
わんこそばの起源として、花巻説と盛岡説があることは良く知られており、両市の市長がタウン誌上で持論を交換したこともあるほどです。毎年2月11日、花巻市で開催の「わんこそば全日本大会」のパンフレットには、わんこそばの由来について次のように記されています。
『わんこそばの歴史は花巻城とともに古く、370有余年の昔に遡ります。南部家第27世利直公が江戸に上られる途中、花巻にお立ち寄りになられたおり、旅のつれづれをなぐさめようと郷土名産のそばを差し上げたところ、利直公はその風味を大変お気に召され何度もお代わりをされたと伝えられております。その際、そばを椀に盛って差し上げたところから“わんこそば”と称されるようになったといわれております。』(平成13年 第43回大会パンフレットより)
以前のパンフレットには「〜参勤交代の途中〜」と書かれていたものが、時代が合わないとの理由で表現が変わりました。そこで参勤交代制度も含めて当時の風俗や食文化、各そば店の様子などを再調査・検討し、私なりの「わんこそば歴史論」を述べてみたいと思います。

復元された花巻城西御門と内堀跡
(1)そば切りの始まり
利直公の時代のそばはどんなものだったでしょう。昔はそば粉を水で練り扁平な団子状にして茹でた“ハットウ”、または薄く延ばして三角に切って煮た“カッケ”として食するのが普通でした。或いはそば粉に熱湯を注いでかき混ぜ、ネギ味噌やニンニク味噌などをつけて食べる“ケモチ(そばがき)”も簡便な食事方法として普及しておりました。現在のような“麺”にしたものを“そば切り”といいますが、この“そば切り”はいつから始まったのでしょうか。
文献に現れるのは戦国時代です。長野県大桑村の定勝寺文書の中に『天正2年(1574年)仏殿修理の際にそば切りを振舞った』との記録があります。また近江多賀神社の慈性という僧侶の記した「慈性日記」慶長19年(1614年)2月の項に『〜ソバキリ振舞被申候。』とありますが、格別珍しがってもおりません。したがって、利直公の時代、慶長年間には既に「そば切り」は普及していたものと思われます。また享保19年(1734年)刊「本朝世事談綺」によれば、室町時代にはそば切りはまだなかったと説いています。
これらから推察すれば16世紀初頭から中頃に始まったと思われます。そばを麺にするためには相当細かく製粉しなければなりません。石臼の製法やそば打ちの技術の進歩がなければならないため、団子状から麺になるまでにはかなり長期間を要したことでしょう。
そばかっけ(カッケ鍋) 柳ばっとう
(2)参勤交替制度
さて南部利直公は慶長4年(1599年)に第27世を継いでいます。従って辺境の地、陸奥(みちのく)とは言っても、この頃には既に“そば切り”は普及していたと思いますので、殿様に差し上げたのは不思議ではありません。花巻の老舗「大畠家」の創業は慶長2年(1597年)です。
一方、参勤交替の制度は元和元年(1615年)、武家諸法度の制定の際には条文にありませんでした。その後三代将軍家光が、寛永12年(1635年)に改定し、このとき第2条として『交代で江戸に参勤すべし』と規定しました。これによって隔年の参勤交代が確立します。利直は寛永9年(1632年)死去なので、生前に参勤交代で江戸へ上る途中、花巻城でそばを食べたというのは間違っている、とされたのでしょう。
しかし、もう少し詳しく調べてみると、間違いとは言えないことがわかります。
この制度は鎌倉時代に源を発し、豊臣秀吉への服属儀礼としての拝謁、妻子を人質として京で居住させることが慣習として定着していたものが制度化されたものです。関ヶ原の合戦後、江戸へ人質を提出する大名が増加していきました。そして大名には邸地が下賜されます。慶長6年には伊達政宗が桜田・愛宕下に屋敷を下賜されています。ただしこの頃はまだ豊臣秀頼が健在だったため、諸大名は大坂と江戸の両方に参勤しており、また慶長から元和3年頃までは毎年の参勤でした。
元和元年、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると江戸、徳川への参勤が多くなります。ライバルの豊臣家滅亡の後は毎年の参勤を強制する意義がなくなり、経済的負担の軽減もあって隔年の参勤に移行していきました。
このように、明文化された規定はなくても参勤交代の制度は既に元和年間には完成されていたのです。したがって 利直が江戸へ参勤することは当然あったでしょう。しかも、花巻城には重臣北松斎(1598〜1613 城代)や利直の次男政直(1614〜1624 城主)が居りましたので宿泊の必然性は高いと思います。厳密に言えば「参勤交代の途中〜」という言葉は少々問題があるかもしれませんが、間違いではないと言えます。
確実に花巻城に宿泊した記録としては、次の事件がありました。寛永元年(1624年)、江戸へ参府する途中花巻城に泊まった利直は、以前から伊達氏と通じている、との疑いのあった岩崎城代柏山明助を呼び、毒殺しようとしました。このとき花巻城主政直が柏山を安心させるために自ら毒見役となり、事情を知りながら毒入りの酒を飲むのです。その晩、政直と柏山は苦しみながら絶命しました。利直はお家のためとはいえ、我が子を手にかけたことを大変悲しみ、政直の霊を弔うため、荼毘に付した跡地に「天厳山 宗青寺」を建立し、遺品のお膳や什器、肖像画などをこの寺に安置したのです。
盛岡城古文書は第28代重直公以後に詳しく、それ以前の記録はあまり多くありません。また、花巻城代日誌にも利直公の宿泊及びそば献上の記録は残っておりません。後代の参勤交替では、盛岡から江戸までは13日〜15日間で、県内での宿泊地は花巻か黒沢尻(現北上市)、水沢でした。昼食休憩は郡山(現紫波町)、鬼柳、一関です。重直は花巻に宿泊されていることが記録にあるので、先例に従っていたと考えられ、距離から見ても花巻に宿泊していたと思われます。しかしながら、城内日誌等に確実な記録が今のところ発見されておりませんので、由来の真偽の検証は不可能です。口伝による由来をロマンを持って信ずるしかないところです。


盛岡南部始祖 利直肖像(盛岡中央公民館蔵) 政直愛用のお膳と什器(宗青寺蔵)
(3)花巻産そば
花巻近辺でもそばは昔から栽培されていたことは確かです。また沿岸の遠野・釜石から、そして山間部の豊沢・沢内からと奥州街道の接続点で交通の要所でした。従って各地の産物が集まり、市場も開かれるのです。これらの品をお殿様のお膳に、そばと共に差し上げたのは当然のことです。海の幸、山の幸そして里の幸と腕によりをかけて差し上げたことでしょう。また、当時の武家の食器は木製が多く、家紋入りの豪華な漆器が多数残っております。利直公に差し上げたそばも、木製の平椀、しかも上品に少量づつ差し上げたでしょうから、お替りを召し上がったのも頷けます。
前述の定勝寺文書にある「そば振舞」は、昔は北上以北の県央・県北地方では慣習になっておりました。一関を中心とする県南部や気仙地方など、旧伊達領の地方では「餅」を振舞うのが慣習となっていますが、県央・県北では冠婚葬祭などで沢山の人が集まった宴席では最後にそばを食べてお開きとなるのです(これを「お立ちそば」と称する)。花巻地方では餅も喜ばれますが、旧和賀、稗貫領は伊達領と接しているため双方の習慣・文化が交流しているものと思われます。
平常は前述の通り「ハットウ」や「カッケ」、「そばがき(ケモチ)」として食べられたそばも、祝事の際には「ハレ」食としてそば切りが作られます。卵や山芋などをつなぎに精魂込めて練り上げ、更に包丁で細く切っていくのですから大変な手間をかけた食事です。そのため贅沢品を禁じられた際、そば切りもご法度になりました。そこでそば切りを別名「はっと」と呼ぶようになった、との話もあります。
現在の花巻のそば畑(花巻市太田)と生産者の盛川さん夫妻
(4)大畠家のわんこそば
前述の通り「大畠家」は慶長2年の創業以来、連綿と営業を続けてきました。代々御用そばを仰せ付けられ、殿様や城代などにそばを差し上げておりました。御用の際は帯刀を許され、お供一人を連れて登城し、お城でそばを作って差し上げたといわれております。殿様の召し上がるそばは寒漬けといって、鍛治町裏の池巣(イケス)という二間四方ほどの池に寒中に漬けておいた物といいます。この池巣のあった場所は現在やぶ屋社長の堀合家の敷地であり、前庭には小さな池が残っています。堀合家は元は農家で「イケス」の屋号で呼ばれている旧家です。
江戸時代には館坂の下、現在の「おきも文具」付近に店があり、お城から使者が来て「○月○日にお殿様がおいでになるから、登城してそばを作るように」と注文が入るのでした。それでも代金は請求できず、「ご苦労であった」と幾分かの心付けの金品を頂戴するのが精々で、何度か倒産の危機を経験しております。残念ながら戦災により、店舗と共に江戸時代から戦前までの資料は焼失してしまい、わんこそば元祖の証拠は残っておりません。
わんこそばをいつ頃から商っていたのか定かではありませんが、明治時代には既に「わんこそば」という名称で売っており、当初は食堂はなく、2階の座敷でわんこそば専門に商売していたと現当主大畠康照氏夫人の絢子さんは言います。明治となりお城が廃止されて、町民の中にはお殿様が召し上がったそばを我々も食べてみたい、との希望があり、これに応えて提供したものが「わんこそば」である、とのことです。
その当時から現在までわんこそばの形態は変わらず、のり、ねぎ、削り節などの薬味は別の器に盛られ、小さ目のお椀で運ばれたそばを客の持つお椀に移し入れて食べさせます。この時、給仕のお姐さんからの掛け声などはありません。あくまでも奥ゆかしく上品に進められるのです。
昔お殿様に差し上げた故事の名残でしょうか、そばの量は少な目とはいっても他店よりは多く、5〜6杯で普通のざるそば一人前で、しかも急がずゆっくりと味わいながら召し上がって頂く、という趣向です。
私も若い頃挑戦しましたが、26杯がやっとでした。けれども「お殿様はこうして食べたんだろうな」と江戸時代に思いを馳せながら楽しく食べた思い出があります。掛け声をかけて景気よくポンポンと投げ入れる、現代風のわんこそばとは一味違います。現在では一般には販売せず、特別の場合だけわんこそばを受注しているようです。

大畠家(平成13年) 大畠家のわんこそば椀
*大畑家では2007年現在、わんこそばはメニューからなくなり、わんこそばの看板も撤去されました。
(5)家庭でのわんこそば
現在では廃れて無くなったようですが、昔は大晦日に年越そばとして各家庭でわんこそばをやったものでした。年の数だけそばを食べると来年は良い年になる、などと縁起を担いで家族で楽しんだのです。一人前20〜30玉とし、人数分の小玉のそばをそば屋に注文し配達してもらうのです。そばツユも煮干しなどで出汁をとる自家製でした。
嘉司屋では現在でもこのような形式の「年越しそば」を販売しております(50玉=もり7枚分 3,200円 2008年現在)が、やぶ屋では昭和の末期以後、普通のざるそばやかけそばになりました。
わんこそばを花巻で大畠家の次に始めた嘉司屋では、当初、店でのわんこそばの注文はあまり無くて、もっぱらこのような家庭への配達であったといいます。私の記憶でも、やぶ屋では「たれ付きわんこ」という名称で売っており、昭和50年代の価格は1玉30円であったと思います。この家庭でのわんこそばについては、森口多里著「日本の民俗 岩手」という本でも紹介されております。
鍛治町の丸三酒店会長、佐藤日出見氏によると
「私は昭和33年に結婚して鍛治町に来ましたが、そこで初めてわんこそばを知りました。花巻郊外、十二丁目の実家ではそのような習慣はなかったので、『へぇ、こんなそばの食べ方があったのか』とビックリしました。鍛治町ではほとんどの家にわんこそばの道具があり、お椀は普通の汁椀などでしたが家族で給仕しあって食べたものです。」ということです。
また同じく鍛治町の旧家で、味噌・醤油製造の平與商店社長、平賀誠之助氏は、
「私は大正13年生まれですが、小さい頃は(昭和初期)父がそばを打ち、よく食べさせてもらいました。私の家は本家であり、商売もしていましたからよく大勢の人が集まり、座敷で御馳走が出ました。宴の最後には『さあ、わんこそばを始めるぞ』との父の声で賑やかにわんこそばが始まり、それが終わると宴もお開きになるのです。このわんこそばは大晦日に限らず、人が集まったときにはよくやっていました。それより以前は大畠家で売っていただけで家庭でのわんこそばはなかったと思います。」
と話しております。
これらの証言でわかるとおり、大畠家では昭和以前からわんこそばを商っていたのです。また、花巻町内では家庭でわんこそばを楽しんでいますが、郊外の村落ではわんこそばというものさえ知られていなかったようです。
(1)原敬とそば
盛岡紹介のガイドブックや各種パンフレットの一部には、わんこそばの由来として、『平民宰相として知られる原敬が盛岡に帰省してそばを食べ、「そばは椀コに限る。」と言われてから始まった。』との説明が見られます。あるいは、この発言以来全国的に有名になったとも言われます。この説の真偽を確かめてみます。
盛岡(本宮村)出身の原敬は大のそば好きで、母のリツは手打ちのそばを作ってよく食べさせていました。母リツは臨終の床で、朦朧とした意識の中で「敬はいつ戻る?」と聞き、敬が「はい、ここに座っております」と答えると、「明日はそばきりを作って食べさせてあげるから早く帰るように」と言った、とのエピソードも残っております。
岩谷堂に縁のある浅子夫人の考案になるお椀を大変気に入って使っていましたが、これはお椀と蓋の間に、ネギなどの薬味を入れる中蓋がセットになっております。夫人は東京の黒江屋漆器店に特注で作ってもらったのでした。このお椀が後にわんこそばの器のモデルとなるのです。(原敬の嗣子、貢氏の談)
親戚の法事で盛岡に帰郷した際、「そばは椀コで食べるに限る。」と上述のお椀で、少なめに食することを推奨しました。この話が、「わんこそばに限る」と、後世誤って伝えられたのでしょう。原敬記念館でも「器を指しているもの」との見解です。
原敬のそば好きを物語るエピソードで、わんこそばに関係する話がもう一つあります。
これは元岩手県職員の川村清次郎氏の回想談です。大正4年、当時土木課技手だった川村氏が原家別邸の管理担当になった後、原から菩提寺である大慈寺改築の設計を任されたのです。
その打ち合わせで何度も東京芝の自宅を訪問していましたが、あるとき夕御飯にそばを御馳走になりました。原も相当の健啖家だったのでそば食い競争となり、川村氏は若さで挑戦しついに原との一騎打ちになりました。
食べ終わって「今晩は私が一番だろう。」という原に対し、夫人は「いいえ、川村さんが一番のようでした。」と言ったので、それ以来『川村はそば食い』ということにされてしまったというものです。この時に使われた器もちょっと小ぶりの上述の特製お椀でした。
原敬夫人考案のそば椀
薬味を入れる中蓋がセットになっている。
(原敬記念館所蔵)
| サイズ: | 本椀 | 直径112mm | 高さ 72mm |
| 中蓋 | 直径113mm | 高さ 17mm | |
| 上蓋 | 直径106mm |
やぶ屋のわんこそば本椀 直径126mm、高さ62mmと原敬のお椀より一回り大きくなっている。
(2)わんこや、直利庵、東家
盛岡の“与の字橋”たもとに、その名も「わんこや」というそば屋がありました。残念ながら既に廃業してしまいましたが、昭和4年、花巻の宮野目出身の斎藤市太郎という人が創業した店です。はじめは「斎藤そば屋」という普通の食堂でした。その後、与の字橋たもとにあった和洋料理店「藤沢屋」の跡地に移転しました(終戦前後か?)。戦後間もない頃、他店にない名物そばを売りたいと考え, 帰郷した原敬が北山の東禅寺へ親戚の墓参りに行った際の話をヒントにわんこそばを始めたということです。
わんこそばを始めるに当たっては協力者がおりました。幕末から明治の初めに創業し、三代目喜之助氏の代に製麺業も営むようになったという、名須川町の「赤喜商店」という製粉・製麺業者です。
当時、そばのほかにお汁粉などを販売していた斎藤そば屋に、この赤喜商店から製麺したそばと小豆を納入しておりましたが、ある時斎藤氏は赤喜の主人赤澤喜之助氏に「何か変わった名物になるようなそばは出来ないだろうか?」と相談したところ、花巻に変わった食べ方の面白いそばがある、と教えてあげたといいます。「大畠家」の女将さんの話によると、昭和22〜23年頃、花巻の石神出身で盛岡在住の刀研師、阿部義男氏に案内されて来店し、2階の座敷でわんこそばを食べ、さらに器や給仕の方法、作り方などを教えてあげたそうです。
こうして斎藤そば屋でわんこそばを売り出したのですが、発売当初は1杯3銭という価格で、1日1円も売れない日もあったほどで、現在のわんこそばの人気からは想像できないくらいです。そこで給仕の方法や薬味,器などを改良したのでした。(注:当時は物価統制時代で、昭和24年の東京ではかけそばが15円でした)
器については、大畠家でも秀衡塗ではありませんでした。わんこやで始めた際に立派な秀衡塗のお椀が10個あったが商売には不足だし、大事に残すため別に輪島に注文して作った、と市太郎氏夫人の斎藤りんさんの談話が残っております。
実はわんこそばには名称とマークが商標登録されておりました。この「わんこや」が権利者なのですが、昭和31年12月第492268号、昭和32年8月第525677号です。平成9年10月、期間満了により抹消されましたが、「わんこや」が元祖を名乗るゆえんでもあります。
与の字橋たもとにあった藤沢屋
昭和30年頃のわんこや
奥に今でも残る保存建物「紺屋町番屋」が見える。当時のわんこそば一人前の料金は250円だった。
(写真:「図説 盛岡四百年 下巻T」)
直利庵の女将さんによると、「わんこや」でわんこそばを始めて間もない頃、盛岡のそば組合で『加盟店みんなでわんこそばを売ろうではないか』ということになり、容器をそろえて始めました。全店ではなく有志だけ数店だったそうですが、今ほど有名でもなく注文する客も少ないし、高価な器でしたから長続きせず、数年を経ずに撤退する店が多かったと言う事です。直利庵でも昭和24、5年頃にわんこそばを始め、やはり当初はあまり売れず1日に1組か2組しかお客がなかったといいます。そしてわんこやの初代と直利庵の先々代が相談して改善した、とも述べております。
このような苦難の時代を盛岡名物として定着させようと、情熱と努力によって継続し有名になったのが、わんこやと直利庵、東家です。
『直利庵』の創業は明治17年(1884年)、盛岡一の老舗そば店です。一関にも同名の店がありますが、遠い親戚にあたるそうです。現在では料理にも力を入れており、盛岡っ子の舌をうならせております。
『東家』は明治40年、盛岡一の料亭『大清水多賀』の板前だった馬場東吉氏が独立して開業した店です。当初は日本料理店でしたがやがてそば店も兼業するようになり、昭和32年に二代目の勝治氏が急逝、三代目を継承した現当主の馬場勝彦氏がまだ学生だったのでしばらくの間はお母さんのトキさんが店を切り盛りしていたそうです。
昭和30年代末にそば店に業種転換し、わんこそばに力を入れて現在に至っております。
*東家の馬場勝彦氏は市議会議員などの公職のほか、福祉関係にも尽力し、多くの市民に惜しまれながら平成18年に逝去されました。
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東家本店 直利庵
(3)そば振る舞い
花巻起源説でも触れましたが、岩手県北地方を中心として旧盛岡藩領内では、それぞれの家でお婆さんやお母さんが手打ちそばを作り、家族の食事に供する事はもちろん、親戚が集まった席で「我が家のそば」をご馳走しました。
東家の馬場勝彦氏によると
「そば振る舞い(お立ちそば)を斎藤そば屋がわんこそばとして商品化した後、高度成長期の昭和30年代になって『1杯10円より食べ放題100円にしよう。昔からのオセメンコのやり方を復活しよう。』という意見があって、過激な投げ込み方式となり現在のわんこそばが完成した。」といいます。
しかし、この「オセメンコ」という言葉は初耳でしたので直利庵や橋本屋、米久などの老舗そば店、さらに古老や盛岡弁に詳しい方々に尋ねても誰も知りませんでした。もしかすると盛岡ではなく県北の言葉では?と思って調べたところ、やはり盛岡弁ではなく県北岩泉地方の言葉でした。しかも投げ込みの方法を指す言葉ではありませんでした。
岩泉の民話採集家、高橋貞子さんによると岩泉地方では新そばの出来た頃に宴席を設けたり、冠婚葬祭の食事の最後にそばを食べるのですが、そばの食べ方、給仕の方法がわんこそばに良く似ております。
茹で上げたそばを小分けして柄付のざるに入れ、熱いそばつゆをくぐらせて味をつけると同時に暖めます。このそばをお椀に入れ、お盆に乗せられるだけ乗せてお客の前に運びます。給仕の人は客の前に座り、客の持つお椀に運んできたそばを入れて食べさせるのですが、このとき、「オセメンコでおあげんせ」、「オセェセンでどうぞ」と声をかけながらそばを勧めるのです。男性が給仕のときは少し言葉が変化しますが、「お代わりしてどうぞお召し上がりください。」という意味です。
こうしてお腹一杯になるまでお替りを差し上げるのですが、わんこそばのように無理には勧めません。とはいえそば好きの土地柄ですから5杯、10杯と平らげる強者揃いで、台所は大忙し。こうしてそばを食べ終えると宴もお開きとなり、留守番の家族にお土産のそばを頂いて家路につくのです。このオセメンコ、オセェセンは標準語の発音にするとサイメン、サイセンとなり、漢字を当てれば再、催、麺、饌であろうと高橋さんはおっしゃっています。
*参考文献:熊谷印刷出版部『岩手のそば』
岩泉地方のそば振る舞い(中央女性が高橋貞子さん)『岩手のそば』より
その後の研究の結果、盛岡でも「オセメンコ」に似た言葉でお代りを勧めていたことがわかりました。木津屋の親戚で、『木金(ききん)』という屋号で雑貨商を営んでいた池野ウタさんの証言です。
ウタさんの生家(屋号:叶庄)では冠婚葬祭などの宴会を自宅で開催し、宴の最後はそばで締めます。その際、家の主人が「オサイメしてあげて」と女中さんや手伝いの人たちに言って、お代りを勧めていたそうです。
また、『もりおか物語(一) 惣門かいわい』(熊谷印刷出版部)のなかで、『木津屋本店』の池野藤兵衛氏が次の談話を残しています。
「三十一日(大晦日)には、年越しそばといって、今でいう”ワンコソバ”を食べたものです。昔はワンコソバは各家庭でやったもので、うちではテッパチ椀の大きなので食べたんです。南部領には、古い習慣でソバをお椀でおかわりして食べる食べ方が地方にもあったものでしたな。」
また盛岡出身の女優、長岡輝子はタウン誌『j街もりおか』(1968/10月号)の中で次のような要旨の回想をしております。
「橋のたもとのわんこそばで、後から後から入れられて食べる忙しさがどうしても理解できなかった。しかし先日紺屋町にある本家に泊まりに行って、わんこそばの御馳走になった。若夫婦が私や子供たちのお椀に次々とそばを入れてくれるのを見て、『愛情』がわんこそばの由来だと納得しました。少しでも延びないようにおいしくそばを食べさせようとすれば、一口づつお代りするしかない。前日からの準備や奥の台所からマラソンのように走ってのサービスは、お客様に対する何よりの『ごちそう、おもてなし』なのだ。」
「蕎麦の事典」などにはわんこそばの項で、給仕人が無理強いしてお替りのそばを勧めることを「オテバチ」といい、一番のご馳走である、と紹介しております。一方「もりおか物語(八)肴町界隈」のなかで吉田亀吉氏は『田舎ではそばをご馳走するときに、手鉢椀で山盛りにして何杯も勧めたもンでござンす。』と、思い出を語っております。
花巻や盛岡の周辺地域では振る舞いの際、「テッパツパン(鉄鉢椀/手鉢椀)」にご飯を山盛りにして出しました。しかも、もう沢山だと言うのに「オテバチだから」と言って、無理にお替りを勧めたものでした。お変わりは椀を下げて盛るのではなく、別の椀に盛ったご飯を客の持つ椀へ(手から手へ)直接移します。この習慣もわんこそば誕生の一因になったものと思われます。
テッパツワン 左は不祝儀、右は祝儀用(花巻市鍋倉 鎌田豊佐氏蔵) 平椀(お殿様がそばを食べたといわれる型)
中尊寺や厳美渓周辺の平泉地方にもわんこそばの店が数件あります。しかし、こちらのわんこそばは花巻、盛岡とは違います。大きな特徴は二つ。
- セルフサービスである。
写真のように、各種薬味と一つのお盆に12杯のそばが2段で24杯がワンセットで提供されます。このそばを自分で秀衡塗のお椀に移し入れ、別添えのそばつゆをかけて自分の好きな薬味を乗せながら食べます。
ですから給仕の姐さんに急かされることなく自分のペースで食べられるわけです。- 冷たいそばである。
花巻、盛岡のわんこそばは、熱いそばつゆ(かけそば用)をくぐらせてきますので温かいものです。平泉のわんこそばは、洗った冷たいそばにつゆもザルそば用の冷たい汁を使用しています。
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この平泉のわんこそばは「盛り出し式」と言いますが、最近は「平泉方式」とも呼ばれているようです。
その由来を、元祖である「芭蕉館」の社長、千葉力男氏は次のように説明しております。
『昭和37,38年頃、当店の先代、千葉虎一郎と中尊寺18院の一つ、円乗院の佐々木実高和尚が新メニューを相談し、岩手名物わんこそばを時間のない観光客にも手軽に食べられるようにできないか、ということで試行錯誤の末考案したものです。熱いそばはのび易いので、洗いたての冷たいそばで食べるようにしております。』
通常、24杯で一人前ですがこれはざるそば2枚分ということです。しかし実際に食べてみると結構お腹いっぱいになります。店の方に聞くと、平泉あたりではもともと他所よりもそばの量が多く、普通の大ザルくらいはあるようです。
価格は上の写真の普通のコースが1,850円(税込み)、天ぷらなど薬味が豪華になると2,400円、24杯では足りないという健啖家には12杯毎の御代わりがあり、最初の12杯は無料、次からは400円です。
*価格は2008/11月現在
以上の資料や証言をまとめてみますと、その発祥は花巻起源説が有力です。
わんこそば誕生の背景・ルーツとして「そば振舞」という風習があったことに疑問の余地はありません。この風習、伝統食文化は花巻・盛岡に限定されたものではなく、第4章に詳述するように多少の相違はあるにせよ全国のそば産地にありましたが、やがて時代の変化とともに生活の近代化、農村の都会化などによって次第に消滅し、忘れ去られてしまったのです。
しかし花巻、盛岡では「わんこそば」という商品化によって現在まで脈々と伝統が受け継がれることになりました。商品化したそば店には「よくぞやってくれた!」と表彰したいくらいのものですが、この商品化にはやはり何らかの故事来歴や発案があったものと思われます。その商品化の最も古い証言が花巻、大畠屋のもので、お殿様にそばを差し上げたのもそば振舞の一種と考えられ、あながち創話とばかりも言えないと思います。
初期のわんこそばは掛声をかけて無理にお代わりを勧めたり、お椀を重ねて食べた数を競ったり、立って給仕するようなことはありませんでした。あくまでも美味しく、満腹になるまで食べてもらいたいという、主人のおもてなしの心を伝える食事だったのです。だからこそ次章で述べるように石川啄木や宮沢賢治が日記や作品に残したのでしょう。
盛岡においては、斎藤そば屋(わんこや)が戦後になって発売するまでは商品としてのわんこそばはありませんでした。「わんこや」創業の斎藤氏が大畠屋を参考にしたと紹介者の名前まで判明しております。一方花巻では明治時代から大畠屋で発売されており、昭和初期には一般家庭でも楽しまれております。
こうした観点からみると「わんこそば」発祥・元祖は花巻であり、これを現代の形式に継承発展させたのが盛岡であったと結論します。「わんこそば」の商標が登録認定されたのもそれまでは一般的な呼称ではなかったこと、お椀や薬味、食べ方などに独創があったと認められたからでしょう。
その後国分県知事の推奨により、岩手県の名物として宣伝に努めたおかげで全国に有名になりました。昭和27年頃からはやぶ屋・嘉司屋とも東京のデパートで物産展に出展しており、やがて掛声をかける給仕方法なども工夫されて、現在のわんこそばが完成されたのです。
本稿は平成13年12月発行の『わんこそば なっても』という自著を基にしています。したがってその後の価格、記録、人事等の異動については訂正されていない部分があると思いますので、参考になさる方は各自においてご確認ください。また、発行後の研究の成果は随時本稿に反映してまいります。
この本を購入希望の方には本代500円と送料実費にてお送りいたします。メールにてお申し込みください。
@啄木自身が好物を書いたもの
明治34年9月、盛岡中学校で友人と発行した回覧雑誌『爾伎多麻(ニギタマ)』のなかで「嗜好」という題で自分の好きな色、香、音、食などを紹介しています。
「色」ではうす紫、「香」ではバラとカステイラの香り、「音」では笛の音、そして「食」ではソバ、カボチャ(但シ少々ニテハ此限ニアラズ)となっています。好きなものはお腹いっぱい食べたい・・・僕も同じ!!
面白いのは「人」の項で、未来の石川一君(啄木の本名)と書いていること。相当の自信家だったといえるでしょう。
@そばが登場する作品等
・詩集『春と修羅』の「昴」という詩の中に「そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ」とあります。
・『或る農学生の日記』の中には「車掌みたいな人が蕎麦も売ってゐるのは〜」とあります。
・童話『黒ぶどう』では「そばの花の匂もするよ。」と登場。
・関 徳弥 宛の手紙(書簡197)の中に「蕎麦掻き」を食べたことが記されています。
・このほかにも詩、童話に何度も取り上げられており、賢治の好物だったことがうかがわれます。
Aわんこそばを連想する作品
・童話『雪渡り』では幻燈会の場面で子狐が次のような歌を歌います。
「♪野原のおそばは〜清作が、去年13ばいたべた。」
これも啄木同様「そば振舞」のことと思われ、賢治も食べたことがあると推察します。
Bなじみのそば店
・吹張町の『やぶ屋』を『BUSH(ブッシュ)』と呼んで贔屓にしていました。特に天ぷらそばが好物でお代りして2杯も食べるほどです。しかもサイダーをセットにして!!
やぶ屋の天ぷらそばは精進ではなく普通のエビ天で、値段は15銭、サイダーは23銭もしていました。農学校の教師時代は結構リッチだったのです。
・賢治の生家は豊沢町ですが、その東側は裏町という遊廓街で、そこに『嘉司屋』というそば屋がありました。家が近いものですから嘉司屋にもちょくちょく足を運び、こちらでは柏南蛮(親子南蛮との説もある)をよく食べていたといいます。
(1)大会の始まり
毎年2月11日、花巻文化会館で開催されている「わんこそば全日本大会」。第1回大会は昭和32年12月8日に「第1回わんこそば相撲冬場所」として開催されました。会場は花巻市末広町の嘉司屋。わんこそばの由来・歴史で述べた通り、その発祥は花巻ですが、当時盛岡市ではわんこそばの店が多くなり、盛岡元祖のわんこやで大会を開くなど、 花巻が劣勢になっていました。逆に盛岡が元祖であるとの宣伝さえされており、嘉司屋の佐々木喜太郎氏が花巻わんこそばの復権をかけて企画したものでした。
町内や業界の友人・知人に相談し、「花巻そば友の会」を結成。ユニークで楽しい内容にし、会場を満杯にしようと全員知恵を絞りました。なにしろ若さと行動力、熱意はあっても金がありません。そこで大相撲花篭部屋の親方と喜太郎氏が懇意であった関係で相撲に因み、冬には本場所が開かれていない事に着目。『わんこ相撲冬場所』と銘打ったのでした。
食べる選手を力士ならぬ食士と呼び、四股名として「満腹山」などと書いた手作りの前掛けをかけさせる。前宣伝として嘉司屋の半纏に豆絞りのいでたちで幟(これも手作り)、触れ太鼓を担いでチンドン屋もどきに市内を歩きました。
*『わんこそば なっても』という本、及び以前の当ページでは第1回大会の開催日を昭和32年12月12日としておりましたが、その後の調査で昭和32年12月11日付「サン写真新聞」記事により、12月8日開催と判明しましたので訂正しました。
メンバーみんなで前宣伝 後方建物は嘉司屋 第4回大会には花巻出身の力士も参加
その後幾多の変遷を経て、現在は市役所・商工会議所・花巻そば友の会の三者による実行委員会を組織し、斬新なアイデアと強力布陣で運営、NHKをはじめ多くのマスコミにも取り上げられて全国的に有名になりました。市内のわんこそば店(やぶ屋、嘉司屋、金婚亭、山猫軒)、花巻東高校生、青年会議所、ボランティアなどが一丸となって実施し、平成20年には第50回を迎え半世紀を超えてさらに盛んになっております。
(2)大会の記録
第1回から第10回までは15分、第11回以降は5分間の制限時間です。 住所は当時、岩手は県名省略。
回数 氏 名 記録 住 所 備 考 回数 氏 名 記録 住 所 備 考 1 阿部 正男 113 花巻市 嘉司屋 S32.12/8 31 鎌田 誠司 157 花巻市 H1.2/11 2 斉藤 三郎 142 北上市 〃 32 老藤 彰 148 江刺市 - 3 〃 〃 178 〃 〃 33 小野寺 正浩 180 花巻市 - 4 照井 勲 201 花巻市 〃 34 浅沼 昭 147 北上市 - 5 斉藤 三郎 172 北上市 〃 35 中島 稔雄 160 東和町 - 6 工藤 光夫 203 花巻市 15分の最高記録 36 藤原 正己 160 大迫町 - 7 〃 〃 183 〃 嘉司屋 37 佐々木 満 155 宮城県仙台市 - 8 八重樫 諭 159 北上市 〃 38 多田 義明 149 東和町 - 9 平賀 政右ヱ門 153 花巻市 〃 39 阿部 一郎 154 花巻市 - 10 佐藤 俊雄 131 〃 中央公民館 40 三浦 昭夫 185 大東町 - 11 菊池 一男 102 石鳥谷町 嘉司屋 41 秋月 康宏 180 千葉県船橋市 - 12 伊藤 金八 116 花巻市 〃 42 石田 隆徳 159 青森県蟹田町 - 13 〃 〃 134 〃 〃 43 駿河 豊起 189 宮城県気仙沼市 - 14 平賀 守 119 〃 〃 44 田川 理加 187 大阪府東大阪市 - 15 福田 昭吉 127 〃 花巻デパート 45 阿部 圭子 222 花巻市 - 16 富手 祐孝 101 〃 〃 46 佐藤 庄平 199 秋田県雄物川町 - 17 似内 茂 137 〃 〃 47 加藤 昌浩 201 宮城県蔵王町 - 18 大森 仁 140 水沢市 〃 48 加藤 昌浩 241 〃 〃 歴代最高記録 19 小原 国夫 169 花巻市 〃 49 菅原 初代 225 盛岡市 女性最高記録 20 駒井 孝平 153 盛岡市 中央公民館 50 青木 貴孝 223 大分県別府市 H20.2/11 21 内山 拓男 154 花巻市 〃 51 〃 〃 218 〃 〃 2連覇 22 小山田 信夫 141 〃 S55.2/11 以後同日 52 - - - - 23 吉田 豊彦 148 宮古市 〃 53 - - - - 24 佐々木治男 161 花巻市 〃 54 - - - - 25 鈴木 貞夫 176 北上市 市民体育館 55 - - - - 26 阿部 勝 175 金ヶ崎町 〃 56 - - - - 27 今井 治義 188 神奈川県鎌倉市 〃 57 - - - - 28 松本 純 162 青森県青森市 〃 58 - - - - 29 鎌田 陽一 175 花巻市 〃 59 - - - - 30 落安 兼次郎 157 山形村 文化会館 以後同 60 - - - -
*会場は第1回から第14回までは嘉司屋(第10回を除く)。開催日は第10回までは12月、以後はおおむね2月(不定期)。
第15回から第19回までは花巻デパート。
第20回から第24回までは中央公民館。(昭和55年、第22回以後は開催日を毎年2月11日に固定。)
第25回から第29回までは市民体育館。
第30回以後は文化会館。
*初期の大会は15分と長いのに記録はさほどでもありません。これはそばの大きさが違うからです。昔はわんこそば8〜10杯でかけそば1杯といわれました。現在では15〜18杯です。およそ半分の大きさになったわけです。
ちなみに大会ではなく、一般の店での記録は以下の通りです。
・やぶ屋 男性301杯 女性175杯
・嘉司屋 男性123杯 女性100杯位
・東 屋 男性530杯 女性345杯
・初 駒 男性230杯 女性200杯
*平均は男性50杯、女性30杯くらいでしょう。ざるそばで2〜3枚ですね。参考までに私の記録は108杯です。20代の頃でしたが、煩悩の数だけ食べました。昼に食べたのですが、翌朝まで具合が悪くて、何も食べられませんでした。あまり無理をするものではありませんね。
昭和63年 第30回大会から制定されたイメージ・キャラクター
(1)大会の始まり
盛岡でわんこそばを始めた戦後間もない頃、盛岡元祖「わんこや」独自で小規模な大会を開きました。岩手毎日新聞が共催で『県下わんこそば選手権大会』と銘打ち、選手募集なども新聞社が協力しましたから年々盛んになり、花巻が危機感を覚えるほどになったことは前述のとおりです。
この大会での記録や制限時間等、新聞記事等から判明した中から要約して次表に紹介します。
回数 開催日 記録 優勝者 住所 備考 1 昭和26年11月25日 67杯 上野 与吉 松尾鉱山 参加41名、40分制限 4 昭和30年 3月19日 75杯 倉沢 富蔵 盛岡市本宮 - 5 昭和31年 2月26日 56杯 大坪 宏 滝沢村 同一記録により3分の優勝決定戦 10 昭和36年 3月 5日 160杯 藤沢 忠雄 盛岡市 - 11 昭和37年 2月25日 211杯 主浜 丑太郎 滝沢村 歴代1位 30分制限に変更 15 昭和41年 2月27日 171杯 吉田 昭二 盛岡市 競技種目変更 16 昭和42年 3月 5日 148杯 大信田 義信 紫波町 20分制限に変更 最終回
*昭和43年には店舗を新築し、趣向を一新して開催する予定で新聞広告も行っていたのですが繁忙のためか開催されないでしまい、前年の第16回を最後にこのわんこそば大会は消滅しました。
(2)現在のわんこそば大会
現在の「全日本わんこそば選手権」は昭和61年10月17日に「ニッポンめんサミット」が盛岡で開催された際に、記念として行なわれたわんこそば大会が始まりです。このサミットには全国からラーメンやうどん、スパゲッティなどの麺状の食品を集め、そば打ち道具の販売や屋台なども出店いたしました。
その後、会場や制限時間の変更があり、現在は毎年11月、盛岡劇場で15分間の競技として開催されております。
(3)大会の記録
第10回までは時間無制限、平成9年第11回からは15分間という制限時間です。
*前年度チャンピオンが連続出場した場合、競技時間は10分間になります。
回数 氏 名 記録 住 所 備 考 回数 氏 名 記録 住 所 備 考 1 山岸 真弓 345 東京都 女性歴代2位 16 高村 大志 239 - - 2 小野寺 敦志 212 - 昭和63年 17 佐藤 庄平 268 秋田県雄物川町 - 3 土岐 尚歳 300 - 平成元年 18 〃 269 〃 2連覇 4 浅沼 昭 237 岩手県北上市 - 19 −中止− - 新潟県中越地震 平成16年 5 小野寺 一生 292 - - 20 泉 拓人 342 東京都 - 6 風間 博正 285 埼玉県 - 21 〃 329 〃 2連覇 7 〃 530 〃 2連覇 22 菅原 初代 340 岩手県盛岡市 - 8 中嶋 稔雄 428 岩手県 - 23 〃 383 〃 〃 V2
9 −中止− - 阪神淡路大震災 平成7年 24 〃 399 〃 〃 V3 女性最高記録 10 中嶋 博文 559 山梨県 歴代最高記録 25 - - - - 11 一盃森 政行 280 - 以後15分制限 26 - - - - 12 藤田 操 314 - - 27 - - - - 13 藤村 禎二 364 岩手県盛岡市 - 28 - - - - 14 岸 義行 451 東京都 15分 最高記録 29 - - - - 15 佐藤 定男 264 岩手県盛岡市 - 30 - - - -
*会場は第1回から第6回までは肴町中三デパート(駐車場やアーケード、店内ホール)にて、平成5年、第7回からは盛岡劇場。
過去に優勝した方が再度出場する場合、5分のハンディキャップがあり、10分制限となります。従って第18、21、23回は10分での記録です。
わんこそばは全国的にも珍しい食習慣として花巻・盛岡の大会の都度、TVや新聞などのマスコミに取り上げられます。しかし餅の大食い大会というのも聞いたことがありますし、そばの名産地では何かイベントがあったのではないかと思って調べてみました。
- 山形県最上郡真室川町 「オダヂ」「オテバチ」
むがさって(嫁ぎ)行く門出を祝う宴を「おだぢ振舞」というそうで、おだぢは出立を意味する。一方、この地方の方言ではご馳走をお代わりすることも同じく「おだぢ」と言うらしい。
- 「餅は別腹、蕎麦の一とむじり、さァおだぢさっしゃえ。」 これを訳すと「酒と餅はお腹の中でも容れ所が違う。蕎麦は消化がよく腹が一杯になっても一寸体を動かしただけで直ぐ空くものだ。さァどんどん食べてお代りを出しなさい。」と勧めるのである。このお代りを持て余して辞退しようものなら「椀さ盛らった物と荷縄のかかた物は残さんなえぞ」と無理にでも勧められるという。
餅や蕎麦を勧めるおだぢを「おてばち」、更に重ねるのを「ててばち」ともいうそうだが、見境なく客に無理強いして喜ぶのではない。部落内の者には遠慮はなくても、他所からのお客様には心地よく召し上がって頂きたい一念あって、ほどほどという気持ちもひそむそうである。
( 『たべる』昭和57年5月号より 日本麺類業組合連合会、全国麺業新聞社 )
*福島県会津地方にも「おだちそば」というものがあるそうだが、同じようなものであろう。
リンク 米沢「お立ち飯」
- 新潟県三条市 「サイメン」
『三条市史』の中に「越後三条南郷談」(大正15年)から転載した次の記述があります。
「村で蕎麦の馳走がある時、サイメンと云ふのを行ふ。まだ他人が蕎麦を食ってゐる最中に傍らから蕎麦を「サイメンします」と云って、その飯椀にあけてゆく。サイメンが一番ご馳走なのだそうだ。サイ麺の當字も分らぬ。酒宴の席では始めに松前を唄ひ終りにおけさをうたふ。」
今では市職員の誰もが初耳ということで市南部の老人に訊ねたところ、戦前までは「サイメン」という風習があり、主に正月の行事だったそうです。そして「いらない」と言うまでお代りを続けたということです。
- 長野県南安曇郡 「とうじそば」
奈川村に「とうじそば」という名物があります。竹ざるに通常の3分の1から4分の1ほどの大きさに小割りしたそばを多数盛り付け、鉄鍋には汁と具を入れて熱くしておきます。
客は投汁カゴと呼ぶ柄のついたざる(わんこそばの振りざる同様)に蕎麦を入れて鍋の熱い汁をくぐらせて温め、お椀に移します。木杓子で汁と具を蕎麦の上にかけて食べます。客は満腹になるまで何杯でもお代りして食べる、というものです。
わんこそばのように給仕する人がいるわけではなく、セルフサービスというところが大きな違いです。
リンク 奈川とうじそば
また、戸隠や開田のそば祭りではそば食い競争が行われています。戸隠では5分間でざるそばを何枚食べるか、という競争で平成11年には男子18枚、女子14枚という記録でした。
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開田高原 そば祭り 戸隠のそば祭り
- 越前福井県
植原路郎著「蕎麦談義」(東京堂出版)という本に次のような記述があります。
「福井県永平寺町の西教寺では厳寒の頃、檀徒衆が寄り合い一年の法楽にそば食いの会が催されます。客が半分も食べ終わらないうちに、肩越しにそばが皿へと投げ込まれます。中には10杯、20杯と食べる豪の者もある。」
といいますから、そばの量はそれほど少なくはないと思います。確認のため平成13年4月に寺の住職さんに電話で問い合わせたところ、投げ込み式ではありませんでしたが、平成11年1月まで通常1月に毎年開催されていたことが確認できました。しかし寺のある谷口地区に住んでいる町役場の観光課職員(当時)によれば、そのような食べ方は聞いたことがなく、寺独自の伝統であろうか?と首をひねっていました。
- 島根県出雲地方 「カケソバ」
島根県出雲地方には「カケソバ」というそばの風習があるそうです。
新島繁著『蕎麦の事典』、『蕎麦の世界』によると、「そば振舞をするとき、客の背後から客の知らぬ間に椀の中へお替わりのそばを移すことをいう。客に「もうたくさん」と椀の蓋をして断られないようにするのが勧め上手とされている。」と紹介されています。まるでわんこそばそのもののようです。
しかし、松江市のそば店『ふなつ』ご主人や出雲市の出版社『ワン・ライン』川上社長に問い合わせましたが、聞いたことがないといいます。すでに過去の食習慣になってしまったのでしょうか。
なお、松江藩七代藩主、松平治郷公(号:不昧)も大のそば好きで、原敬と同様のそば椀を愛用しておりました。(下写真)
藤間 亨氏 所蔵
昭和39年11月放送のNHK「日本の伝統−そば−」という番組の中で、松江市のそば好きの会の人達が料理屋か旧家の座敷という感じの部屋でそばを食べる場面がある。このとき給仕の女性がお替わりのそばが入ったお椀10個程度を並べたお盆を膝元に置いており、客のお椀が空になるとお替わりのそばを椀から椀へと移し入れて給仕している。
わんこそばのルーツ「そば振舞」に非常によく似ており、松江市蕎麦組合代表『神代そば』のご主人に質問したところ、母堂の記憶では「昭和30年代までは各家で冠婚葬祭を行い、座敷にお膳を並べてご馳走した。そのようなときはそばのお代りをテレビのようにお椀で入れたものだった。」と言います。
今ではそのような風習はなく、人手や手間などの関係で廃れたものと想像します。『割子そば』はこの簡略化したもの、というより元来花見など屋外に持ち出し、行楽地等で食べるためにできたものが『割子そば』だということです。
- 兵庫県出石 「皿そば」 その他
信州上田から移封された仙石越前守政明が信州そばを伝えたといわれており、地元の出石焼きの皿にそばを盛り、つゆを掛けてすすりこむことから「皿そば」の名称となりました。5皿で一人前となり、胃袋自慢は10皿、20皿とお代りをして食べるといいます。
リンク 皿そば
徳島県の奥地、日本の秘境の一つに挙げられる祖谷(いや)は平家落人が隠れ住んだ山里です。ここでは土地柄、雑穀が常食だったのですが特にもそばが大変おいしく、「祖谷そば」として全国に名を知られております。そば振舞の風習の有無はわかりませんが、このような土地ですから何らかのそば食の文化、風習はあったものと思われます。
リンク 徳島 祖谷そば
ほかにも全国にそばの産地として知られている福島県桧枝岐、滋賀県伊吹町、秋田県鹿角市などでも「そば振舞」の風習があったのではないかと想像します。
** ご存知の方はぜひ情報をお寄せ下さい。お願いいたします。**
(1)わんこそばの歌
わんこそばの歌も数種あります。「岩手わんこそば音頭」、「花巻わんこそば数え唄」、「めんめん音頭」などですが、花巻の『わんこそば全日本大会』会場では「岩手わんこそば音頭」が流されて雰囲気を盛り上げています。
また、盛岡の『全日本わんこそば選手権』会場では盛岡市役所職員の田口友善さんが作詞作曲した、「わんこそばラップ」が流されます。
興味のある方は市役所又は商工会議所へ問い合わせてみてください。「岩手わんこそば音頭」の歌詞(抜粋) 池ひろし作詞 畠山信也作曲
- わんこさ入れたら それ食えやれ食え もっと食え
きらいじゃあるまいし
8杯、10杯 これで止めたら コリャ 笑われる
何ぼ食べても ゼニコ(銭)は同じ
ドッコイ つゆなど飲むんじゃないよ- わんこさ入れたら それ食えやれ食え もっと食え
わらす(童)じゃあるまいし
20や30 これで止めたら コリャ 男じゃない
何ぼ食べても ハライタおきぬ
ドッコイ ベルトは外してしまえ
(2)わんこそばグッズ・お土産
「花巻わんこそば数え唄」(昔、堀田助好氏ほかやぶ屋従業員が替え唄として作詞したもの:泉沢補作)
一つとや 人に知られたわんこそば 花巻わんこは日本一 *お囃子:そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね(二番以後も同じ)
二つとや ふた親元気でいるうちに やぶ屋のわんこで親孝行
三つとや 見たり聞いたりしてるけど 食わなきゃ分からぬわんこそば
四つとや 嫁入り前の娘でも 大関横綱めざします
五つとや いつのまにやら椀の山 おめ(お前)さん遠慮を知らねのか
六つとや 無理してそんなに頑張って あとで腹痛(ハライタ)おこすなよ
七つとや 何回食べてもいいもんだ 親戚友達呼んで食う
八つとや やっぱり楽しいわんこそば みんなで競争食べ比べ
九つとや ここまで来たら止められぬ 目標100杯目の前だ
十とや とうとう横綱達成だ バンザイみんなに自慢する
*やぶ屋以外のわんこそば店の店名を織り込むことも可能 (例 五つとや いつのまにやら椀の山 嘉司屋のわんこはまだいける)
駅やサービスエリア、ホテルなどでは「名物わんこそば」のパッケージ入り乾麺のお土産が多種販売されています。これは長さが普通の乾麺の半分から3分の1程度のそばで、味は普通のそばと同じです。根付けやストラップとして岩手限定「わんこそばキューピー」、「わんこそばハロー・キティ」などもあります。
以下にわんこそば土産の一部を紹介しますが、まだまだたくさんあるようです。わんこそばの店や観光地・駅・旅館などの売店をチェックしてみて下さい。
**限定品、非売品、絶版品も掲載しております**
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よくある「まんじゅう」のヴァリエーション 岩手限定キャラクター「キューピーちゃん」シリーズ
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スティッチわんこ ミニーちゃんもわんこキャラに わんこそば挑戦記念手形
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問答無用! 駅やホテル売店の定番アイテム
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絶版!お宝?昔の「わんこそばこけし」 昔の観光キャンペーン無料サービス ペプシ・コーラのおまけスヌーピー
(3)各種イベントでのわんこそば大会
@相撲の大本山、両国国技館での大会! (平成9年11月6日)「わんこ相撲冬場所」と銘打ってはじめたわんこそば大会は、最初から大相撲にちなんだ趣向だったが、ついに大相撲の大本山、殿堂である両国国技館で開催するまでになったのだ!Aアメリカ/ニューヨーク場所 (平成19年10月27日)
これは花巻の「わんこそば全国大会」が第40回という節目を迎えるため、そのPRを兼ねて花巻市役所が企画したものでした。
「ニューヨーク岩手県人会」創立10周年記念イベントとして同会より花巻市に開催依 頼され、実施することになった。
ホットスプリング市とは姉妹都市であり、毎年相互訪問して交流しているので、当年 の訪問と合わせて日程が組まれた。
8歳の子供から老若男女64人参加と大盛況。2分間の競技の結果、優勝は66杯 を平らげた荒木さん、その愛娘はんなちゃんも29杯で子供の部を制覇した。また、 北海道から沖縄まで10の県人会対抗戦は地元岩手県人会の岩崎会長が60杯で優 勝。面目を保った。
← 2007/11/3 付 "SHUKAN NEW YORK SEIKATSU" に掲載された記事。
B中国/大連市でのわんこそば大会 (平成21年10月18日)花巻市の青少年教育交流事業として中学生、教員、市役所担当者らとともにわんこそば店主も訪中。大連市の中学生や父母なども花巻の中学生とともに2分間のわんこそばに挑戦した。
慣れない日本そばに戸惑いながらも盛んな声援を受けて、現地の人の最高記録は62杯と大健闘。
2009/10/24 岩手日報
(4)わんこそば関連情報
@北上のわんこ屋 発見!2009/12 所用で隣町の北上市へ行った帰り、国道4号線沿いに「わんこそば」の看板を発見!
これは寄ってみなくては・・・と、駐車場へ入れましたが、定休日だったのか閉店していました。それとも観光シーズンのみOPENする店なのか?ご存知の方は教えて下さい。
A新花巻駅前の広告塔2010/2/4 新幹線、新花巻駅前の広告塔です。高さ10メートル以上?のジャンボサイズです。