泳ぎ着いたものの弱り果てた人も居り、急いでタキ火をし濡れた体を暖めてやったが、力尽きてしまう人もあった。

知らせを受けた村人の必死の介抱も空しく、何人かは息絶えていった。

結局、20名余りの方々は亡くなり、助かったのは男女合わせてわずか7名であった。

翌日、折からの西風に流され、浜に打ち寄せられた遺体は巡査の立ち会いのもと、半泊の人たちも手伝って浜に近い松林に埋葬した。

間伏へ歩いて行くことは、その松林の近くを通ることでもあった。

埋葬後しばらくして「松林ではリンが青白く燃え、火の玉が毎晩のように飛んでいる」という噂を耳にしていただだけに、それから4、5年をすぎた頃でも、そこを歩くことは気持ちのよいものではなかった。

 沈没事故のことは、私が調べた限りでは新聞記事にもなっていない。

数柱の遺骨は、故国へ持ち帰られて行った。

しかし、残りの人たちは今でも藪に覆われたままの墓標もない土の下で、人々の話題にものぼることなく静かに眠り続けている。


引用文献「石蕗の詩(つわぶきのうた)」
著者:崎浜宏美
発行:ナイツ友の会
印刷:聖母の騎士社 〒850-0012
長崎市本河内町2-2-1  電話 095-824-2080  FAX 095-823-5340

崎浜宏美(さきはま・ひろみ)
1940年 長崎県五島市戸岐町半泊 生まれ
1959年 聖母の騎士高等学校卒業
1963年 聖ボナベンツラ神学院哲学科修了
1967年 司祭叙階
1968年 上智大学大学院神学研究科卒業
1968年〜1991年3月 兵庫県西宮市・仁川学院勤務
1991年〜2009年3月 長崎県長崎市・聖母の騎士学園 理事長・校長
2009年4月〜 
コンベンツアル聖フランシスコ修道会 日本管区 代表役員・管区長

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