2002/1
ヤマイヌ
「ニホンオオカミの学名」
ニホンオオカミ ニホンオオカミの学名は一つだけじゃない
一般に「種」と言うとき、その概念はリンネによるもので、1つの種には1つの学名が与えられています。その学名もリンネの編み出した二名法によっていて、ラテン語で書かれ、大文字で始まる「属名」と小文字の「種名形容詞」を並べるというやり方です。ラテン語の学名は、通常イタリックで書かれますが、見にくいのでここでは使用しません。
いわゆる「ニホンオオカミ」の学名は、その分類の仕方によって2つのタイプがあり、そのうえ別の学名を付けようとした様子もうかがえて、「学名はひとつだけ」という普通の考えは日本産オオカミには通用しません。
1839年、オランダ・ライデン博物館館長のテミンク(Temminck)は、シーボルトが持ち帰った日本産のイヌ科の動物を、タイリクオオカミ( Canis lupus )とは異なる種類の動物と判断し、「 Canis hodopylax 」と命名しました。
Canis hodophylax イヌ属ニホンオオカミ
この場合は「イヌ属ニホンオオカミ」と読みます。これが「ニホンオオカミは日本の固有種だ」という説です。ヨーロッパなどにいるオオカミとはちょっと違う種ということで、その位置はタイリクオオカミと対等、つまりコヨーテやジャッカルなどと同じ立場です。
「 hodopylax 」の意味については、「ファウナ・ヤポニカ」の「日本産のオオカミ」の章の見出しに、フランス語で CHIEN HODOPHILE (Canis HODOPYLAX)と書いてありますが、CHIEN は「イヌ」、HODO−PHILE の HODO はギリシャ語の hodos に由来する「道」の意味で、PHILE は「〜の好きな」という意ですから、「道の好きなイヌ」という意味になります。「送り狼」に由来する学名というのも一理あります。
ところで、 hodophylax という文字の綴りには3つの書き方があります。テミンクは論文である「ファウナ・ヤポニカ」の中では、種名形容詞として「 hodopylax 」を使用しましたが、それ以外に「 hodophylax 」とも「 hodophilax 」とも書いていて、合計3種類も書き方があったことになります。最近の分類表では「 hodophilax 」が最もよく使われます。
テミンクが日本産のオオカミを新種に分類した四十年後の1880年に、ダーウィン物語で有名な解剖学者のハックスレー(T.H.Huxley 1825-1895)が、1900年にはマイバート(G.Mivart 1827-1900)が、「ニホンオオカミは、単なる小さなタイリクオオカミ」と反論しました。
Canis lupus hodophilax イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ
これが、ニホンオオカミをタイリクオオカミ( Canis lupus )の亜種として「 Canis lupus hodophilax 」と呼ぶ説になります。この場合、「イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ」と読みます。これは「ニホンオオカミはタイリクオオカミの仲間だ」説です。下記の「イヌ属の分類」でニホンオオカミの位置を確認してみてください。
参考資料「イヌ属の分類」〜世界各地のタイリクオオカミ亜種
かつて東京帝大人類学教室教授・長谷部言人氏は、ニホンオオカミを Canis ohokami という名で分類することを主張しました。また、昭和22年、斎藤弘吉氏は和名と学名の両方に対して異議を申し立て、まったく新たに「 japanicus 」という学名を挙げていますので、ニホンオオカミには日本流の学名もあったことになります。
日本狼の学名は、Canis hodophylax を用いているけれど、私には狼中の一亜種としか考えられぬので Canis lupus hodophylax のほうがよいと思うし、またはラテン語の「路を守るもの」からきた送り狼に因んだ名称で、それよりも Canis lupus Japanicus の方に賛成するものである。したがって和名は家犬の野生化とまぎらわしい「山犬」よりも「日本狼」の方が適切と考えている。(P.235)斎藤弘吉著「日本の犬と狼」
ここでいう「和名」とは、ラテン語の学名に対する日本語の学名のことですが、山犬より日本狼が適切だと書いてあるということは、かつては「日本狼」ではなく「山犬」という名のほうが一般的であったようです。つまり斎藤氏の提示した「日本狼」という和名が受け入れられたということになります。
Japanicus にはドイツに先駆者がいて、 Nehring がすでに japonicus という名を挙げていましたが、これはとうぜん受け入れらませんでした。命名の規則に随えば当たり前のことで、こんな横槍を入れてくる日本とドイツの学界に、ライデン博物館も冷静ではいられなかったと思われます。
日本狼という和名については、明治41年2月、時事新報社発行の雑誌「少年」の「ロシア狼と日本狼」という題において「日本狼」という語が使われています。しかし、この和名を使い始めた時期はもっと遡れるかもしれません。また、「ホンドオオカミ」という和名をはじめて使い始めたのは今泉吉典氏です。
ちなみに、エゾオオカミの学名に rex(王)という名を付けたのはポコック(R.I.Poccock)ですが、現在は用いられていません。また、Japanese wolf という言葉は「日本の狼」ですから、当然「エゾオオカミ」も含み、エゾオオカミの英名として Japanese wolf が使われることもあるようです。いわゆる「ニホンオオカミ」を意味したいなら、w が大文字となった Japanese Wolf で、これは大英博物館が日本本土のオオカミを表すときの綴りです。これは、1878年、ロンドン動物園に飼育されていた日本産オオカミ・Canis hodophilax に、採集者であるヘンリー・プライアーが「 Japanese Wolf 」という英語を使ったからだと思われます。
日本の研究家 日本狼研究
日本狼の研究者としては、阿部余四男氏(1891-1964)、斎藤弘吉氏(1899-1964)、直良信夫氏(1902-1985)、平岩米吉氏、最近では中村一恵氏などが挙げられます。
日本では、頭骨による形態調査が主で、DNA分析はまだまだこれからです。ロンドンのオオカミからは、DNA採集が可能とも思われます。イエイヌとオオカミとの近縁関係の最近の調査結果を考慮すると、どこのオオカミよりも和犬に最も近縁とされるかもしれません。このDNAの解析の分野は、津田薫氏(都臨床研)など麻布大グループが一歩も二歩も先んじています。
日本産オオカミに何らかの形で関わった人々は、上記に掲げた人たち以外にもたくさんいて、多くの古生物学者・人類学の研究者、そして在野の研究者もいます。柳内賢治氏はその著作の中で、日本産オオカミを研究した人々の名を挙げています。
「日本狼物語」を著した奈良吉野の岸田日出男氏。
平岩米吉氏の後継者の平岩由伎子氏。
元和歌山大教授で剥製保存に関わった末松四郎氏とその後継者の宮本典子氏。
国立科学博物館で日本産オオカミ研究に関わった今泉吉典氏と吉行瑞子氏。
中川志郎氏は元上野動物園園長。千葉徳璽氏は民俗学の面で研究した元信州大教授。
「我が動物紀」を書いた犬飼哲夫氏は、エゾオオカミ研究者で元北大教授。(PP.56−58)
柳内賢治著「幻のニホンオオカミ」(さきたま出版会1993)
柳内氏は、このほかにも柳田国男や畑正憲氏の名も挙げています。
山根一眞著「狼」は、ドイツに所蔵されていたニホンオオカミの標本をフンボルト大学で再発見した在野の研究者・八木博氏を大きく取りあげています。
「参考文献」にオオカミ関係の本
種の分類
種がどのような基準をもとに区分されているかについて、よく取り上げられる例にライオンとヒョウの雑種、レオポンのたとえがあります。
ヒョウの雌とライオンの雄のあいだに生まれた雑種はレオポンと呼ばれることになっているが、この動物がレオポンという種に属しているという意味ではない。レオポンというのは、ヒョウとかライオンとは違って種ではないのである。なぜかというと、レオポンは子を生んでふえていかないからである。・・・種というものは、子を産んで代々生き続けていくものなのである。
「動物という文化」日高敏隆(講談社学術文庫)
上記の生物学的基準のことを「互いに交配できないか、交配してもその子が不稔である」といいます。しかし、この基準でイヌ属の動物たちを眺めますと、現在違う種とされているものたちはみな同じ種になってしまいそうです。アメリカアカオオカミはコヨーテともタイリクオオカミとも交配します。コヨーテとタイリクオオカミの交配種も子を産んで存続します。ジャッカルとタイリクオオカミも交配します。多分コヨーテとジャッカルも交配は可能なのでしょう。その子孫が存続するかしないかは条件次第で、結論を出すには非常に長期間の観察が必要です。かつての分類学者たちは、アフリカからアメリカにまでジャッカルを運んできて、自然の中でコヨーテとの交配が可能どうか、確かめることができませんでした。動物たちは、形態(主として外観)と地理的な差を最も重要視されて区分されてきたのです。
地域が大きく離れた2種類の動物は交配可能であっても、交配する機会がありません。また、実質的に交配可能な2種類の動物が接する事ができたとしても、見掛けが大きく異なっていれば交配することはないだろう、と昔の分類学者は、このような根拠でイヌ科の動物の分類を行ったのです。
このような観点から言えば、スイスの山にいるセントバーナードとニューヨークのマンション住まいのチワワが同じ種(イエイヌ)であるのは不思議です。しかし、もともとこの2種類のイヌたちは同一の種であるという確信(前提)があるので、自然状態での交配の可能性やその他の種を規定する条件の検討をしないのでしょう。この2種類の動物をかつての分類学者が見たなら絶対に同じ種に分類しません。また、オオカミなどの移入動物についても問題があり、同一の種としての前提があっての導入でしょうが、実際は種の意味には棲んでいる地域やその集団も含まれている筈なのです。
かつての分類基準をもって作られた権威ある「イヌ科分類表」は、今や逆に足枷になって「種」という概念を複雑化させています。実際はDNA分析で近縁と決める事自体が古い分類基準や種の概念に対して意義を申し立てている事なのですが、それはあまり声高には言われません。種の分類そのものが、今も昔も矛盾を抱えているのです。
最近の研究で、Bob Wayne は「タイリクオオカミのmtDNAの塩基配列は、イエイヌと0.2%の違いしかない。」( The domestic dog is an extremely close relative of the gray wolf, differing from it by at most 0.2% of mtDNA sequence.)と語っています。
参考までに、約500万年前に分かれたとされるヒトとチンパンジーの核DNAは1.23%(0.615%x2)の違いと言われ、ヒト同士ですと0.1%程度。
またmtDNA(ミトコンドリアデーエヌエイ)は母系の遺伝子をよく伝え、塩基置換の速度は核DNAの5倍から10倍と言われています。ですから上記の0.2%は、核DNAに換算しますと0.1%より小さい事になり、狼と犬はヒト同士より近縁ということになります。
このように、タイリクオオカミ( Canis lupus )の亜種にイエイヌ( Canis lupus familiaris )が分類された事実は、これまでの分類表が将来大きく変化していく可能性を示唆しています。亜種はどんどん統一され、イヌ属のなかのいくつかの種も再編成されるでしょう。
「イエイヌ同士より、イエイヌとオオカミとの違いの方が小さい」、「イエイヌとオオカミとの違いは、同じ沼に棲む同種のカエルの違いよりも小さいと語るRay Coppinger の文章を掲載しているHPのURLを下に記します。
http://www.kc.net/~wolf2dog/dnaid.htm(オオカミとイヌの遺伝的近縁関係がよくわかる)
Ray Coppingerによると、驚く事に、N.W.TERITORIES WOLFとプードルは、MINNESOTA WOLF や MEXICAN WOLFよりも近縁です。プードルはオオカミそのもので、単に形態が異なっているだけなのです。
イエイヌがタイリクオオカミの種であるという事は、日本産オオカミであるヤマイヌにとっても非常に重要なことです。ヤマイヌがイエイヌと混血可能であったことはよく言われています。たとえばヤマイヌが、ジャッカルの仲間であったらイエイヌと交配する事により、よりタイリクオオカミに近くなったわけですし、タイリクオオカミの仲間であったとしたら、その血はすこしも薄くなってはいなかったわけです。
同様に、いわゆる和犬(地犬)と呼ばれているイエイヌもタイリクオオカミの亜種です。例えばモンゴルに棲むオオカミと和犬とでは、どちらが日本産オオカミ(ヤマイヌ)と近縁でしょうか。明らかに、和犬です。和犬の群れは、日本産オオカミ(ヤマイヌ)の群れと少数ではあっても交配を続けてきた可能性があるからで、日本本土全体では、毎年数頭程度の交配は少なくともあったでしょうから、遺伝子レベルの比較では、和犬は日本産オオカミに最も近縁な個体群と言えそうです。
それを考えると、オオカミの仲間のイエイヌが野生化して山で繁殖し続け、しかもその範囲を広げていけないのは何故なのかという疑問も生まれます。イエイヌがタイリクオオカミであることを考えると、なにか種以上の物を考えざるを得ません。
ひとつには、オオカミが高い山で生活する事自体が異常なのかもしれません。失われたのは彼らが自由に狩をする平野なのかもしれません。イエイヌにも広い平野を与えれば、もっと上手に狩りができるでしょう。もうひとつは、イエイヌの変異された形態が足枷になっています。たとえば、プードルやチワワがその形態のまま、野生で生きていくことなどとうてい無理です。逆に、少し大型で猟の上手な犬、そして子供を生んだメスの世話をするよう躾けられたオスのいるグループは、野生で存続しつづけるかもしれません。
どんなイヌでもオオカミの形態に戻るのにはかなりの期間を必要とするのは確実で、ワンワンという声を失い、遠吠えに戻るには意外と時間が掛かるのかもしれません。ブリーダーたちは和犬などの特徴を追い求めてますが、オオカミの特徴を追い続ければ、その形態にする事は可能でしょう。
更に、ヤマイヌたちが群れとして子に与えてきた教育があります。それはヤマイヌのそれぞれの群れが伝えてきた伝統的狩りの手法といってもよいのかもしれません。見習猟犬は、狩りの上手な猟犬につけて教えていくと良い猟犬になると言われています。狩りのやり方は、本能だけでは身につかないもののようです。
すると、われわれが失ったものは、単なる生物としてのヤマイヌとかニホンオオカミの種ではなく、もっと大きなものだったのかもしれません。日本の山野でヤマイヌたちは群れとしての伝統的な狩りや生存方法を、その子孫に伝え続けてきたわけです。それは、もはや取り返しのつかないものです。他の土地から似たようなオオカミを連れてきただけでは補えない大事なものをわれわれは喪ってしまったのです。
参考資料「イヌ属の分類」
家畜の再野生化
オーストリアに住んでいる飼い犬が野生化した「ディンゴ」のようなものを、「再野生化」した家畜と言います。他の家畜でも再野生化の多くの例がありますが、再野生化にはいくつか条件があります。
野生原種が現に生息している場所では再野生化は起こりにくいし、起こっても原種に吸収されてしまう。
以前に原種が生息していて、今は絶滅している地域では起こりやすい。
天敵が生息せず、土着の野生動物に対し優位に立てるような土地。
(野沢謙著「家畜化の生物学的意義」P.86)
「牧畜文化の原像」福井勝義・谷泰編(日本放送出版社1987)
日本の犬には、現状、再野生化する条件はじゅうぶん備わっています。ただし、天敵に関してだけはすこし問題があり、日本はヒトが多すぎるかもしれません。
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