2003/9
ヤマイヌ
「陰陽道の狼」
国史の狼 狼出現は、吉か凶か
「国史」といえば国のもっとも重要な記録であるはずなのに、なぜ「狼が人を噛み殺した」などという些細な事件が載せられているのでしょう。もし「古代、狼が神として崇められていた」というのがその理由だったなら、狼の存在価値もかなりものです。
しかし、話はまったく逆で、そのような事件が「不吉」だったからというに過ぎません。
狼が人を殺した場合ばかりでなく「人の死」は常に「穢れ」と見なされ、犬のお産も「穢れ」、犬や狼の死も下記のように「穢れ」とされています。
長元七年十月八日甲午。内裏有犬死穢・・・(P.247)「日本紀略後篇十四」
また「寳龜五(774)年、乙訓社に狼や鹿が多い」という「續日本紀」の記録の続きには、「この犲狼の怪のため幣を乙訓社に奉(たてまつ)った」とあり、狼が多く現れたことだけでも「怪」とみなされ、神社に幣を奉ります。
つまり、国史に表れた狼事件は「物忌み」「穢れ」「怪」に関するものばかりであり、そのために予定されていた行事が延期されたり、穢れを祓う儀式が行われたりします。
国史の「狼」は、常に「凶」です。
また一方で、「国史」の記事として地方から朱い鳥や白い雉が献上された話があるのは、それらの動物が「瑞兆」であったからで、それによって元号を改めることが流行った時代もありました。どんな動物を瑞兆とするかはあらかじめ定められていて、平安時代の「延喜式」には瑞兆として「白狼」が記載されています。むかし白い狼がほんとうに現れていたなら「白狼二年」などという年号が残ったかもしれません。日本にも「天長三年十二月十九日、白狼入朝」の記録があるという平岩氏のような人もいますが、それはその日に中国での「白狼入朝」の話を語ったというに過ぎません。
このように、狼が人を殺したことや白い狼の出現は、「凶兆」「吉兆」として重要なものと昔は考えられていたのですが、それらの判断の基準は中国の「陰陽五行説」に由来する陰陽道にこそ、その根源があります。
中国の道教につながる陰陽道は、日本の文化・風俗にすっかり混じり合い、陰陽道に関わる言葉や儀式は、日本独自の民俗のように人々になじんでいます。「干支(十二支・十干)」「鬼門」「地鎮祭」「四柱推命」「相性」などは、陰陽道をその源としたものです。ちなみに、十二支で「戌(じゅつ)」はイヌ(犬)を表し、「戌(いぬ)の刻」は午後8時、「戌の方位」は西北西の方向を、「戌の月」はふつう九月ですが「周暦」では十一月になります。また、道教は仏教にも取り込まれていますので、陰陽道で行う儀式は同じように仏教・密教・修験道でも行なわれ、しかも双方でお互いの儀式を部分的に取り込んでいて、どちらが本家かまったくわかりません。
陰陽道と修験道の関係〜「妙見菩薩と虚空蔵菩薩」
陰陽道
日本の律令制度は唐のものを真似たものですから、「陰陽博士」「暦博士」「天文博士」「漏刻博士」「呪禁博士」といった唐にあるのと同じ官職は日本でも作られました。「陰陽博士」は陰陽道による卜占を司り、漏刻は時刻のことで、「呪禁博士」は陰陽道に基づいて病気を治す治療術を司ります。ただし、唐では天文・漏刻に重点がおかれていたのに対して、それらの大規模な施設や高度な技術を欠いていた日本では、いきおい卜占に重点を置かざるを得ませんでした。
律令政府は、卜占に力をいれ迷信主導型の風潮を馴致したといわれる所以であろう。
(P.40)
「日本陰陽道史総説」村山修一著(塙書房1981)
これは、現代の日本の政治や学問にもつながる欠陥です。
最澄が天台宗の経典を中国から日本へもたらした時、一緒に持ち帰った雑密と言われる呪術に関する経典の方が喜んで迎えられたのは、そのような風潮がすでに根強かったからで、日本の歴史は初めから神仙思想や呪術といったものに囚われていたと言えます。空海が雨乞いを行えば、必ず雨が降ったというのは、空海が「宿曜経」という天文や暦に対する深い知識をもっていたことが大きいのでしょうが、日本では術者の能力とされたのです。
陰陽道はいつも仏教(僧)と関連しています。例えば、藤原京の遷都に関して「鎮祭」を行ったと記されている「法蔵、道基」は僧なのですが、この二人は陰陽博士の名でも知られます。平安初期から「法師陰陽師」とか「陰陽法師」などと呼ばれる、僧でありながら陰陽道の活動をする存在があったことでもわかるように、僧が陰陽道の儀式を行うのは普通だったのです。中世の後期になって唱門師をはじめとする民間陰陽師が現れたときにも、その姿は僧形あるいは山伏姿というのが一般的でしたから、同じように占いをする山伏たちと、外見で区別することすら難しかったのです。
同じような風体をした里山伏と民間陰陽師は、その業務内容もその方法もとくに区別ができず、「法印」「太夫」「行者」などと称し、その妻女も同じように「巫女」として「口寄せ」を行っていました。現代の占い師も里修験や民間陰陽師の流れ汲むもので、江戸時代などにおける状況も現在の占い業界とまったく同じです。占い師の根本の教義やその方法など誰も関心がありません。教義などは陰陽五行でも西洋占星術でも何でもよくて、「当たる」とか効験ありということだけが重要なのです。
晴明と式神 十二神将
「オイヌを派遣する」という狼神社の思想は、仏教や修験道の「護法」に由来すると思われますが、この「護法」とよく似たものは陰陽道にもあって「式神」と呼ばれます。この「式神」を使う者としてもっとも有名なのは安倍晴明で、鮮やかに「式神」を使いこなす清明の姿は「宇治拾遺物語」や「今昔物語集」などに描かれていて、陰陽師と言えば安倍晴明が第一です。ちなみに安倍清明は天文博士ですから、陰陽寮に属する官僚です。
下記は『今昔物語集』の「識神(式神)使い」です。
今昔、天文博士安倍清明ト云陰陽師有ケリ。・・・家ノ人無キ時識神ヲ仕ケルニヤ有ケム、人モ無キニ、蔀(しとみ)上ゲ下ス事ナム有ケル。亦、門モ差ス人モ無カリケルニ、被差ナムドナム有ケル。(PP.411-414)巻第二十四「安倍清明、随忠行習道語第十六」
『今昔物語集四』新日本古典文学大系36(岩波書店1994)
清明は式神を使って家事をやらせていた、と書かれています。「今昔物語集」には、陰陽師が登場して術を披露する話はいくつもあり、識神(式神)は童子の姿を借りて現れたりします。 もともと陰陽道には「撫物」(形代、贖物)と呼ばれるものがあって、これは人の穢れを取り除くため、紙の人形などで身体を撫でまわして穢れを移してから川などに流すものですが、この形代である人形が「式神」の基本になったようです。
このような人形で穢れや厄を祓う儀式は「追儺式」と呼ばれ、いわゆる節分の豆撒きの時に行われていますが、これも陰陽道と仏教が典型的に習合したものです。「宇治拾遺物語」の藤原道長と安倍晴明の話では、道長は飼犬が吠えるので不思議に思い、清明に尋ねると、呪いをかけた素焼きのつぼが道に埋められているのを発見します。そして、紙が式神の白鷺になります。
「清明がほかには、知りたる者候はず。もし、道摩法師や仕たるらん、糾して見候はん」とて、懐より紙を取出して、鳥の姿に引結びて、呪を誦じかけて、空へ投げ上げたれば、忽ち白鷺に成て、南をさして飛行せり。(PP.364-366)「宇治拾遺物語184」
「宇治拾遺物語、古本説話集」新日本古典文学大系42(岩波書店1990)
「宇治拾遺物語26」でも、清明は、少将の頭上を飛ぶ烏を「式神にこそ有けれ」と見破ります。このように式神は、童子形のほか鳥獣の姿をとることも多いのです。
『源平盛衰記」には、安倍晴明が堀川一条戻橋に式神(職神)を隠しておいたという話がありますが、この式神は「十二神将」です。
一条戻橋といふは、昔、安倍晴明が天文の淵源を極めて、十二神将を仕ひけるが、その妻、職神(しきじん)の貌に畏れければ、かの十二神を橋の下に呪し置きて、用事の時は召仕ひけり。これにて吉凶の橋占を尋ね問へば、必ず職神、人の口に移りて善悪を示すと申す。(P.56)「源平盛衰記・巻第十」
安倍晴明が得意とした式神がこの「十二神将」で、中村璋八氏は「六壬大全」をひいて、安倍清明の十二神将を提示しています。四つの方位を守る獣神、玄武、青竜、朱雀、白虎の名以外、見慣れた名はありません。
天一、騰蛇、朱雀、六合、勾陣、青竜、天后、太陰、玄武、太掌、白虎、天空
(下・P.138、139)
「五行大義(上・下)」中村璋八・古藤友子・清水浩子共著(明治書院1999)
「十二神将」は諸説が多く一概には言えません。「子丑寅・・」の十二支とも習合していますし、薬師如来の眷属、薬師十二神将とも習合しました。
晴明の「式神」は、吉凶の占いを人の口を借りて告げるだけでなく、実際は人を殺すことさえでき、「今昔物語集」の清明は人々の要請にこたえて蝦蟇を殺してみせています。
「犬神と戌神」に薬師如来の十二神将あり
式神の狼 狼使い
「三十六禽」に属する禽獣たちを「式神」として使うという思想は、かなり古い時代から見られ、平安時代に書かれた「新猿楽記」に三十六禽を使う賀茂道世という陰陽術師が登場しています。
十二神将ヲ進退シ、卅六禽ヲ前後ニス。式神ヲ仕ヒ、符治(符法イ)ヲ造ル。
(訳・十二神将を自在に駆使し、三十六禽を自分の前後につき従えさせる。式神という媒体を使役し、秘符という魔術的な護符を造る。)(P.133、134)
『新猿楽記』藤原明衡著(東洋文庫・平凡社1983)
賀茂道世は、十二神将と三十六禽の両方を式神として使い、護符も配っていました。
一条戻橋の清明の式神について書いていた「源平盛衰記」に、陰陽頭(おんみょうのかみ)安倍泰親という者が現れていますが、彼が従えるものも「三十六禽」です。
泰親は清明六代の跡を伝へて、天文の淵源を尽し、占文(せんもん)の秘枢を極めたり。推条は掌をさすが如く、卜筮は眼に見る似たり。一事も違ふ事なければ、異名には指神子(さすのみこ)とぞ言ひける。されば雷落ち懸たりけれども、少しも恙(つつが)なかりけり。十二神将(じゅうにじんじょう)をも進退し、三十六禽をも相従けり。
(P.159)
「源平盛衰記・巻第十ニ」『新定源平盛衰記第二巻』(新人物往来社1988)
この安倍泰親は、巻十において后が産む予定の子供が男子であろうと占い、ずばり当てたと書かれています。どちらにしても五割の確率です。
「三十六禽」はもともと占いに使われていたのですが、それが「式神」として使役されるようになったときには、すでに「護法」の三十六童子の概念とも習合しているのかもしれません。さらに、近世においては「護法」と「式神」の判別はもはや不可能で、江戸時代に「狼(おいぬ)」を使って憑きもの落としをした者には、修験者だけでなく種々の形態をした民間陰陽師も数多く含まれていたと思われますが、「狼(おいぬ)」は「護法」なのか「式神」なのか、おそらく本人たちでさえ分かっていなかったでしょう。
ともあれ「狼」が術者によって使役されるという形は、「三十六禽」を式神として使う陰陽道においてこそ早い時期に見られますから、「狼使い」の先がけは陰陽道だったと言えます。
三十六禽の禽獣に、はっきり特定できる「神使」も存在します。山城・愛宕山の神使は「鳶」が有名ですが、「野猪(いのしし)」も神使で、これは三十六禽の猪です。
世人以野猪為當山之仕者何耶 答曰三十六禽配十二支則亥接三獣所謂冢揄猪也云云
(P.20、21)
「愛宕山神道縁起」「社寺縁起の研究」(勉誠社1998)
「愛宕山神道縁起」は猪の由来を三十六禽にして、三十六禽の出処について2ページにわたって詳しく書き込んでいます。ただし、その内容は「寂照堂谷響集」の「三十六禽」とほとんど同じものです。
「吉田神道」でも「三十六禽」を扱っています。こちらは「拾芥抄」の「三十六禽」によく似た内容です。
三十六禽・・犲狼狗・・右神書云、斬軻遇突智、血成霧達天漢、化為三百六十五変七百八十三磐、是謂星変之精、其精気分化シテ一禽々々ノ精神トナル、則是星ノ化顕也(P.553)
「本朝小祠の研究」
また修験道では、本山派の「採燈護摩」と当山派の「柴燈護摩」の違いを述べるにあたって、三十六禽を持ち出して説明することがあります。
本山派は天の二十八宿の修行をする故、護摩の火を天火から採るから採燈、当山派は地の三十六禽の修行をし、柴をとって火を焚くゆえ、柴燈の字を用いる・・(P.122)
「修験道思想の研究」
大峰山系の修験道の霊地「三重の滝」には、「地の三十六禽」の祠が置かれていたようですし、「修験名称原義」には「三井ニハ二十八宿ニ表シテ二十八人ヲ置クテ。・・・小野ニハ三十六禽ニ表シテ三十六人ヲ置ク。」(P.382「修験名称原義」『日本大蔵経』講談社1975)と書かれ、大峰入峰の「先達」の数にも関わっています。ここで言う「三井」は三井寺で本山派修験、「小野」は真言宗小野派のことで、当山派修験を指します。
そのほかに、「狼」と陰陽道との関係では、「五牲」と呼ばれる5種類の生贄(いけにえ)の動物のなかに、鹿、兎などとともに「狼」が挙げられる場合があります。この生贄の動物の種類は諸説があり、狼が含まれない場合もありますが、宮廷の陰陽儀式を司った土御門(安倍)家に伝わる「陰陽道旧記抄」(P.161)では、五つのうちのひとつは「狼」とされ、「拾芥抄」(P.495)の「五牲」でも、そのまま同じ動物が挙げられています。これは宮廷の行事において、狼が生贄とされた可能性を示唆しています。
「陰陽道旧記抄」(P.161)「陰陽道関係史料」(汲古書院2001)
三十六禽 狼の時間ですよー
安倍晴明とともに有名な陰陽師に、法師陰陽師の芦屋道萬がいます。「宇治拾遺物語184」にも登場している「道摩法師」がそのひとで、法師陰陽師というくらいですからもともとは僧なのでしょうが、詳しくはわかりません。道満が使った「式神」が「三十六禽」と言われる36種類の禽獣で、この中に「狼」と「豺」がいます。
江戸時代初期、臨済宗の僧が著した「寂照堂谷響集」第7巻に「三十六禽」の詳しい説明があり、「外書」「内典」にまで書き及んでいます。「三十六禽」はまず時刻に関わるものとして取りあげられ、一昼夜を12に分け、それぞれに三種の禽獣が属しますので、計36になります。
「三十六禽」一晝夜十二辰之神 一辰各有三 成三十六・・・天台止観 開明三十六 此有二類 實類惱行者 權類u衆生 密教中 列於曼荼羅・・・戌有三、狗・狼・豺・・・
(PP.128-130) 「大日本佛教全書(寂照堂谷響集・空華談叢)」(佛書刊行會・大正元年)
戌の時刻には、狗、狼、豺の三種の禽獣があるとされます。「戌(いぬ)の刻」は午後八時を指しますが、前後1時間ずつの午後7時から9時までの2時間に、「狗、狼、豺」が入ります。夕食を食べてくつろいでいる時間が、狗たちの時間です。
「天台止観」の見方では「三十六禽」そのものに二種類あり、悪の本性をもつ鬼神は「実類」で、修行僧を悩ますものとされます。反対に「権類」は、仏が利益を施すため権(か)りに天部の姿をとったもので、衆生に利益を施すとされ、密教の曼荼羅にも描かれます。もともとインドの鬼であった護法たちはまさしくこれです。
「外書三十六禽」瑯邪代酔伝 用脩云 古者術数又有三十六禽 蓋毎辰而三・・・戌則狗 狼 豺・・・(PP.128-130)「寂照堂谷響集第七」
「大日本佛教全書(寂照堂谷響集・空華談叢)」(佛書刊行會・大正元年)
中国の古書「瑯邪代酔(ろうやたいすい)」や「用脩」でも、すでに「戌」には「狗、狼・豺」が配されていたようで、当然ながら三十六禽は中国生まれの思想ということになります。たしかに、36種類の動物のなかには日本でなじみのないものもいます。
「内典三十六禽」止観云 二明魔發相者 通是管屬皆稱爲魔 細尋枝異不出三種 一者追タ鬼 二者時媚鬼 三魔羅鬼 三種發相各各不同・・・ 大集二十四云・・西方海中有白銀山 高二十四旬 中有猴鶏犬  (PP.128-130)「寂照堂谷響集第七」
「大日本佛教全書(寂照堂谷響集・空華談叢)」(佛書刊行會・大正元年)
ふたたび「止観」からの引用で、「追タ鬼」の「追」の字にはリッシン篇がついています。追タ鬼、時媚鬼、魔羅鬼という鬼は、行を邪魔すると書いてあります。
「天台小止観」でその内容を確認してみると、魔羅鬼はおなじですが、「追タ鬼、時媚鬼」は「堆タ鬼、精魅鬼」となっています。このうち、三十六禽に関係するのは「精魅鬼」で、「小止観」では次のように言っています。
一に精魅とは、十二時の獣が変化して種類の形色をあらわすものをいう。あるいは愛すべき少年や少女の姿、尊敬すべき老人や先輩の姿、畏るべき身相をあらわしたりするなど、種類であって一様ではないが、もって行者を悩まし惑わす。この種類の精魅は、われわれを悩まそうとするときにはおのおのその時刻に当って現れて来るという、・・・もし戌のときに来るのは、狗・狼である。・・・いつもこの時刻に来るものは、これその獣の精魅であると知り、その名を呼んでこれを呵責するがよい。すなわちまさに滅し去るであろう。(P.101、102)「天台小止観」関口真大訳(大東出版社1978)
狗、狼、豺は、戌の刻に現れると言われる一方、鎌倉時代の「拾芥抄」は、狗(イヌ)は朝、狼(ヲヲカメ)は昼、犲(ヲホカミ)は夕方、という出現の仕方をすると説いています。こちらの説のほうが一般的なのかもしれません。また、それぞれの時刻に現れるのは、つねに3種というわけでもなく、2種だったり5種だったりで、そのうえ、三十六禽にあたる動物は、それぞれの本で少しばかり異なり、すべてがまったく同じというわけでもありません。
「西の海に白銀山あり、高さ二十四旬、猴・鶏・犬が住む」という「大集経」の引用を見るまでも無く、十二支は方位も示していています。また、天を12等分したものを「12次」と言い、二十八宿のそれぞれの星を当て嵌めることがあります。戌の方位(西北西)には、婁星(ろう、タタラボシ)と奎星(けい、トカキボシ)のふたつが配置されて、「和漢三才図会」では奎星が「狼」にあたると書かれています。安倍清明が著したとも言われる『金烏玉兎集』にも同じ内容がありますので、十二支の「戌」とともに転載します。
「十二支之事」
[戌]者犬也。土姓。本地大聖不動明王伐折羅大将。此日出仕。對面。嫁娶。結婚。諸役奉行人。定役公事等大吉。但餘凶。(P.385)
「二十八宿姓之事」
奎木 犲狼(サイラウ、ヲヲカミ)過去〇現在肝心脾肺腎〇未来観世音菩薩 因業宿
婁火 狗(ク、イヌ)現在肝心脾肺腎薬王菩薩 田業宿(P.411)
「金烏玉兎集」『続群書類従・第三十一輯上』(続群書類従完成会1984)
どちらも吉と凶に、つまり占いに関係しています。またその本地を不動明王とか観音菩薩とかにしていますので、密教の影響は隠しようもありません。
シーボルトの著書「日本」には、江戸時代の紀秀信が著した「仏像図彙」(1690年)から転載した「三十六禽形象」の絵図がありますが、これをシーボルトは占星術に関するものと見なしています。36の禽獣のうち「狗(イヌ)」「狼(オホカミ)」「豺(ヤマイヌ)」の絵図は下記のようになっていて、豺は角を一本持っています。
「占星術の周知の10の循環」と書いていますが「12」の誤りでしょう。
36の動物の像(三十六禽形象)
インドとヨーロッパの占星術の周知の10の循環の仏教における形態であり、中国の獣帯にもとづいてこのように分けられる。(P.49)「日本」別巻3
(P.282)「日本」別巻3シーボルト著(雄松堂書店1979)
五行大義 三十六禽と十二神将
隋の時代に著された「五行大義」は日本に持ち込まれたのも古く、すでに「続日本紀」の天平宝字元年十一月癸未(757年)にその名が見えます。その後、密教でもよく引用され、陰陽生の教科書ともなり、安倍家を始めとする陰陽家の拠りどころともなって、さらに江戸時代になると庶民までこの本を読んでいるほどで、日本の風習に大きな影響を及ぼしています。
「五行大義」に「三十六禽」があり、「狗」と「狼」と「豺」がいます。犬には、なにより守護するものという観念が強いようです。
禽獣の八卦に属するは、易に云ふ、・・・艮は門なり。狗は其の守禦するに取る。
(P.247)
禽蟲の類は、名数甚だ多し。・・・其れ十二の属を十二支に配す。支に三禽有り。故に三十有六禽なり。支に三有る所以は、一日を分ちて三時と為す。旦及び晝・暮なり。
(P.251)
戌の朝を狗と為し、晝を狼と為し、暮を犲と為す。 (P.254)
戌を狗・狼・豺と為すは、戌は黄昏為り。乾を天門と為す。戌は既に乾に属す。黄昏の時、以て警備するなり。京氏別対に曰ふ、狗は主の為に行きて、以て奸を防ぐなり、と。易に曰く、艮を狗と為す、と。艮は既に是れ門闕なり。狗は以て守り防ぐなり。家語に云ふ、七九六十三、三は斗を主る。斗は狗を主る。狗は三月にして生まれる、と。辰の衝は戌なり。寅戌合す。故に戌に在り。礼記月令に云ふ、九月の時、犲乃ち獣を祭る、と。候に因りて之を配す。狼の形相似る。説文に云ふ、犲は狼の属なり、と。故に並びに戌に居る。一に暮を死金と云ふは、金の戌に至りて衰敗するの故なり。禽変に暮を死火と為すと云ふは、戌は火の墓為るなり。(P.273、274)巻第五「五行大義(下)」
「狗」は朝、「狼」は昼、「犲」は夕方という出現の形をとるといい、また「戌」は黄昏の時に警護するとも言っています。「戌」に狗・狼・犲がいる理由として「礼記・月令」の「犲乃獣祭」を引用し、「狼の形相似」とか「説文」の「犲は狼の属」をあげています。
「五行大義」には「十二神将」もいますが、諸説があってさらに複雑です。下記は中村璋八氏が「玄女式経」と「月令広義」によって作成した表にならっています。
 1、神后 子 水神 婦女 十二月将 
 2、大吉 丑 土神 田農 十一月将
 3、功曹 寅 木神 遷邦 十月将
 4 太衝 卯 木神 対史 九月将
 5、天剛・・6、太一・・7、勝先・・8、小吉・・9、伝送・・10、従魁・・・
11、河魁 戌 土神 疫病 二月将
12、微明 亥 水神 辟召 正月将 (P,137)巻第五「五行大義(下)」
「戌」に相当するのは「二月将」で、「戌の主る河魁とは、河とは首(はじめ)に相当する。だから斗魁の最初のものということになる。(下・P.136)」とあります。「斗魁」とは、北斗七星の第一星から第四星までの四つの星を指すので、二月将(戌)は、北斗七星の柄杓の水を掬う部分の四つの星を掌っているということです。土神であり疫病の神です。
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「金烏玉兎集」
「金烏玉兎集」は「三国相伝陰陽管轄ホキ内伝金烏玉兎集」というのが正式名称で、安倍清明が著したされていますが、これについては否定的意見が多いようです。
「金烏玉兎集」はまず「牛頭天王」に関わる縁起から始まります。この縁起は「熊野権現縁起」などとよく似た構成で、その舞台となる場所もよく似た「中天竺マカダ国」やら「王舎城」などとなっています。とうぜんこれは釈迦の物語が基礎になっています。
中天竺摩訶陀国。霊鷲山艮。波尸那城西。吉祥天源王舎城大王。名号商貴帝。曾仕帝釈天居善現天。遊戯三界内蒙諸星探題。名号天刑星。依信敬志深。今下生娑婆世界。改号牛頭天王。頭戴黄午面。両角尖猶如夜叉。・・・(P.376)
「金烏玉兎集」『続群書類従・第三十一輯上』(続群書類従完成会1984)
この縁起に道案内をするような禽獣は現れていませんが、天帝の使者として翡翠の如き青色の「瑠璃鳥」が登場しています。またこの縁起のなかで牛頭天王が関わった者たちは、陰陽道でよく知られた神々にすべて比定されています。
「天道神」は牛頭天王自身、「歳徳神」は龍宮の第三明妃である「頗梨采女」です。太歳神・大将軍・大陰神・刑神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神などと呼ばれる「八将神」は、牛頭天王と頗梨采女の間に生まれた八人の王子で、「天徳神」は蘇民将来、「金神」は廣達国の王である巨旦大王となっています。
「十二支」は「愛昇炎女」の生んだ十二人の王子ということですが、薬師十二神将とも関わりがありますので、十二の神将の名だけ抜書きしてみます
子 毘羯羅大将、丑 招杜羅大将、寅 真達羅大将、卯 摩虎羅大将、辰 波夷羅大将、巳 因陀羅大将、午 珊底羅大将、未 安爾羅大将、申 安底羅大将、酉 迷企羅大将、戌 伐折羅大将、亥 宮毘羅大将(P.385)
「金烏玉兎集」『続群書類従・第三十一輯上』(続群書類従完成会1984)
それぞれには本地が定められて、吉やら凶事やらが書き込まれています。
また縁起に「長保元年六月一日。於祇園精舎。三十日間調伏巨旦。」(P.379)とあり、「三宝上吉日」(P.398)の項には「壬申。佛祇園精舎造立日也。・・・此寺三千第一佛室也。・・・」とあり、陰陽道と感神院祇園社、観慶寺(祇園寺)との関係が推測されます。