2003/7
ヤマイヌ
「修験道の狼」
修験と護法 護法使い
狼神社では、なぜか祀られている祭神よりも神使である狼の方が有名で信仰を集めています。修験道では「神使」のことを「護法」と呼びますが、この「護法」が民衆の信仰を集めるのは、どのような寺においても共通のことです。
護法は主尊や行者の眷属となって、その使役に応える童子、王子、天狗、鬼さらに動物の類である。・・・護法はもとは山の神、鎮守、地主神、社寺の主尊の眷属などである。・・また、修行の末に主尊の験力を獲得した行者などに使役されて悪霊の調伏にあたると信じられている。そうしたこともあって、一般には主尊より以上に信者の現世利益的な期待に直接応えてくれる神格として崇められている。(P.871)「修験道思想の研究」
修験道は、神や鬼、童子といったものから動物霊まで意のままに使役しますが、これら使役される「護法」には時代的な変遷があり、古代には「鬼神」が使役され、中世には「童子」などとなっています。
修験者によって操作される神霊の種類を見ると、次のような時代による差異が感じられる。すなわち、まず古代に於いては、役小角が鬼神を使役したという話に見られるように鬼神が操作されている。ところが古代末から中世初期には護法が用いられている。しかし、中世期を通じて多く見られるのは童子や飯綱などの類である。そして近世になってくると、狐、蛇、狸、犬などの動物霊を操作するというようになり、さらにその後は、神霊が見られるようになってきているのである。(PP.29-30)
「修験道と日本宗教」宮家準著(春秋社1996)
江戸時代、修験者が使役するものは動物霊になっています。江戸時代の「オイヌ」も寺社から借りてきますが、このように目に見えない狼を貸すとか借りるなどという概念はまさしく「動物霊の使役」そのものです。修験道の影がある狼神社において、狼が祭神として祀られるわけでなく、つねに神使であるのは、狼神社の「狼(お犬)」が修験者の命令によって働いていた多くの「護法」のうちのひとつだからです。
この狼神社の「護法」である「オイヌ」の働きは「猪鹿除け」と「火難盗難除け」と言われています。そのせいか、狼神社の「御札」は畑などの片隅に青竹に刺して置かれることが多いようで、置かれた場所から判断してもオイヌの役目はとうぜん「猪鹿除け」と思われます。鹿も猪も実際に狼を恐れますから、「狼の御札」も猪鹿を畑から遠ざける役を果たしそうに思えます。しかし、オイヌの役目として「猪鹿除け」が第一義であったかは疑しいのです。
犬札の効能 狼の御札は猪鹿除け?
ニホンオオカミの残された資料は多くはないのですが、その頭骨だけは、なぜか今でも古い民家などにも残っています。それは、その頭骨に何らかの威力があると信じられていたから大事にされ伝えられてきたのでしょうが、いったい狼の頭骨の効能とはどんなものなのでしょう。それは、狼神社の「オイヌ」の効能とは関係がないのでしょうか。
「伯耆大山」の開山伝説に現れた猟師の名は「憑りまし」を意味していると宮家氏は語っていましたが、かつて修験者は何を一番の売り物にしていたのでしょう。
むかしは現代では想像できないほど、ちょっとした病気のためは死んでしまう人も多かったようで、中島雄一郎著「病気日本史」をみると、江戸時代に流行した病気で何十万人という人たちがまとまって、それも数十年おきに繰り返し死んでいます。癌や精神病といった病はいい加減で適当な原因が考えられ、それらには同じくらいいい加減な対処方法がありました。
修験者は原因不明の病気の理由をたずねられ、その治療を求められた時、それらの病気は、邪神、生死霊、動物霊などがついたからだと説明し、これらの「憑きもの」をおとすための修法を積極的に行った。さらに修験者は「憑きもの」を操作する人として、ある時は恐れられ、またある時は尊重されもしてきた。(P.445)
「修験道儀礼の研究」宮家準著(春秋社1971)
修験道による重要な儀式のひとつが、この「憑きもの」に関係するもので、修験者が一番の得意としていたのもこれです。そして、「憑きもの」と「護法」とには密接な関係があります。「憑きもの」については、怨霊、生霊、死霊、邪鬼妖怪が憑くのを「ものつき」といいますが、これは中世的なものであるとされています。この「ものつき」と有名な「キツネ憑き・キツネ使い」は、同時派生ではなく時間を掛けて変化しています。
「ものつき」から「狐付」への変遷も象徴的である。憑依の主体は、すでに鬼神論的な捉えどころのない、それだけに一層おどろおどろしい<もの>ではなく、より身近な、零落した、即物的なニュアンスのつよい<狐>へと世俗化しているのである。(P.74)
「疫神と狐憑き」昼田源四郎(みすず書房1985)
「憑きもの」は、即物的、世俗的なものへ次第に変化してきたとされているのですが、なぜか修験道の「護法」も似たような変遷を遂げています。つまり、即物的な動物霊に変化していました。
それは「狐憑き」の「狐」ももともとは修験道の「護法」の流れを汲むものだったからで、真言密教やその流れをくむ当山派の修験道では、稲荷神社のキツネは重要な護法のひとつです。江戸時代に「狐憑き(キツネ使い)」や「お犬信仰」が大流行したのには、修験道という同じ背景があったからです。そうして、即物的な「狐憑き」は、同じくらい即物的な「憑きもの落とし」を要求するようになります。
憑きもの落し マガミサマと狐憑き
「狐憑き」の症状への対処方法として、「犬や狼が、狐を追い出す」という仕組みは非常に解りやすいもので、「今昔物語」にも本物の犬をけしかけたら、憑いていた狐が逃げ出したという話が残っています。
実際に、日本狼の頭骨が「狐憑き」に役立ったという話はよく知られ、それゆえ多くの頭骨が残され、偶然にも直良信夫氏などの日本狼研究に役立ったのです。
丹沢地方では、「狐つき」落しに、秩父・多摩地方と同様に頭骨を用いてはいたが、骨を削って服用する風習はめったに行われなかった。・・秩父・多摩地方では、頭骨を病人の寝床の下にひそませて加持祈祷をするだけでなく、多くの場合、骨面をナイフなどで削って、その浸液を病人に飲ませるならわしがあった。(P.158)「日本産狼の研究」
秩父・多摩や丹沢地方だけではありません。伊那地方にも同じような話が残っています。
顎骨や牙は、人間を狐憑や、遠山谷でいうクダショウといった魔性のわたり神から守ってくれる呪力をもつと、信じられていた・・
小渋渓谷の北岸の山郷、中川村桑原では祈祷を業とする老婆が、村内の病人の枕もとに狼の頭骨を置いて、病魔退散の祈祷をした・・(P.150、151)
「狩りの語部」
江戸時代の本草書・「大和本草」でも「狼糞乾用半狐ノツキタル病人ニ令服有効」と、狼が狐憑きに有効とされています。
このような狼の頭骨の効能は、狼神社のオイヌの効能と関係のない話なのでしょうか。
現存する神社が、古来からずっと同じ神社の形を続けてきたと誤解している従来の狼研究は、日本狼の頭骨の威力と、狼神社のオイヌの効能を結びつけることはできませんし、それらは別のものとしてずっと論じられてきました。しかし、このふたつには共通する影が潜んでいて、それが修験者なのです。
ですから、狼神社のオイヌも「狐憑き」に無縁というわけでなく、その関係の深さを肯かせる次のような証言があります。
この辺(遠州)の狐憑のお話には、いつも「お寅狐」が憑くと言うたものだ。・・・私の地方ではこんなことがあると、きっと春埜山の「お犬」を迎えるということをいたします。(P.75)「憑物」喜田貞吉編(宝文館出版1978)
これは、春埜山大光寺の狼が、狐憑きに霊験ありという話です。狼に関係する他の神社にも似たような話が残っています。
中国地方では、木野山神社が疫病除けと同時に憑きもの落としの神としても尊信されており、中部地方では、山住神社がそうであった。長野県遠山地方では、クダが憑いたときには、山中の清浄な所に青竹を立て、中に川砂を敷いて、そこに山住さんから受けてきた神札を立てれば落ちるといい、三河のオトラ地帯では、山住さんに迎えて来ればオトラは離れる・・・関東地方では三峯神社、御嶽神社が憑きもの統御の神社であって、ともにそこのマガミサマ、すなわち大口真神にたのむだといっている。(P.270,271)
「日本の憑きもの」石塚尊俊著(未来社1972)
狼神社として有名な三峯神社、木野山神社、武蔵御嶽神社や山住神社の名が挙げられ、それらの神社は「狐憑き」に関わっているどころか「憑きもの統御の神社」とまで呼ばれていたと書かれています。そして、お札が山中の青竹に刺して置かれてあるのも「猪鹿除け」ではなく「憑きもの落とし」のためと書かれています。
このことを追認できる資料は、当の三峯神社にも残っていて、三峯の「日鑑」によると確かに「お犬」は「悪狐を除く」と考えられています。
安政五年八月八日 豆州、駿州、甲州各地ニ変死流行・・・コレヲ以テ神犬拝借者続々登山スルニヨツテ悪魔降伏護摩供修ス
安政五年八月二十九日 甲州巨摩郡下条村ヨリ左ノ代参書状出ス、神威霊験之御蔭ヲモツテ流行病死者ナシ云々、悪狐除、御眷属拝借願出アリ、(P.385)
「三峯信仰とその展開」『山岳宗教史研究叢書14』(名著出版1980)
病気による変死者がでたとき、甲州の人々はそれを狐のせいであると考えたようで、この場合、八月八日に「神犬拝借」のため三峯山にやって来ますが、二十日後にはそのおかげで病死者はなかったと記されています。
これは、日本狼の頭骨とまったくおなじ役割です。削って飲めば精神病に効果あり、神前に置けば狐憑きを予防、日本狼の頭骨を前において憑きもの落としの祈祷をしていた里の山伏とおなじように、狼神社の山伏も憑きもの落しの札を配っていたのです。
三峯神社の「犬札」の効能は、第一が「憑きもの落とし」と「疫病除け」、「猪鹿除け」はその次、「火難盗難除け」に至っては別のお札によって補っていたようです。その証拠が下記の三峯に残る記録です。
一、御犬壹疋・火盗御止三枚ツ、芝田町 相模屋儀兵衛(P.329)
「山岳信仰と講集団」
『山岳宗教史研究叢書9』(名著出版1976)
町人(商人)に対して、三峯から「お犬一匹」の貸し出しと別に「火盗御止の札」が配られていますから、「おいぬ」と「火難盗難除け」は無関係ということになります。
庶民は「火難盗難除け」や「猪鹿除け」のために「オイヌ」を信仰していたのではなく、「狐憑き」に対処するものとして信頼していたのです。そして、それ故にこそ農民、町民、武士を問わず「お犬信仰」は拡がったのです。
犬護法
憑きもの落しに関わっている「イヌ」が目立つのに反し、中世に「狼(おおかみ)使い」の名は見当たりませんから、狼が護法として用いられ始めたのはかなり遅いようです。というより「狼」は「犬」と同じようなものと考えられていただけなのかもしれません。
憑きもの落としなどに犬が関係している事例は次のようです。
桧枝岐村には「鼬寄せ」という神秘な卜占があったが、ほかにイヌヨセといって、多分は山犬を呼び寄せる伝承もあった
寄った霊を帰す時には、背中に「犬」の字を書いて最期の点を強く打てばよい
(P.242、243)
「日本の憑きもの」
「犬」の場合は「犬神」という名で憑きますが、「狼」の場合は憑くことはなく憑きもの落としに役に立つくらいで、あまり悪さをしないと言ってもよいでしょう。
家に憑いた狐は、待遇が悪いと悪さをするので、祠を建ててお供えもあげなければなりませんが、この狐に供えるものに「油揚げ」と「赤飯」があります。「狐の産見舞い」や「狐施行」のときに供えるものも「赤飯」です。狼にも「産見舞い」の風習があり、この場合も「赤飯」ですから、狐と狼に対する作法はよく似ています。これは、同じ憑きもの(護法)の概念から生まれた同じ作法だからです。
また、吉野には「蛙飛び」という修験の祭りが現在も続けられていますが、宮家氏はそれについて語りながら「犬」の護法についても述べています。
護法飛びには、護法が憑いたあと烏が飛ぶ所作をする烏護法と、犬が走る所作をする犬護法の二種類があるとされている。「蛙飛び」にしても、修験者が人間に護法を憑けて蛙に変え、堂内を動きまわらせ、最後に護法をおとすことによって通常の人間にもどすことを示すものと考えることができる。(P.110)「大峯修験道の研究」
鳥護法のほうが高級で、犬護法は地面をばたばた走るだけの低級なものとも言われますが、それでも「犬」が護法のひとつであったことだけは間違いないようです。
ところで、かつて五来重氏は伯耆大山について次のように書いていますが、これは勘違いでしょう。
犬が憑く犬護法はお犬(護法)信仰のある伯耆大山修験のものであろうし、烏が憑く烏護法は熊野系ではないかと思われる。(P.99)「山の宗教」五来重著(淡交社1970)
犬護法と烏護法は、宮家氏が語っていた如くその特徴による区分、つまり上級か下級かの区分であり、伯耆大山修験と熊野修験とにきれいに分類できるような傾向は見られません。また、縁起に狼が現れているにもかかわらず、現在の伯耆大山はキツネの力が強大なため犬の散歩さえ厳禁で、しかも伯耆大山の五流修験は、聖護院に属する同じ熊野修験の系統です。
また「犬」にまつわる民間信仰もいくつかあり、魔障を除くというものが多いのですが、有名なのは、妊娠5ヵ月目の「戌の日」に妊婦が岩田帯を締めるとお産が軽いというもので、子供の健康を祈って額に「犬」の字を書くなどというものもあります。三峯神社のある秩父地方には「弘法大師と麦と犬」という説話が色濃く残っています。その筋は、弘法大師が中国から麦の種をこっそり持ち帰ろうとした時、犬にそれを見破られたが、上手に隠してあったため役人はそれを見つけられず、犬は役立たずとされて殺されてしまい、そのため戌の日には麦の種を蒔かないというものですが、この話が狼神社に何らかの影響を与えたかどうかまではわかりません。
「犬」に対する民間信仰と同じくらい、あるいはそれよりも「オイヌ」と相関性があるのはキツネで、特に秩父地方は「オサキ狐」の伝統が根強かったと言われています。下記は、江戸時代の喜多村信節(1783ー1856)が書いた「いん庭雑録」(いん=竹冠に均)の一節ですが、「オサキ狐」はもともと秩父のうまれであると書かれています。
上野藤岡の人語りけるヲサキ狐は、もともと秩父郡に限りたりしが、その獣ある家より縁者となる者の方へ、狐も分れて付随い、はびこりて武州の内にも其家あり。(P.115)
「いん庭雑録」喜多村信節著「日本随筆大成第二期7」(吉川弘文堂1974) 
オサキ狐が三峯講の盛んな秩父地方で猛威をふるっているように、「おとら狐」というのは三河地方において特に活躍した憑きものです。この狐に憑かれた時、その家に呼ばれるのは陰陽師、修験者、御嶽行者ですが、主役はやはり狼神社である山住神社です。
どこに家でもおとら狐が憑けば、まず陰陽師や修験者を招いて祈祷をして貰うのであるが、それで効のないときには、遠州秋葉山の奥の山住様というのを迎えて来る。ただ山住は里程も遠いことであるから、たいていならば修験者だけですますのである。山住様をお迎えしてくればかならず離れるという。・・・また御嶽講の行者などを甚しくを嫌うて・・・(PP.228-230)「おとら狐の話」早川孝太郎著『早川孝太郎全集第四巻』(未来社1974)
「おとら狐の話」は、早川孝太郎と柳田國男との共著で1934年に書かれたものです。なお御嶽行者とは江戸時代中期以降に発展した「御嶽信仰」を奉ずる者たちで、修験者として分類しても構わないでしょう。
また「クダ狐」は甲斐、信濃をはじめとし、駿河・遠州、三河でよく見られます。この「管孤」については、「善庵随筆」が詳しいかもしれません。
・・・コレハモト修験ノ道士、勤行精修ノ後ニ、金峰山ヨリシテ授クル所ト云フ、故ニ管狐ノ名アリ、此狐駿遠三ノ北辺寄ノ地ニ多シ、(P.472)
「善庵随筆」朝川鼎著『日本随筆大成一期10』(吉川弘文館1975)
三河地方には「管狐」も棲息していて、その分布地域は遠州や駿州の北の地方にまで広がっているとされています。
つまり、キツネ憑きの分布は、オイヌの分布とそっくり重なっているのです。これは、キツネを憑かせるのも、そのキツネを落とすのも、おなじ修験者の仕業であることを示しています。それゆえ上記の「いん庭雑録」の「ヲサキ狐」には、とうぜんの結末が書かれています。
当国にてはこれに付かるれば、秩父なる三峰権現より御狗を借来る。(P.116)
「いん庭雑録」喜多村信節著『日本随筆大成第二期7』(吉川弘文堂1974) 
修験者が流行させたとも言える「キツネ憑き」は、つぎに「憑きもの落とし」という新たな需要を生みだし、そして、それに対し修験者が周到に用意したものが「オイヌ」です。それは修験道の独自の「犬」の概念と「犬」に対する種々の民間信仰が調合させられ、修験者の呪法によって完成させられたものです。
「犬神と戌神」〜狐憑きの詳細あり
開山伝説の犬 犬と猟師
狼神社だけでなく多くの山岳神社には、その山がどのように開かれたかの経緯を語る「開山伝説」が残されていますが、ほとんどの開山伝説はとうぜん歴史的事実に基づいたものではなく、そこに行基や弘法大師や日本書記の英雄が登場するのも単に古さを誇張するためだけです。開山伝説の多くは鎌倉・室町期作られたもので、役小角や白山の泰澄の時代ののち、それらの山岳修行者などに結び付けて修験者が作ったとされます。修験道に精通している宮家氏は、南北朝以後、熊野信仰が衰退したたため、各地の修験者が自分たちで信者を獲得しようと「縁起(開山伝説)」を整えた時期があったことを指摘し、さらにそれらの開山伝説を二つのパターンに分けています。
諸山が開かれるの経緯は、羽黒、日光、冨士、箱根、戸隠、白山、金峰山などのように宗教者が登頂や山岳の守護神をあらわすことを目的として山中に入って修行の末目的を達するものと、猟師が獲物(山の神の化身)を追って山中に入って神を感得して、これを祀って開山となる立山、熊野、大山などの話の二つに分けることができる。(P.514)
「修験道思想の研究」宮家準著(春秋社1985)
熊野の開山伝説では、猟師が三匹の熊を追って三枚の鏡に出会い熊野権現として祀ったとか、金色の猪を追う猟師・千世定が三つの満月に出遭ったとかいって、たしかに猟師と動物が現れています。羽黒山は大烏の案内で、日光山は人頭の白蛇、立山では鷹と熊が案内をしたりするのですが、死霊の山・「伯耆大山」の開山譚では「狼」が登場しています。
出雲国玉造の猟師依道が美保の浦のあたりを通っていると、金色の狼があらわれた。不思議に思ってそのあとを追うと狼は山の洞へ入った。射殺そうと矢をつがえると、矢先に地蔵菩薩があらわれ、狼は老尼となった。老尼は「自分は都藍尼といい、三生の亙り行人としてこの山を守り、今は山の神となっている。・・・(P.509)
「修験道思想の研究」宮家準著(春秋社1985)
山の神の化身である「金色の狼」と「依道(よりみち)」という猟師が現れていますから、これも典型的な修験に関係した開山伝説です。その証拠に猟師の名・「依道」は「憑きもの」を憑かせて神託・予言などをさせる「憑(よ)りまし」に由来するのだと宮家氏は語っています。縁起に現れる猟師は、みな加持祈祷をした修験者(山岳修行者)を意味しているのです。
眞言密教の本山・高野山では、空海を案内するものとして猟師とともに「犬」があらわれ目的地に導いていますが、この「犬」は狼神社の「縁起(由緒)」にかならず登場し、単なる犬なのに、件の神社と「狼」とを関連付ける唯一の根拠となっています。実際、狼神社の開山伝説では、狼がでてくるというより犬が出てくることのほうが多いようで、三峯山を代表とする関東の狼神社のいわれにも、ヤマトタケルと共に現れているのは白い犬です。ヤマトタケルは謂われの古さを誇張する為だけですが、犬が現れているのは一般の開山伝説と同じで、修験者(山伏)との関わりかもしれません。
なぜ「犬」が開山伝説によく出てくるのかといえば、「山伏」という字をみれば明らかです。修験道では「山伏」という二つの文字を解釈し、「山」の字は、縦の3本に意味を持たせ、横の一本によって繋がるので三身即一、三部一体、三締一念と意味付けます。では「伏」の字はというと、同じように偏と旁に分けて考えますが、そこに「犬」の字が含まれています。
『修験三十三通記』の「山伏二字之大事」では、これを左側の人と右側の犬に分け、人は衆生所有本有の法性、犬は衆生所有元初の無明を示すとし・・・
『彦山修験道秘決潅頂巻』でも同じ見方をとっているが、ここではさらに犬の黒色は無明を示し人間の白色は法性を示すとしている。そしてまた犬は浄穢を問わず魔障を除く故、仏前の前に狗犬を置き、役小角も犬を具足して入峰し諸魔を降伏したと説明し(P.605)
「修験道思想の研究」宮家準著(春秋社1985)
三峯や武蔵御嶽などの狼神社にいわれに出てくる「犬」は、「山伏」の文字に由来するものであり、これは狼神社が、明治維新前まで神仏習合で修験道(山伏)の影響のもとにあったことの裏付けとも言えます。もちろん山岳神社すべてが狼神社でないように、「縁起」に現れた犬がすべて神使の狼になるというわけでもありませんが、もし修験道との関わりがなければ、もともと犬も狼(おいぬ)も「縁起」に現れようがなかったのです。
『修験三正流義教』では無明と法性と並んで地と天、陰と陽、夜と黒、黒と白という二元的対立が紹介され、これは山伏が天地陰陽の気が充満している山岳で日夜修行することを示すとされているのである。(P.605、606)「修験道思想の研究」宮家準著(春秋社1985)
白と黒の犬という組み合わせも理論付けられます。
鎌倉・室町期に信者獲得のため整えられた「縁起」は、次の時代になるとさらに工夫を要求されます。江戸時代の1600年代、「新地建立禁止令」「寺院古跡新地之定書(1688年)」によって、古い寺院は古跡、新しいものは新地(新寺)として二種類に分けられ、幕府の保護を受けられない新地は寺院経営に精を出さねばならなくなっています。古跡は古跡で、関係のある新地を守らねばならず、手をこまねいてはいられません。
そして、庶民の信仰を集めるための方策として、多くの寺院で、縁日や現世利益の強い諸神の勧請が行われています。「御狗講」などもこれらの動きとは無縁ではないはずで、三峯神社(大権現)でさえ当時は衰退し、「犬札」を出した日光法印の1700年代に入ってからようやく興隆を迎えているのです。
「萬葉集」解釈の中から「大口真神」が生まれてきたのも江戸時代で、それと歩みを共にするように「お犬信仰」もまた始まったのですが、その推進役は修験者だったのです。
狐の開山伝説 八海山
新潟の八海山の「開山伝説」には「キツネ」が道案内として登場していますが、この場合に限っては「キツネの開山伝説」の仕組みは意外と簡単に分かってしまいます。
八海山の伝説は、次のようです。
普寛が八海山を開くために、その弟子と山麓の山口に来たのは泰賢が満願寺に入った翌年のことである。・・・泰賢もこれに同行した。伝説では、この普寛の八海山登山の際、泰賢に神霊が憑依して先導し、四合目からは、白狐が出て道案内をしたといわれている。
(P.225)
「修験道と地域社会」
宗教者である普寛を「神霊が憑依して先導」し、さらに「白狐が出て道案内」となっていますから、これは典型的な「開山伝説」です。というより、狼神社の開山伝説の「白犬」を「白キツネ」に置き換えるだけで、こんなものは直ぐ作れそうです。
なぜ「キツネ」にしてあるのか、その理由を探ってみます。
八海山を開いた「普寛」は、木曾御岳の王滝口を開いたことでも有名で、享保十六年(1731)に、秩父の大滝村に生まれています。
秩父の大滝村といえば、とうぜん「三峯神社」です。
普寛が生まれたころの三峯神社は「三峯観音院」と呼ばれていて、時期的には初めて「犬ふだ」を発行したころです。普寛はこの三峯観音院に入り、本山派の修験者になっています。その後、江戸八丁堀に出て本山派修道院法性院の住職になり、本山派の修験長にもなっていますが、天明二年(1782)から諸国を遍歴しはじめます。木曾御岳の開山も八海山の開山も、この諸国遍歴の一環です。
三峯神社出身の「普寛」が開山した八海山なのに、なぜ道案内役が「白犬」でなく「白キツネ」なのでしょう。
ひとつには「御嶽信仰」の影響がありそうです。もともとこの地方には蔵王権現の信仰があったのですが、普寛が木曾御岳を開山していたこともあり、それまで以上に八海山には御嶽行者が押し寄せ、ますます御嶽信仰の影響が濃くなっていきます。御嶽信仰は天台宗と真言宗の両方に関わっているため、その修験道も単純なものではありませんが、真言密教の稲荷(キツネ)が登場するのもそれほど不自然なことではありません。
しかしながら、キツネが登場するもっと確かな理由は、もうひとりの登場人物にあります。普寛に同行した満願寺の泰賢です。
普寛を助け、共に八海山の開山として崇められているのが泰賢である。泰賢は安永三年(一七七四)大崎村鎮守稲荷大明神の神官山田吉豊の弟伝八の長男に生まれ、十七歳の時、修験南方院に弟子入りし、二十歳の時には満願寺で修行している。満願寺は、稲荷行者が集まる霊場としても知られていた。(P.224、225、一部省略)
「修験道と地域社会」宮家準編(名著出版1981)
稲荷大明神の神官の家系に生まれ、稲荷行者が集まる満願寺において修行した「泰賢」のせいで、八海山の道案内は「白キツネ」になったのです。生まれも育ちも稲荷である「泰賢」が関わった開山の伝説は、犬よりもキツネがよく似合ったのです。開山伝説の動物はこのような経緯で決められるのであって、それほど深い意味はないようです。普寛は、そののちも江戸を拠点として「御嶽講社」作り、御嶽信仰の普及に力を貸しています。この御嶽信仰を奉じる行者が「憑きもの」に深く関わる「御嶽行者」と呼ばれるものたちです。関東の御嶽信仰の山に狼(おいぬ)が関係している理由のひとつとして、三峯神社出身の「普寛」の存在をあげることもできそうです。
武州御嶽山も憑きもの落としには、深い関わりがあります。
御嶽御師では、狐憑きを除去するのに「ヒメキ」と呼ばわる式を伝えて・・・その除去の祭文に 引寄せて結べば紫のイホリなり 解くればもとの野原なり 物ごとに、かげの野原なり 狐というと、仮の名なるらん・・・
「ヒメキ」の式のとき狼の骨を削って狐憑きのものに飲ませた。(P.174、175)
『武州御嶽山信仰史の研究』西海賢ニ著(名著出版1983)
狼の頭骨を削って飲ますという民間祈祷師とは、武州御嶽山に由来する「御嶽行者」であったのかもしれません。
うなぎの開山伝説
虚空蔵菩薩の眷属はうなぎです。そのため虚空蔵菩薩信仰のある山では、開山伝説にうなぎが登場することがあります。
奥美濃の高賀山(1224m)と瓢ヶ岳(1163m)のふもとにある高賀神社は、江戸時代までは高賀権現であり、本地は虚空蔵菩薩でした。ここにうなぎの開山伝承があります。
霊亀年間の頃、瓢ヶ岳に牛に似た妖怪が住んでおり、村人に危害を加えたので養老元年(七一七)年に藤原高光が勅命を受けてこれを退治し、高賀山麓に国常立尊らの諸神を祀った。その時に粥川(美並村高砂)に住む鰻が道案内をしたという。伝説はさらに天暦年間(九四七〜九五六)にも再び高光がその妖怪の亡霊を虚空蔵菩薩の加護によって退治したと伝え、その時に山をとりまく六ヶ所に神社を建立したというものである。(P.530)
「山岳宗教史研究叢書10」(名著出版1977)
うなぎの道案内という珍しい開山伝説です。この伝承のために、粥川周辺では牛を飼わない、鰻を食べないという禁忌がいまも残っています。
神使として「うなぎ」を指定している神社は、今もいくつかありますが、神仏習合の時代、そこに虚空蔵菩薩の信仰があったのだろうと推測できます。
ところで、「虚空蔵求聞持法」とは、虚空蔵菩薩によって記憶力を成就する修法で、雨乞い祈祷にも用いられます。718年に唐から伝えられたとされ、流行したのは奈良・平安時代で、虚空蔵菩薩の化身として明星天子を拝しますので、星信仰とも重なっています。
虚空蔵求聞持法は空海がよくした法としてなにより有名で、中世以後はとくに真言密教・当山派修験と深く関わります。
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