「茂吉記念館だより・第1号」内容紹介

(表紙)

茂吉像素描 金山平三 画 (昭和22年)

茂吉が大石田町(聴禽書屋)で疎開生活を送っていた折、親交した洋画家の金山平三が描いたもの 茂吉日記(抄)「九月二六日○金山平三画伯来り予ノ像を写生シテクレタ/九月二七日○林檎ヲ一ツ写生シタ○金山画伯。予ニ写生ヲ持ッテ来テクレタ」

 

ここに来て篤きなさけをかうむりぬ すこやけき日にも病みをる日にも

斎藤茂吉歌集「白き山」(昭和二一年)より

創刊の挨拶

開館30年を迎えて

当館は昭和43年9月に開館して、今年でちょうど30年を迎えます。顧みますと、この間運営組織の変更など幾つかの変遷をたどって参りましたが、皆様からのお力添え、さらに変わることのない斎藤茂吉への関心と、高い評価に支えられながら、今日を迎えることが出来ました。関係者一同、よろこび、かつ感謝いたしております。その節目にあたります本年から、茂吉の人と文学に気安く触れていただき、また関連する情報・資料などもご紹介するために、「茂吉記念館だより」を創刊いたします。とくにこのたびは、ペーター・パンツアー教授から恩師スラヴィク博士追悼の文章を寄せていただき、茂吉渡欧時代の一面を紹介することが出来ました。さしあたって本通信は年1回の発行となりますが、今後多くの方々のご愛読をいただくように願って、ごあいさつ申し上げます。

財団法人斎藤茂吉記念館理事長 清野源太郎

(寄稿)

ペーター・パンツ− JAPANOLGISCHES SEMINER UNIVERSITAT BONN Prof.Dr.Peter Pantzer

あはれ あはれ 日本語はなす 君 居たりけり −アレクサンダ−・スラヴィク先生 追悼−


ウィーン大学日本学研究所の名誉教授のアレクサンダ−・スラヴィク博士は、欧州における日本研究の大家であったが、1997年4月19日、オーストリアのウーンにて永眠された。高齢にあってもそのゆるがない活動力に友人・弟子たちは驚かされるばかりで、きめ細かで常識あるユーモアは言うまでもなく、終生その学究生活は内容の濃いものであった。最後の著書「アイヌの所有印」は日本国際交流基金の後援で、1992年に出版され、最後に発表した論文は、1993年、神話や伝説に登場する様々なスサノオ像に関するものであった。

亡くなる年の初め迄、スラヴィク先生は、主としてその晩年に手掛けていたテーマに関し、定期的に手紙や電話で、専門資料・情報の入手依頼に余念がなかった。古事記や日本書紀に現れる神話や卑弥呼という人物についての疑問、また民俗学的手段で調査しうる限りの弥生文化の特性などがそれであった。

研究分野を扱う手段となると、先生の日本研究への関心は、後半かつユニークなものであった。学究生活に入る迄の、そして日本学で中心的存在となる迄の過程はそう単純ではなかった。と言うのは、大学法科の勉学は思い通りにはいかなかった上に、1920年代のかなり困難な経済事情もあり、必要な学費を確保するためにもその青春時代にジーメンスの子会社で働く道を選んだのであった。

しかし、先生の極東への関心は早くから目覚めていた。初めて日本語に触れた時のことをよく学生たちに語ったものだが、それはオーストリア・ハンガリー軍隊の将校あった先生の父君が、第一次世界大戦中ロシアの戦場や日本同盟国の戦場せ拾い集めた日本の銃弾ケースのラベル出会った。日本との平和的出合いは、1921/22年の冬学期から1923年夏学期、ウィーン大学に留学していたか歌人斎藤茂吉との出会いであった。この友情は二人にとって非常に重要な意味を持つものとなる。茂吉は年上であったが、留学生としての孤独を癒すのにカフェーでくつろいで語り合える気の合った友人を必要としていたし、スラヴィクにとっても彼との語らいは研究心を起こさせる日本文化の生情報だったのである。

思えば、若葉の初夏と紅葉が始まる秋と、年に二回、先生はわれわれ学生を連れて遠足をした(私が初めてこれに参加したのは、大学に入って三年目のことであった)。その行く先としては、ウィーンの南部の、いわゆるウィーンの森にある選ばれることが多かった。そのあたりは岩場や松林が続いていて、ハンガリー平野からの暖かい太陽の息吹きが感じられるのだった。青い空の下、芝生に腰をおろして、持参の弁当を食べながら遠方を見渡す時、先生は決まって斎藤茂吉の話をしたものであった。ウィーン留学時代の茂吉も、よくこのあたり、メートリングやバート・フェスラウに来たそうだ。そして、日本の年月を経た松の並ぶ風景はここにそっくり、いやこれ以上に美しいと話してくれた。

夕方になると、麓の居酒屋で、ワインのグラスを傾けながら先生の思い出話の続きを聞いたものである。今にして思えば、先生がいつ、どういういきさつで茂吉と出会ったのか、その詳細を聞きのがてしまった。茂吉がウィーンへ来たのは、1922年の始めであったと思う。その秋に二人は知り合ったと思う。スラヴィク先生が丁寧に保存していた、同年10月18日付の書簡によれば、ウィーンで日本にこれほど興味を持つ人に出会ったことに驚いたとともに喜んだと茂吉が綴っているからである(「・・・・貴君は西洋の方にして、かくも好く漢文字を使われ、且つ、日本の候文(書簡体)をかくも好くお認めになられ候ことにつき、小生実に驚嘆仕り候次第に御座候。・・・」)。スラヴィクと茂吉は、住まいが目と鼻の先という所であったから同じカフェーにいったであろう。人と知り合うに最高の場所はウィーンでは常にカフェーであった。コーヒー一杯で何時間もねばることができたからである。

スラヴィク先生はとても謙虚な方だった。が、話が茂吉のことに及ぶと、1922年11月26日、茂吉が先生の芳名帳に三首の和歌をしたためたことを、自慢気に吹聴したものである。第一首は「言さへぐウィーンのちまたにあはれあはれ日本語はなす君居たりけり」というものであった。その頃茂吉は特別感傷的になっていた。11月ともなれば、ウィーンでは落葉した木々と灰色で寒々とした日にばかりになるが、その中で彼は、恩師オーバーシュタイナー教授の突然の氏を体験せねばならなかった。その数日後、茂吉は「アレキサンデル君」神経学研究所に来てくれないかと便りをしている。

「どうぞ、月曜(Montag)の午前十時ごろ(10uhr Vormitag)に神経学教室(Neurologisshes Institut)に御いでください。歌を三つ書きました。けれども皆よくありません。ただ記念に書きました。」・・・・・・

他にも先生が茂吉から送られた絵はがきがある。1923年元旦、雪積もるカーレンベルク丘を一人で散歩し、冷え切った部屋に帰宅した茂吉は、若きスラヴィクに伊勢物語の読解を手伝う申し出をしている。 同年の10月24日の便りでは、関東大震災に対する先生のお見舞いに感謝の返事を出している。(「地震のお見舞いをいただき有難うございました。御かげさまで、私の家内皆々が無事でしたから、どうぞご安心下さい。・・・・・」)

茂吉は1923年7月にミュンヘンへと引越しており、この葉書を書いたのはミュンヘンからであった。よく知られるウィーン大学前に並んだ二人の写真は、こねはこの7月の別れの記念写真であったに違いない。年上の歌人と若い学生の二人が、夢と現実について大学付近のカフェーで長く語り合って、記念写真をということになったのであろう。

翌年末、日本に帰国した。そこで彼を待ち受けていたものは難しい現実であった。病院が全焼したことを知らされたからである。一方、スラヴィクは研究を続けていた。しかし、ウィーン大学には中国研究又は日本研究用の独立した科がなく、試験をする資格のある教授もいなかった為、スラヴィクとしては民族学科に移らざるを得なかった。その科で幸いにも、極東への関心は捨てずにすんだ。岡正雄という日本人が、ウィーンで日本文化の起源に関する博士論文を執筆中で、これと深く関わることになったからである。そして、スラヴィク自身は、1936年、当時は日本の一部であった朝鮮前史に関する研究で博士号を取得したのであった。

先生の研究範囲は極めて幅広い。先生の論文テーマの領域をここに記してみると。アイヌ語の地名調査(先生はアイヌ文化については真のエキスパートであった)から地方の伝説・風習・郷土信仰・九州の重要区域であった阿蘇地方の生活や歴史、出雲の歴史まで、或いは弥生文化部落からアウグスト・ブフィッツマイアーの翻訳評価まである。先生は言語と文学のみに重点を置いた、古典的日本学を離れた方法をとっていたが、どれも全く明解なものばかりである。東京・未来社より1984年発行(「日本文化の古層」J・クライナー・住谷一彦共訳)の論文集の抜粋和訳が出ている。

ウィーン大学に日本文学研究所ができたのは、茂吉がウィーンに留学してきた年齢にスラヴィクが近くなった頃であった。それは三井高陽男爵が出資し、5年間の経済的援助によってで、初代所長として岡正雄が就任した。第二次世界大戦は、先生の生涯に複雑に介入してきた。1937年、北京の輔仁大学へ教授として招聘を受けていたのが日本と中国が戦争に突入したことによって無効となった。「独墺併合」、そしてヨーロッパにおける戦争勃発の後、岡教授のもとで講師兼助手であったスラヴィクは、ドイツ軍に招集され、日本語知識を買われてベルリンの諜報部へと配属されたのであった。当時彼の階級は軍曹以上ではなかったにも拘わらず、このことは戦後独立を取り戻したオーストリアへの帰還後も、いろいろと複雑な状況に巻き込まれることとなった。政治隔離とでも言うのか、何年間か大学の旧ポジションで働くことを許可されなかった。結果的にこれは解除されて、先生は、再び民族学研究所の日本学科をまかされることとなった。

戦争捕虜としてすごしたアメリカ軍の収容所からウィーンに帰還した時、日本学研究所は解散、彼自身も解雇されていたが研究活動が全く途絶えたわけではなかった。何年か大学の無縁の生活の生活を送った後、再び民族学研究所に迎えられた。しかし、すべてはじめからやり直さねばならなかった。不運だったのは、完成間近であった出雲風土記に関する教授資格取得論文が、爆撃の為ベルリンで灰と化してしまったこである。教授の資格を確保する為には、また新しい論文を作成しなければならなくなった(「アイヌの文化史について」ウィーン1953年)。ベルリンの瓦礫の中から先生が探し出した、その論文の焼け焦げたページを見たことがある。先生流の皮肉で見せてくれた思いでの品であった。彼の生涯を辿ってみれば、時代の故に1957年、57才近くになって初めて日本訪問が実現したことを理解できるであろう。ユネスコがこの旅費を出したのであったが、当時はまだ船旅、昔茂吉が通ったと同じスエズ、印度航路であった。ようやく実地調査の機会に恵まれたわけである。

1964年には教授の地位を授けられ、長く絶ゆまぬ努力も実って、ウィーン大学に独立した日本学研究所の誕生となるわけであるが、これは同大学創立600周年の1965年のことであった。先生の退官は1971年であるが、それは研究所の事務手続きのみのことで、日本研究の方は勿論続行され、それも以前にも増して熱心になられたようであった。先生の業績や功績も広く認められ、ヨーロッパ日本研究協会名誉会員に指名されたり、日本政府よりは1966年、19887年(瑞宝章)の叙勲があったが、彼のような学者にとって最も相応しく喜ばしく思われるのは、1989年の日本国際交流基金大賞受賞であろう。

スラヴィク先生が初めて日本の土を踏んだ昭和32年、茂吉は既にその4年前に亡くなっていた。戦争や困難な時代が二人の連絡を途切れさせてしまったのだった。しかし、歌人として、医者として、日本文学の美しさを教えてくれた最初の師への思い出は常にスラヴィクの胸の中に生きていた。その後、先生は茂吉の長男、斎藤茂太氏と書簡を交わすようになった。茂吉のウィーン留学時代、茂太はまだ子どもであった。1982年夏、茂吉生誕百年記念ツアーの引率で出掛けた旅好きな茂吉の妻輝子婦人と茂太先生とスラヴィク教授との出会いがウィーンであった。その際先生から未亡人へ、貴重な贈物が渡された。ウィーンの友へと献呈文を添えて贈られた茂吉の歌集『赤光』が、再び故郷、スラヴィク先生がこよなく愛した日本、遠足に行って自然の美しさに触れると、日本への深い思いを語られたその国へと、歌集は里帰りしたのである。(ボン大学日本文化研究所教授)※国文学研究資料館客員教授として来日中

附アレクサンダー・スラヴィクのお墓は、ウィーン中央墓地33A−6−30にあって、シュ−ベルト、シュトラウスの墓の斜向かいになる。墓石に住谷一彦が日本語で記した「日本を愛し、日本研究に凡てを捧げた」の墓碑銘もある。

著者略歴

Prof.Peter Pantzer

1942年(昭和17年)オーストリアのザルツブルクに生まれる。兵役(士官学校→空軍少尉)後ウィーン大学哲学部に入学し、近代史を専攻、68年7月博士号を取得する。同年10月留学のため来日、東京大学法学部外交史科に文部省留学生として2年半滞在する。帰国後、ウィーン大学日本学研究所助教授を経てボン大学日本文化研究所に入り、後年教授となる。88年から96年までは同研究所の所長を務めた。98年7月、国文学研究資料館客員教授として来日(来年3月まで滞在)。主要研究・著作には『日本オーストリア関係史』『ウィーンの日本』他がある。

茂吉の留学(その経緯と足跡)

1917年(大正6年)より約3年間、長崎医学専門学校に赴任していた斎藤茂吉は、40歳になろうとしていた。文学の面では歌集刊行と歌論発表などで名声を高めていたが、医学に関してそれまで主だった業績は残していなかった。その年齢と体力などから、医学研究に打ち込める最後の時期と考えた茂吉は、当時順番待ちの官費の恩恵を受けず、文部省在外研究員としてではあったが、自費留学した。21年10月、欧州留学の途につく。翌22年1月、オーストリアのウイーン大学神経学研究所に入り、「麻痺性痴呆者の脳図」と題した実験的論文{学位論文}(後に東京帝国大学医科大学から医学博士の学位を受ける)をはじめ、1年半の間に四つの論文をまとめる。さらに23年7月には、ミュンヘン大学ドイツ精神病学研究所に転学、病理学的研究論文を完成させた。また、研究の合間などに欧州各地を巡り、自然と異文化にも積極的に触れ、それらは、二つの歌集と渡欧随筆に残されている。約3年の留学生活を終えた茂吉は、24年(大正13年)11月帰国の途につく。途中、船上で青山脳病院全焼を知る。翌年1月帰国、病院再建の苦闘など多難な時期をこれから迎える。

 


スラヴィク先生


斎藤 茂太


 P・パンツー 教授が恩師スラヴィク先生と茂吉とのかかわりについて書いて下さった。うれしききわみである。教授は我が家にも何回か来て下さり、またウィーンでもご家族ともども食事をともにしたこともある。夫人のみどりさんは坪内逍遥の曾孫にあたる。

スラヴィク先生に初めてお目にかかったのは昭和40年(1965)、日本政府から勳三等瑞宝章を贈られたとき銀座「浜作」での会食に同席させていただいた夜である。岩波雄二郎、河野与一夫妻、東大の松田、立大の住谷先生がいらっしゃった。1977年ウィーンで私が先生とお会いしたときに茂吉が先生に送った六通の手紙お返しいただいた。

茂吉は1922年12月末にウィーンから汽車で八時間ほどのオーストリア、アルプスのゲゾイゼ渓谷に小旅行をしている。随筆「探卵患」にこの旅のことを書いている。

――― 目の前に峨々たる岩山のそびえる山間の小駅グスタッテルボーデンに下車し、小さな旅舎に部屋を決めたあと深い雪を踏んで林間を逍遥し、夕食に鹿の肉と団子の料理を食べた。翌日はおよそ七キロの雪道を歩いてヨーンスバッハという村に行った。途中木こりが「今日は」と挨拶した。村のレストランでは熱い肉汁で身体を暖めた。―――

のちに私も茂吉と同じ駅で下り、同じ宿に泊まり、同じ鹿肉と団子を食べた。私はその「ゲゾイゼ紀行」をある雑誌に書き。それをスラヴィク先生に送った。1982年に先生はそのことを「ダー・シャウ・ヘア」という郷土史に書き、それを私に下さった。

昭和57年(1982)茂吉生誕百年ツアーで、パンツーさんも書いておられるスラヴィク先生と一行の対面のあと、私はゲゾイゼ渓谷探訪を旅程の中にとり入れた。先生は郷土史編集長のルンペ氏にそのことを伝え、ルンペ氏がヨーンスバッハ村に連絡したので村は大騒ぎになり、我々の歓迎会を開いてくれるという連絡が入った。。

スラヴィク先生との対面の二日後に我々一行はゲゾイゼ渓谷に向い、グスタッテルボーデンを経てヨーンスバッハ村に着いた。

とたんに16人ほどの民族服をまとったブラスバンドから楽の音がわき上がった。前列中央でトランペットを吹いている中年の男性が村長さんだった。村唯一のガストハウス(ハタゴ)に招じ入れられると、また民族服の女性のコーラスとチターを含む室内楽に歓迎された。バイオリン奏者は村長夫人だった。

歓迎会場には大勢の村人が集まっていた。そして出された料理が、茂吉が六十年前に食べたのと同じ鹿肉と団子だった。キルシュ(リンゴのスピリット)とワインに大いに酔って、なごやかな村人との交歓がつづいた。ラジオ局も取材に来て、私は下手なドイツ語で挨拶をした。空は青くすみ、三千メートル近い「ホッホトール」の岩の高峯がのしかかるように我々を見下ろしていた。

我々はスラヴィク先生の静養地にほど近いアドモンドを通り、ザルツブルグ経由、茂吉第二の留学地ミュンヘン目指して山を下った。

ウィーンの先生との対談の終わりにパンツアーさんも書いておられるように「赤光」を母の手にお返し下さった。大正八年十一月十日東雲堂発行第五版、定価壱円弐拾銭。見開きにペンで「謹呈アレキサンデル君。一九二三・二・四維也納斎藤茂吉」とあり、次のページに貼られた白紙にマジックペンの横書きで「今日、五九年前に作者に贈られた「赤光」を茂吉大家の貴家族に返し上げます。ウィーンに於いて。昭和五七年八月二四日。アレクサンダー・スラヴィク」と書いてあり、名前のところに「栖羅伊久」という印がおしてあった。

私はその後機会がなく、パンツアーさんがお知らせ下さった中央墓地のスラヴィク先生のお墓におまいりしていない。残念である。

(「財」斎藤茂吉記念館理事・精神科医・医学博士・エッセイスト)


館長随想@

人とのつながり

  本林勝夫  

去年、スラヴィク先生が亡くなられてまもなくのことだったろうか。飯塚くにさんの回想起『父 逍遥の背中』を文庫本で読んでいたら付載の河竹登志夫氏の文章(「逍遥とくにさんと河竹家」)にこんな一節があっておどろいた。

くにさんの孫に当たるみどりさんの御主人は、現ボン大学日本文学研究所の主任教授ペーター・パンツアー博士だが、ザルツブルグ生まれの博士とは、私が昭和四十九年(1974)最初のウィーン大学客員教授赴任以来の仲。黙阿彌物よろしく、御縁は今でも続いているのだ。

河竹さんとは旧知の仲だが、ことが茂吉と関係がないせいもあって、こういうことは少しも話題になったことがない。坪内逍遥には子がなく、くにさんにが養女として迎えられたこと、その実父がかって「今紀文」として数奇な一生を送った鹿島清兵衛であり、母が名妓として有名な「ぽん太」ことゑ津衰運の後も献身の生涯を過ごしたこと、くにさんが演劇学者として有名な飯塚友一郎氏に嫁したことは本書ではっきり知ったが、その孫娘がパンツアー博士夫人だとは、まったく知らなかったのである。だから私は本書を読み、茂吉の作品にかかわる細い一筋の糸のようなものを見出して、しばらく感慨にふけったのだった。

いったい茂吉の歌や文章に親しむもので「ぽん太」の名を知らない人はあるまい。上京当時の少年茂吉がこの人のブロマイドを見て「世には実に美しい女もゐれば居るものだ」と思い、後にその回想随筆「三筋町界隈」を『不断経』に収める際にその写真一葉を中扉に入れており、鹿島夫妻をモデルにした森鴎外の「百物語」を読んだ感想も早く『童馬漫語』に収めている。また歌集『あらたま』にも かなしかる初代ぽん太も古妻の 舞ふゆく春のよるのともしび と、めずらしく情緒的な一首を残しているのである。なお「三筋町界隈」には昭和十一年の秋の彼岸に多摩墓地に行き、苦心して鹿島ゑ津の墓を探しあてる記事もある。そして言う。誰か小説の大家が晩年の彼女を描いてくれたら「必ず光かがやくところのある女性になるだろうと私は今でもおもってゐる」と。

思うに、茂吉にとって鹿島ゑ津は少年のころその美貌に感嘆しただけの存在ではなかった。舞踏の名手だけでもなかった。おそらくそれらを超えたなにものかであったに違いない。そのゑ津さんのひこ孫になるみどりさんがペーター・パンツアー博士の夫人であり、博士がこのたび茂吉とかかわりのあった師アレクサンダー・スラヴィク博士追悼の文章を寄せられたことに私は改めて深い感慨を覚える。茂吉が初めて故人を知ったとき、スラヴィクさんはまだ学生寮に住む二十代の若さであった。


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以上詳細は後日更新の際までお楽しみに。

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