黒潮巡礼
九州・四国・・・一村 スケッチ旅行の(1955年6月・一村48歳)軌跡をたどる
千葉→熊本(阿蘇山・草千里〜高千穂〜北日向=北宮崎〜青島〜南薩摩〜長崎
大分・別府・由布〜四国・八幡浜〜足摺岬〜室戸岬〜徳島・鳴門〜
淡路島〜紀伊(今回は紀伊半島は回れませんでした。7月レポ予定です)
2009年5月4日〜10日(全行程4200km)取材
プロローグ
1954年、石川県やわらぎの里・聖徳太子殿の天井画の製作から帰って一村の心境に大きな変化があったと
思われる。
元来出不精の一村にとって旅で味わった、非日常がもたらす環境の変化は、大いに旅心を揺り動かしたに違いな
い。
例えば北斎のように、生涯引越しにあけくれ、画作し続けた画家もいるくらいなのであるから、一村のように出不
精な人間にとって、旅で味わう心情の大きな変化は衝撃的だったであろう。
だからといって、一村はおいそれと旅費の工面が出来るような経済状態にあるわけはなかった。だがしかし であ
る。旅で味わった画欲を揺り動かすあの感動を、忘れるわけにはいかなかったのだろう。
翌年には、やわらぎの里での製作で得たいくばくかの金と知人を回って無心した旅費と縁故を頼った宿泊先の協
力者を仰ぎ得たのは想像に難いのだが、行く先をどう決めたのであろうか。
黒潮は千葉沖を流れる。
その黒潮も銚子沖で右へと回流して踵を返すのだが、その源流に一村が興味をもっていたとしても不思議はない。
しかもその流れが縁取る房総のように、亜熱帯の魚や植物に海岸線が染まっている場所も見受けられたのだ。
千葉に住む一村にそんな認識があったのは間違いないだろう.
当時、沖縄、八重山はアメリカの領土であり、黒潮の行き着く先は当時日本の最南端、奄美・与論であったから
一村の視点が奄美・与論に向いたのは当然だったといえる。
1955年・6月梅雨も明けやらぬなか、一村は九州に向けて旅だったのだ。

別府少し手前の乗り換駅・ここで一村はホームから水田風景を
画いている。当時のままの駅舎というのが嬉しい。
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鹿児島へ
今回の旅は一村が1955年、6月に九州、四国、紀伊、とスケッチ旅行の足跡をたどる旅である。
熊本は宮崎鉄太郎氏が健在であればまわったのであるが、鬼籍に入られたのと、1991・6月の火砕流で
雲仙は変わってしまっているので、割愛しました。尚、今回のレポは私の都合で九州は一村とは逆に鹿児
島から北上しました。
今回の旅の相棒はやわらぎの里・同様・BMW・R1100GS。1998年製、走行距離・26263KM 。
電車や車では得られない、風と陽と臭いを感じつつ、一村が感じた万分の一でも、との旅立ちです。
5月4日PM
山仲間との足尾での2日間の山行を終え、風呂にはいり、慌ただしくバイクに荷を積み15時前小山を出る。
R50から群馬大田で北関東道に乗り、関越道、信越道、長野道と乗り継ぎ、松本インターで20KMほどの渋滞、中央
道、名古屋から名阪神道、神戸湾岸道を経て乗水インターより山陽道に乗る。この間、長野飯田、京都、で渋滞に巻
き込まれる。さすが連休である。その後姫路近くで事故渋滞。2台の車がめちゃめちゃである。自己反省しながら24
時近く、姫路・白鳥 PKにて夜食。走行距離763km。
さすがに疲れたので、白鳥PKの人気のない芝生の上にマットをひき、シュラフを掛け4時間ほど睡眠をとる。
5月5日、AM5時、白鳥PAを出発。鹿児島を目指す。7:40 広島市付近で走行距離1000km。10:45 九州に
入る。走行距離・1220km。 13:13 熊本・1400km。最期のサービスエリア鹿児島・桜島SA 15時。その後下道
にて指宿にいたる。17:00、 総走行距離 1620km。高速料金(北関東道・大田〜鹿児島・・3200円・ETC割引適
用で)
九州は3回目であるが初めての指宿。夕闇に突出した開門岳に感動したが・・・・・・・・ちかれた・・・・・・・・。

開門岳(一村は描いてないけれどね)
さて今夜の塒を捜さなければと指宿のフェリ乗り場の駐車場で休む。ここを遊び場にしている地元の方から
情報を得る。指宿といえば砂風呂・温泉、夕食は地元の生きの良い海の幸という按配だ。どうせ今夜も野宿で4日連
続のテント暮らしだから、夕食くらいは奮発する。温泉は個人経営の銭湯風呂に入る。ここでバイクでここに来て、住
みついたというA君と知り合う。その後彼とはフェリー乗り場の駐車場で、酒を飲みながらのバイク談義となった。
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5月6日
目覚めてみれば、5月だというのにテントの中には、わが体のまずい血を吸った蚊が、大儀そうに飛んでいたので叩
き落とした。通りであちこち痒いはずだ。一晩ぐっすり寝て、改めて我に返ってみれば、どうやら随分遠くにきたものだ。
ここから 一村の足跡を尋ねて、粛々と家に帰らなければならない。
昭和30年6月17日、鹿児島、と消印のあるハガキでは
「写生の旅に出て阿蘇山に登り高千穂を探り、山又山、谷又谷の北日向より熱帯植物繁る九州南東岸の青
島へ来ました。更に薩摩半島の南端まで行き、又北上して長崎に行き、四国に廻り、紀州熊野川まで見て帰る
予定です」
田中一村 車中にて
私の場合はこの順番ではまわれないので南薩摩・指宿から北上していくことにします。
南薩摩に立ち寄った一村が、桜島や開門岳を見ていないはずはないのであるが、いずれも作品として残ってはいない 。
特に 私が感動した開門岳のスケッチすらないのだから、一村という人間はちょいとヘソ曲がりなとこが多いにある人
だ、と私は常々思っている。彼の画法が意識的に既製概念を無視する、という基点を踏襲しているように思えてならな
いからだ。それが、一村のヘソ曲がり理論と捉えている所以である。
この後、「アダンの画帖」の著者でもある中野惇夫さんと7年ぶりでお会いするのだが、その話しをすると、宮崎さ
んに見せて いただいた一村のスケッチブックには桜島はあったが、開門岳はなかったと伺った。
A君から桜島へフェリーで渡ったほうがいいよ、とは聞いていたが鹿児島から九州道に入り、加治木ジャンクションか
ら東九州道に乗り換える。中野さんが住む曽於市への高速道は標高3,400mの山並みを縫って走る対面通行の道で
ある。
右手に櫻島を拝し、人家のない山中を走る。
2001年、奄美、田中一村記念美術館オープンに際し、記念講演を頼まれた私は5年ぶりほどで中野さんにあった。
「今は新聞社をやめ、鹿児島の田舎で晴耕雨読の百姓をはじめたから、機会があったら着てください」と、笑いながら
言った中野さんの言葉が忘れられず、今回の訪問となった。
一村発掘の発端となった宮崎さんも、、奄美を去った後は熊本でビワの果樹園を切り盛りしていたから、中野さんと
いい、厭世的生活に余生を見出しているのは、一村の生き方にシンクロしているのだろうか。否、一村の生活は隠遁
生活ではなく、より自分の生き方を見出すためのものであったのだから、自己発見の為の晴耕雨読ということなのか。
あまりの農村地帯なため、ナビの付いていない私のバイクでは中野さん宅にいきつけないと判断し、突然の訪問で
あるが電話をする。案の定、田舎なので道を教えても無理といわれ、道の駅にて待ち合わせ、ご案内をおねがいした。
着いた先は、回りの屋敷とは違い、まだ、新しい家である。尋ねると、この地に百姓をするため、新たに土地をもとめ
たのだという。

一村の遺品の刀と(中野氏)
記者時代、奄美で宮崎氏に会い、一村を知り、一村の生活と絵に対する精神に触れ、失われゆく日本人の魂をそこに
見出した中野氏は、絵という媒介に触れずに一村を書いたが、その当時、一村に関する資料が不足なままの上梓であ
ったため、後編を書きたいらしいが、制約が多く、裸の一村を書くには環境の整備が待たれると同時に、一村の絵の世
界を日本のみならず、海外へ展開したいとも力説していた。
私の本は一村の素顔を現すための一里塚であり、いつか、誰かがとの思いが強いと話していた。
それにしても、一村とあったのは私が20代後半、中野さんが一村を知ったのが30代前半、若かった二人も既に還暦
を過ぎた。話題は一村の亡くなった60代についてだ。特に中野さんは一村が逝去した年齢、69歳であるから、心中穏や
かではないと語る。
私も60代という年は私の先生と知り合った年と重なり、思うところがあるから、思いは同じようで、頷いてしまった。しかも
、最近中野さんは、心臓に異常を感じ、見てもらったところ、不整脈があることが分り、農作業は制限され、自家菜園程
度の農業しかしていないとのことであった。
私も憧れる、晴耕雨読の人生を、垣間見させていただきありがとうございました。わざわざ、国道まで道案内をうけ、一
路、日向路、青島に向かう。
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青島 色紙 田中一村展図録から抜粋 青島にて
「海ハ碧玉 空ハ緑玉 批榔樹ノ葉ハソヨグ 南国ノ夢アリ」
色紙に書かれた青島はまだあけ染めぬ陽に金色に輝き、日の出を見るために海岸で待つ一村が想像できる。
私が見る青島はなんの変哲もない、面白くもない海岸風景が広がっているだけで、洗濯岩風の海岸線とあいまってビ
ロウ樹が必要以上に植えられ、砂浜をなぞっているだけであった。
R10号線を日豊本線に沿って走る。日向市から椎葉村を目指す。椎葉は一村のスケッチコースからは外れるが、釣り
バカの私にとって九州での憧れの地であるから、椎葉は外せない。椎葉で竿を出すのも今回の旅の目標の一つだからだ。
椎葉村は平家落人の里として知られ九州の背骨に当たり、とてつもなく山深い、それだけに昔ながらの家並が残り、手
付かずの自然が多く残っている筈である。中野さんも椎葉はいいとこだよ、と推奨していたほどだから、ハンドルを握る手
にも力が入る。
土砂災害で迂回を余儀なくされながら、細い道を辿り、夕刻、ようやく着いた椎葉で、5日目の野宿が待っていた。今夜
こそ布団の上でねるぞ、と意気込んで宿探しをするも、連休最終日にも関わらず、宿は皆しまっていたのである。私の予
想に反し、観光客みあたらないから不思議である。これが関東なら、大賑わいのはずなんだが、と思いつつ、雑貨店で簡単
な食材を求める。
走り出してまもなく、先ほど、雑貨店の店先で宿について尋ねたお年寄りが手を振って待っていた。私の母親ほどの年で
あろうか、「なにもないけれど、家でよかったら泊めてあげるよ」と心配していただいた。
そんな旅先での見も知らない人々の得もいわれぬ親切は、なににも変え難い、旅の喜びである。このことだけで、旅をし
てよかったと、心底おもったものだ。まだまだ日本人、捨てたものではない。悪い奴は上にいる人間なのか・・・、と妙に納
得して丁寧にお礼を述べて、奥椎葉のキャンプ場を目指した。
危なげな舗装と心細くなるほどの九十九折の山道を辿るが、一向にそれらしいキャンプ場は出てこない。小一時間、あ
きらめて戻ろうという頃、足元の斜面に立派なキャンプ場が見えてきた。コテージ、プール、炊事場、管理等、。何億もか
けたようなキャンプ場が奥山に取り残されたように、街路灯の下に寂しくあった。
このキャンプ場は、やはり宿の取れなかった福岡から来た私と同年代夫婦の方と3人の貸切となった。
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5月7日
福岡のご夫妻には、食材を殆ど持っていなかった私は昨夜の夕食ならず、朝食もご馳走になってしまった。
機会があれば、福岡のお店にいつかよりますと、お礼をのべ別れる。来た道を椎葉まで戻り、村を過ぎたあたりで左折し
、高千穂方面にむかう。しかし道路わき下を渓流が流れ、釣欲に抗えず、渓に下り竿を出す。30分ほどであったが、椎葉
の山女魚が挨拶にきてくれて気を良くしアクセルを開ける。
一村は高千穂、北日向(岩戸村や日之影町)で何点かの作品を描いている。北日向という地名はないので、日向とは
宮崎県であり、宮崎県の北部の総称として、一村は称していると思われる。又、高千穂とある作品は、段々畑や、迫出し
た峻崖な山々の景観からして高千穂近辺の日之影町や岩戸村当たりの作品と見られるが、私が訪れた岩戸村の景観
が酷似していることからして作品の場所は岩戸村あたりと推測される。
「岩戸村ハ天岩戸ノ伝説ノ土地ニシテ岩戸峡岩戸神社アリ老杉老楠鬱蒼タリ サレドバスハ通ヒ村ニハ洋風ノ店
舗建チナラビ村娘皆洋装ニシテ裁断ノ事ヲ語ル銀座街頭風景ト幾何モ隔ラズタダ嶺上ノ雲ト田畦ノめずしノ花トハ
太古以来ノ姿ナルベシ」
一村は上記のように、北日向(高千穂、岩戸)の印象を書き残している。しかし作品の中(色紙)に描かれているめずしの
花(ミヤマシシウド・地元の方に確かめました)やマルバタケブキの花が大変めずらしかったらしく、モチーフとして描いてい
るのであるが、関東でも山里に行けば、顕著に見られる山の花であり、このことが一村がいかに出不精で、遠征すること
もなく街から殆どでたことのない、めずらしい画家であるともいえるのである。ただ、この絵に疑問を残しているのはマルバ
タケブキの植生は四国、本州となっているから、この北日向のいかにも不自然なマルバタケブキの花は、四国でスケッチ
した花を描き足したと思うのは、どうだろうか、一村が九州にも植生するとして、足し算したのかもしれない。このことは後
に出てくる由布岳の絵にも言えるのである。

山村6月・北日向にて 岩戸村寸景
田中一村展図録から抜粋
高千穂、岩戸、日之影とめぐった後、阿蘇に向かう。
実のところ普段から山や渓流に足を運ぶ私にとっては、阿蘇の雄大さも、高千穂峡の懸崖に掛かる滝やコバルトブルーの
渓水も箱庭的で決して珍しいものではない。伽藍のような源流部や、飯豊朝日の山の深さに比べれば、残念ながら劣る
といわなければならない。しかも観光客の多さに壁壁として、さっさと先に進むことにする。阿蘇草千里の作品は2点ほどあ
るようだが、そんなわけで阿蘇は簡単にスルーし、大分別府と進むわけだったが、なぜかバイクの調子が気になり、熊本
市のBMWのディラーにむかったものの、連休でやすみであった。
熊本から九州道にのり、大分道に乗り換え玖珠インターで降りる。この近くに久留米から大分に向かう久大線にある恵
良駅に寄るのである。一村はこの駅で、今は廃線となった小国線にとの乗り換えで待つ間2点の作品を色紙に残している
。図録では僻村暮色と題し暮れなずむ、水田風景」を同アングル、同色調で描いている。
「恵良駅ニ至り日暮ル田ノ面ニ映ル夕雲旅情哀切」
恵良駅での上記の一文がある。

恵良駅から・田中一村展図録から抜・ 現在の恵良駅(山の形に注目)
駅のホームに佇み、ホームから眺める恵良の風景は水田ばかりか、建物で埋められ、54年の時を経て、往時を想像す
るばかりであるが、駅舎に昭和4年造と銘があるのを客待ちのタクシー運転手の方に教えていただき、感動した。
当時そのままの面影を残しているのは、望外の喜びであった。しばらくホームに立ち尽くし、暮色の中で一人、筆を運ぶ一
村をしのんで感傷に浸りつつ、駅舎を後にした。まもなく、R210の道すがら、由布岳が垣間見えてきて、道の駅で休憩しな
がら一村作品と見比べる。
シシウドを前景に大きく配した由布岳は、この位置から見ると山稜が左下がりで、一村の絵は右下がりである。どうデフ
ォルメしたとしてもここまで変えるわけはないので、構図に近い視覚を見つけることにする。道の駅のインフォメーションで
地元の女性に聞くがどうやらこの位置は特定ができないようである。「由布岳の裏の塚原かしら、それとも北東部かしら、
あそこはシシウドが昔から一杯咲いていたからね」と執拗に相談にのっていただいたが、決定打はでなかった。親身に相
談にのっていただいたBさん、ありがとうございました。

由布岳・田中一村展図録から抜粋 湯布院の裏側(塚原高原から見る)
由布岳の回りを2時間ほど掛けて、一村が描いたアングルを見つけようと走り続けた。
それは「一村が描いたスケッチ先の場所が特定できたら面白いよね」と言われた中野さんの言葉が変に私の耳に刺さっており
、拘っていたからだろう。今夜こそは5日間の野宿生活に終止符を打つべく早めに別府に下り、宿探しと決めていたのだが
、こんなに由布岳のアングルに苦労するとは思わなかった。しかも一村の旅行期日と一月違うので、温暖化で時期が早
まったとはいえシシウドの開花時期にははやかったから、シシウドの姿さえない。ほぼ由布岳を一周したが、残念ながら
この絵の由布岳は見出せなかった。それらしい由布岳がみられたのは、道の駅のBさんが言われた湯布院裏側、塚原高
原あたりからであった。
どう贔屓目にみても、左肩上がりに見える由布岳は存在しえなかった。
連休の終わった別府の町は夕方にも関わらず、閑散としており、私も6日目にして駅近くのビジネスホテルに投宿となった。
ここまでの総走行距離2535km。
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5月8日
今日は九州ともお別れで、フェリーで四国に渡る。 (8:00〜9:15着 運賃バイク込み・2800円)
一村もこの別府から四国八幡浜にわたったのではないかと、大矢鞘音氏が書いていて、私もそう思うのだが、私の場合
は都合上四国に一番近い航路、大分市から突き出た半島、佐賀関半島から豊予海峡をわたり、佐田岬半島の三崎をめ
ざす。

海上からの由布岳(佐賀関港・別府湾から))
フェリーが港を離れ、デッキに佇む私の眼に、次第に春霞の中に薄れゆく大分市と別府市が見えて来た頃、由布岳の謎
が解けた。
それは、別府市の上空にあたかも蜃気楼のように由布岳があり、その由布岳こそ一村が描いた由布岳そのものだと思っ
たからだ。あれほど捜した一村の由布岳は四国に渡る船上でスケッチしたものだったとは、まさに以外だ。海上に浮かぶ由
布岳にシシウドをあしらい描いたものだったとは、想像できなかった。しかも一村がとった四国への航路が別府市からのも
のだったら、もっとのしかかるように由布岳が見えたのだろう。私は一村が書いた由布岳がこのアングルだと確信しながらも、
、霞の中にまどろみ消えていく由布岳に不安を残したのだった。
やっぱり一村はヘソ曲がりだ。
9時30分、佐田岬を埋め尽くす巨大な風車群に迎えられ、1時間30分ほどの船旅を終え、四国路に入った。
四国に入って、R56を南下する。宇和島を過ぎた辺りから潮の臭いに混じって柑橘系の香りが心地よい。お遍路さんも連休
と、不景気な今の時代背景を表してか、かって無いほど数が多い。沿道ではミカンは終え、春ミカンなつみや、西内小夏とよば
れるミカンが、店頭に並ぶ。お店で尋ねると今の花は夏みかんの花だという。地元で民宿も商うという沿道のお店で、讃岐ウド
ンを食べ、「見かけは悪いけれど美味しいよ」というナツミというミカンを頬張る。店主のいうとおり、芳醇な甘さが口の中一杯
に広がった。もう一個と思い求めようとすると、通りすがりの地元のおばちゃんに、残りの一袋を買い求められたが、そのおば
ちゃんに、2個ほどただで、譲っていただきました。宿毛市からR321に乗り換え、土佐清水市へ、立串を経て足摺岬に。
一村の四国の旅は別府から船で八幡浜、そこから松山の知人宅で2日間休みをとり、一週間ほどして、この知人宅に再び
戻ってきたのだという。順路としては室戸岬から足摺岬ということが想像できる。
「室戸ハ奇石累々 足摺ハ断岸千尺 太平洋ノ怒涛ハ 脚下ヲ噛ム」
足摺狂濤・田中一村展図録から抜粋 足摺岬
足摺狂濤と題した一村の絵は、まさに足摺りの荒々しさを如実に物語っている。脚下に広がる断崖は群青の浪に洗われ
行き場のない岩肌は執拗に海蝕される。迸る潮は、一村の荒ぶる心を物語っている。この場所からは海面近くに降りられない
ので、足摺りの他の場所で描いたのではと思われる。
5月初めの温度は思えない暑さに閉口し、足摺り散策路を早々とあきらめ、R321から四万十市でR56に乗り、室戸岬に
向かう。須崎市で高知自動車道に乗り、南国インターで下り、R55を走る。時間も18時近く、安芸市のビジネスに泊まる。
総走行距離3022km
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5月9日
朝食を食べ、7時半には出発する。このビジネスでは朝食をサービスしていただいた。助かりました、社長夫人様。
室戸岬まで約70km。今日の予定はここを往復し、高知道から高松道に乗り換え、香川県の三豊に住む、学生時代からの絵描
の友人に会うつもりだ。その後、神戸に渡り、一泊し、紀伊にいくか、それとも家に帰るかはそのとき考えてみる事にする。
まずは室戸である。海岸に沿って走るR55を朝のさわやかな空気を切りながら走る。昨日と違い、今日は週末なのだが、車は
少ない。しかも九州、四国で感じることは、バイクのツーリストは皆他県ナンバーばかり。それも関東ナンバーが多いことだ。
関東では土日祭日ともなれば、パーキングエリアにバイカーが一杯であるが、こちらは総じてバイクのりが少ないように感じられ
る。
とそんなことを思いながら快適に四国路を走る。バイクで走るのは30年前に12日ほどかけ友人と二人、回って以来だ。その後
15年前の10月には家族で一週間、四万十の源流から河口までキャンプ旅行して依頼である。20代に京都に住んでいた頃、訪れ
た四国に魅了されていらい、4度目の四国であるが、今後の四国通いは続くだろう。
間違って展望台に上り、360度のパノラマを味わってから、奇岩の浜辺に着いた。一村の絵に描かれた奇岩を見つけるべく
散策路を歩くが、ライダーウエアで、なんとも熱くて絶えられないので、一度バイクに戻り着替えてから出直すことにする。
ここでも公営の土産屋兼インフォメーションセンターの女性にお世話になることにする。図録を持ち、それらしい場所を尋ねる
ことにする。「特徴ある斜めに倒れ加減の岩は潅頂ガ浜にあるが、この場所の左右の岩の間はこんなに切迫してないから、違う
のかな」とCさん。「いや、画家は引き算足し算するから無いものも足してくるし、それともこの55年間でこの大岩が無くなったと
いうことかな」と私。おそらくここだろうと思われる場所を載せてみましたが、中心んぽ斜めの岩と手前の岩だけは間違いと思いま
すが、アングルと岩場所大きさが大分違っているようです。
一村はこのあと足摺岬から再び松山の知人宅で休み、予讃線にて鳴門にいたり、連絡船で淡路に渡る。このときの「平瀬」と
いう色紙の作品がある。その作品に寄せたコメントによると淡路島の福良から淡路島交通のバスで洲本港へ、そして航路
深日港、深日から阪和線、紀勢本線で新宮、熊野、瀞と足を運んでいる。
室戸岬(潅頂ガ浜か?) 室戸岬(潅頂ガ浜・奇岩)
田中一村展図録から抜粋
そのご私は紀州詣でをあきらめ帰宅することに。
帰路は高知道、高松道から友人宅に寄り、再び高松道、高松東道、神戸淡路鳴門道を経て、阪神道、から名古屋、中央道、長野
道、信越道、関越道、北関東道、自宅。
安芸ビジネス・7:30 3022km〜香川友人・14:40分 3260km 10日、2:30 自宅着 総走行距離4020km
今回 紀州部分の田中一村 スケッチ旅行先はレポできませんでしたので、7月改めてレポいたします。
この項終る
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中学 ・ 道徳 ・・・・・・きみがいちばんひかるとき 3 ・・・・・・ 光村図書出版株式会社から抜粋
4,5年前に田中一村が中学の道徳の教科書に採用され、来年度から改めて改訂されて採用されましたので
抜粋ではありますが、紹介しておきます。
孤高の画家、田中一村
画家、田中一村は、50歳のとき千葉の家を売り払い、奄美大島に移り住んだ。
「画家たるものは絵筆一本を携えて、飄然と漂泊できるようでなくてはならぬ」とは
生涯を独身で通した一村の口癖であった。
やがて家を売った金がなくなると、食費を得るために大島紬の小さな工場で染色工
として働き始めた。工場で懸命に働き、その間は絵を描かなかった。
何年か働き、生活費が少したまると仕事を辞め、金が続く限り絵を描く、このような
生活の繰り返しだったから、物置小屋のような粗末な借家に住み、着るものといえば
きちょうめんに洗濯された下着だけの極貧の生活であった。
奄美に移り住んで19年。夕食の準備をしているとき心不全でたおれ、69歳の生涯を
終えた。

作品を描き続けた奄美の借家
一村は奄美での苦闘生活を通して十数点の花鳥図を残した。絵に全てを注ぎ込み、無垢
な心情を奄美の花や鳥に託し続けた孤高の画家の作品からは、自然のにおいや音が感じ
られる。

座右の書であるピカソの画集を見る一村
| みんなで考えよう |
※ 一村の絵を見てどんな感じをうけますか。
※ 一村はなぜ極貧の生活をしながら絵を描こうと思ったのでしょう。
その理由を考えてみましょう。
※ 人は、時として、過酷とも思える生き方を選ぶことがあります。
人をそのような道に駆り立てるものは何かについて、知っている人を
参考に考えてみましょう。
「凛としてー日本人の生き方」と題して
3月の初め、産経新聞大阪本社から田中一村についての取材依頼がありま
した。
凛としてと題する特集だそうで、各界の単なる著名人ではなく、マイナーであってもピリ
辛な生きかたをした人物をとりあげての長期の連載とのことであった。その最後を飾る
のが一村とのことであった。
私は3月は非常に忙しく時間がとれないので、メールでの取材となった。
3月28、29,30,31日の4日間の連載があり私は31日掲載分、最終日です。近日UP予定
尚、4月16日に(扶桑社)から単行本として発売されているそうです。
定価 1680円
興味のある方は是非どうぞ。
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清貧の中で
一村愛用のカメラの項で触れたように、一村は高橋伊悦氏から写真の手ほどきと共に
後に愛用のカメラとなるオリンパスの二眼カメラ、オリンパスフレックスを中古で手に入れた。
中古とはいえ昭和30年頃のこの手のカメラは高く、手に入れる為の苦労は想像できる。
後に姉、喜美子の写真や軍鶏の写真、奄美でのモチーフを詳細に連写したフイルム等に
このカメラの存在が光る。
「写真技術ハンドブック」
脇リギオ著
ダビット社発行
1970年
写真技術の研鑽の為、一村は購入したのだろう。

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千葉時代の一村は生活に困窮し、いくばくかの売絵と彫刻で凌いでいたという。
わずかな土地を耕し、野菜を作り、鶏を飼っていたらしい。又、絵のモチーフとなる
野鳥、梅、柿等の樹木も丹精込めて育てていただろう。
時折、父稲村譲りの彫刻で木魚を彫ったり、梅の種を使用して昆虫などを刻んで
いたと後年妹の新山房子氏が語っている。
残念ながら私の手元にはそれらの彫刻はないが、鼈甲に刻まれた根付けと思わ
れる弁財天がある。
水の神、芸術、芸能の神を誰を思い描いて手遊びに刻んだので
あろうか。

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一村がすごした奄美の荒屋で、どれだけ生活と絵画の狭間で懊悩したか
この得應軒の画材目録が如実に物語っている。
1984年、NHK教育テレビ、日曜美術館、美と風土黒潮の画譜・ 異端の画家
「田中一村」で、田中一村の存在が始めて知られ世にでた瞬間である。
その番組の中で一村の妹、新山房子氏(故人)がこうコメントしている。
「兄は絵を売りませんもの!」と・・・・・・・。
しかし後年、得應軒の主が話したように、一村は銀座の画材屋「有便堂」
絵を置いてもらい、店内にて販売を委託していたようだ。
如何にに売り絵を嫌っていた一村ではあったが背に腹は変えられなかったらしい。

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1996年、11月
私は一村が画材を購入していた上野・谷中の日本画・画材店「得應軒」を訪ねた。
上野駅周辺は秋の公募展やら、各種の企画展で賑わいをみせていた。
一村がわずかではあるが在籍した東京芸術大学(当時は東京美術学校)前を抜け
2つほど角を曲がると言問通りに出、まもなく得應軒が見えた。
店は新しく立て替えられ、往時の店構えを偲ぶこともできなかったが
言問通りは寺社仏閣が多く、古い建物も多々残っていた。
70過ぎと思われる店主は一村のことを覚えており、お茶を頂きながら話しを伺った。

2004・12月 撮
得應軒さんがおっしゃるには一村は最初のうちは日本橋にある画材屋・有便堂(横山大観
も足を運んだことがあるという老舗だそうだ)さんで画材求めると同時に、「売り絵」も置いて
もらっていたそうだが、余り良い物(筆)が置いてないので、得應軒さんに見えられたのが発端
だそうだ。
又、残念ながら一村を知る、有便堂の先代店主はすでに亡くなられているとのことだった。
「一村さんは大勢の絵描さんの中でも大分変わっいました。在葉時代は2カ月に一度位
画材を買いにみえられましたし、奄美時代は葉書で注文してきましたが、書簡類は処分してし
まってありません」
と残念そうに言われた。 私も相槌を打ちつつ、
「ところで得應軒さん、商売柄沢山の絵描きさん、沢山の絵を御覧になっていると思いますが
一村展で絵を見られたということですがどの絵が気になりましたか!」
「軍鶏の絵には特別惹かれるものがありますね」と
感慨深げに答えられた。
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一村を通じて、作家の小林照幸氏(大宅壮一賞、神を描いた男・ 著)と知り合った頃、
こんな話をした。
「一村の話をしながら僕達は、飽食気味の食事をし、美食に磨きをかけた生活をしているのは
不謹慎な気がしてくるネ」
彼はそう言って笑ったが、食卓を囲んでいた僕達は気が引けて箸を持つ手が止まった。
腐った魚に猫の額の家庭菜園から採れたチビタ野菜。それに酢をまぶして食べていた一村の
生活を想像すると、慙愧に耐えない。
食費を詰め、画材さえ切り詰めて燃やし続けた一村の画業は、100円、200円を惜しんだ
絵絹の値段表にも現れている。



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残された遺品と絶筆(ルリカケス)
私の手元には数少ないながらも田中一村の遺品がある。これらは友人の笹倉や江田の
機転によって残されたもので、彼らの一村に対する思いが働いたからだろう。
これら遺品はエピソードを交え少しづつ後ほど紹介していくつもりであるが、まずは、残さ
れた絶筆について話そう。
写真に写っているのは私が2回目(1977年8月初旬)に訪れた時に撮影したものである。
ルリカケスの絵を背に団扇を持つのは一村発掘の端緒となった宮崎氏である。奄美におい
ては一村と一番親交があり、一村の傑作の「クワズ芋と蘇鉄」の所有者でもある。
どのような経緯で宮崎氏が一村の代表作を手に入れたかは「神を描いた男・田中一村」
小林照幸著(中央公論社)に詳しく書いてあるので興味のある方はぜひ読んでいただきた
い。
宮崎氏の背後にある絵はルリカケスを主題に描き始められた大きな作品である。撮影当
時は下書き程度で、彩色はされていなかったが、後の一村展ではルリカケスにはいくばくかの
色がのっていた。
このルリカケスのまえには、半分ほどの大きさの牡丹の絵がおいてあった。半ば完成間近か
のこの牡丹の絵は、後で分かったことであるが、菊池あい子氏の注文によるものだった。
そのことは菊池氏宅に伺い始めて知ったことであるが、見せてはいただけなかったが、一村
さんの牡丹が私は好きで良く描いて頂きましたが、あの絵は良くないといって顔をしかめられ
た。
1977年9月11日、笹倉から一村逝去の連絡が江田の所に入った。次の日の葬儀に行くに
は飛行機でいくしかないが、金に余裕の無い私は気持ちはあっても行けなかった。土建屋の
倅、江田にはそれができる、で江田は私の意をくんで一人出かけた。
遺族の方はどなたも来ないらしいということだったが、妹さんとその息子さんがいらして、宮
崎さんと江田があとかたずけやら、ゴミの処分を頼まれた。
飛行機で帰る遺族には余計な物ばかりで、残された現金と完成品の絵だけを持ち、後は処
分してくださいとのことであった。評価のない画家の絶筆、描きかけのルリカケスも雑に丸め
られ廃棄の場所に置かれていた。
少なくとも江田は絵描きの端くれ、カメラや衣服はいい、でも岩絵の具、筆、クレパス、デッ
サン帖、そして描きかけではあっても、離島に埋もれた無名の絵描きであっても、死の間際
まで向き合った絵を処分することなど、彼にはできなかった。そしてルリカケスの絹布を丁寧
に丸め、これは田中さんの最後の魂を込めた絵ですから持って帰ってくださいと、手渡したの
だった。
こうして一村最後の絵も、画材も残ったと言うわけだが、そのほかの遺品は、なぜか処分に
立ち会えなかった笹倉が、夜になりそんな経緯を聞き、できるだけ残しておこうと夜の処分場
にハブの危険をかえり見ず、収集して今に至ったのである。
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遊印
一村使用の説文解字本
一村の遊印で代表的なものに「飢え我を駆る」
がある
この言葉は一村ならではの感がある。
当時一村は老齢年金の30万(年)ほどの金で生活を
支えていたわけで、死後残された郵便貯金には200
万円近い数字が残されているが、この年(1977年5月)
千葉に行った際の売り絵の代金や、「クワズイモとソテツ」
を宮崎氏に売った代金が含まれていたとおもわれる。
これらの預金は何時の日か東京で個展を開く資金であ
ったと想像するに難い。
「自吾作古空群雄」
私の手元に残された一村が彫った篆刻遊印にはこうある。
この漢詩は、清代末期から民国にかけて篆刻書画壇で
活躍した呉昌碩(1844〜1927)の作品の中にみられるそうで、
その優れた業績が高く評価されている人物です。
「自我作古空群雄」
過去のものにとらわれない新たな美の創造への志を示した
遊印と思われる。
以上のことについてはやまももさんの協力によりますが
呉昌碩と漢詩「自吾作古空群雄」についての詳しい説明は
↓
「やまももの部屋」http://homepage1.nifty.com/yamamomo/index.htm
を御覧下さい。
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一村愛用のカメラ( オリンパス二眼レフ )
2000年の春だったとおもうが、栃木の一村研究者、渡辺達也氏から、江田が所有する
一村の岩絵の具を 詳しく調べたい旨のTELがあり、江田から絵の具を受け取り、栃木
一村会の長谷川氏に渡しておいた。
岩絵の具は千葉の菓子店のブリキの箱に無造作に入っていた。ぎっしりと入った絵の具
の上部を何度か私の手元にあるときに、取り去って見たことはあるが、全てを箱から取り出
すことはなかった。このことは江田もそうであり、77年、奄美から持ち帰った状態でこの岩
の具のブリキの箱は手付かずであった。
渡辺氏は一村の絵の具を画業の資料として検証するために全てを箱から取り出し、それら
の絵の具の底 に置かれた一村撮影のブローニュー版フイルム(6cm×6cm)のを見つ
けたのだった。
宮崎氏の手元にある一村のアルバムには確かに一村が撮影したと思われる写真プリント
が結構あり、又千葉時代にはカメラ修理業を営む高橋伊悦氏に暗室技術を教えてもらって
いる。奄美での撮影された絵の資料になったプリントがあるのだからフイルムがあって当然
だったのだが、この日まで発見されていなかった。
フイルムは岩絵の具の下に雑然と置かれ、まるで隠すように仕舞い込まれていて良い状態
ではなかった。これらフイルムからプリントされた写真が今回の一村巡回展に展示されていま
す。
これら写真のネガは私の手元にあり、大切に保管しておりましたが版権者の許可を得て、
わたしがプリントしたこれら50数点のプリントしたものが奄美の一村記念美術館と栃木の蔵
の街美術館にコレクションされております。
一村愛用のカメラを前に 高橋氏 1996年 オリンパス二眼レフとフイルター、接写レンズ
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一村使用の筆
和筆だけでなく洋筆も使用したようだ
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クレパスと彫刻刃
ありふれた用具
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JALのバック
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このバックは1977年5月、千葉に預けて
あった作品をとりに奄美から上葉した。栃
木の万福寺を訪れ、墓参をした後、奄美に
帰るのだが、生まれて初めて飛行機に乗っ
た。妹さんの心遣いだったらしいが、その速
さと快適さに感動したと葉書に書いている。
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