新しい歴史教科書(古代史)研究会
槍玉その8 武蔵義弘著 抹殺された倭王たちー日本古代史へのこころみー
著者について
著者はこの本の奥書きには、1944年旧満州生まれ、都立高校勤務(日本史) とあります。
ご著作は、この”抹殺された倭王たち”以外に、”知られざる東京の史跡を探る”という本があるようです。

この本を取り上げた理由について
本屋で、槍玉に上げる玉、を探していて、現役「高校教師」という経歴と、「抹殺された倭王の謎」という題名に引かれて、大枚1890円を支払い購入しました。
後で、感想に、述べていますが、著者には本当に申し訳ないのですが、「槍玉」にあげるほどの玉ではなかったか、と反省させられています。
ところで、この本の内容は、と云いますと、 非常に分かり難い文章です。おまけに、教師暦30年の積み重ねがおありで、記・紀の細部についての知識は豊富なようで、あっち飛び、こっち飛びで、話の流れが極めてややこしくなっています。
おまけに、話は、まず、日本の国号で7~8世紀、次に、倭王で5~6世紀、最後に、神武伝説で2~BC2世紀と、話が遡って行き、流れに乗るのが難しい本でした。
今までの槍玉に上げた、小説家の方々の本の読み易さが、つくづく有難く思われました。
槍玉として俎上に上げるために、別に、ノートを作らざるを得ませんでした。分かり難い文章を、ノートを取りながら、読み進み、何とか、日本の国号・倭王は誰か・神武東征の3点を論じていることを理解することができました。
不本意ながら、ぼやきながら、高校時代の日本史の不勉強のおさらいをさせられました。
内容紹介も、著者に敬意を示すためにも、せめて抄論に纏めて紹介しようと思ったのですが、失礼ですが、それほど意味があるとは思われませんでしたので、興味のある方は別ファイル(棟上ノート)をクリックしてみてください。
結論は
武蔵先生が説かれるところの、結論をお伝えしておきます。
それは、「日本という国号は壬申の乱で大友皇子側の国号」説と、「日出る国の天子は彦人皇子」説、および、「神武東征はなく、応神東征から創作された」説 の三つだということです。
この三つの説の検討の前に、先に検討結果の”感想”を先に述べて、あとで、本論に入ろうと思います。
なぜならば、唯でも面白くない、古代史論議を述べて、皆さんを退屈状況に追い込むことは、当研究会の本意ではないからです。
感想1.非常に分かり難い。流れが飲み込み難い。何を云いたいのか分かり難い。読んでて楽しくない。読んだら、歴史が嫌いになるのではないかな。
感想2.企業のレポートならば、申し訳ないが失格
感想3.日本書紀の細部に詳しいことを、暗に言い立てている感じ。こちらのコンプレックスか。
感想
4.自説に都合の悪いところは、資料をぼかす。通説で逃げる。資料の誤記説とする。
感想5.推古天皇以前の年代は全ていい加減として、外国資料との辻褄をあわせる。
感想6.古代のわれわれの祖先、倭人を、無知蒙昧的に見下している著述箇所が多い。
感想7.隋書俀国伝を、倭国伝と無造作に読み替え、その理由を示さない、教師としての傲慢さか
感想8・一つの命題に、仮定を設定し、その結果がうまくいかないと、更に仮定を重ね、謎が謎を増幅させている。
感想9.邪馬台国畿内説と言いながら、その論拠は全く示さないといってよいほど、その論拠は貧弱すぎる
感想10.銅鐸原始流通貨幣説には驚いた。
感想11.この先生はペダンテイックなところがあるようだ。通奏低音なる音楽用語が突如飛び出すなど。
感想12.もしこの先生が教鞭をとる高校で、この本が日本史の副読本的な取り扱いをされていたら、そこの高校生は可哀相。
感想13.高校時代習った幾何学で、難しい命題も補助線一本で解決する場合がありました。この本に、”倭国は筑紫の王国”という補助線一本で、この本の問題は殆ど解決すると思う。
さて、本論にはいります。
武蔵先生の「問題提起と其の回答」は、前述のように、日本の国号・タリシヒコ彦人皇子説・神武東征架空説の三つです。
タリシヒコ=彦人皇子説は、倭の五王の各天皇比定と密接な関係があるのですが、武蔵先生は、タリシヒコ単独で取り上げ、やれ、彦人皇子は、本当は天皇に即位していた・その在任は20年に及んだ・精神異常であった、などと単なる空想としか思われない論法では、論評のしようがありません。
神武東征架空説は、槍玉その7 宮脇俊三 古代史の旅で詳述しましたので、今回はオミットします。
そこで、日本の国号はどのように使われ始めたのか、特に、旧唐書と新唐書の食い違いの謎、と言われるところを検討してみたいと思います。
武蔵先生は、日本という国号は、壬申の乱の敗者大友皇子側が使い始めた、としています。そういう生い立ちのために、日本書紀に”日本の国号成立の由来”が示されていない、としています。
日本という国号の由来につきましては、中国の史書”旧唐書”に「倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となす」と記してあります。
又、日本と倭国の関係も書いてあるのですが、その記事が、旧唐書と新唐書では、微妙に食い違っています。
この食い違いを、検討しますと、日本の国号の由来や、「倭国」と「日本」の関係も浮かび上がってきます。
旧唐書と新唐書における日本という国号の取り扱われ方について
(本稿につきましては、古田武彦著”失われた九州王朝”1979年刊角川文庫および、”失われた日本”1998年原書房刊 を参考にしました)
”日本”が日本書紀に現れているのは当然、と思われるかも知れませんが、雄略紀21年の項に、”日本旧記”に云う、と言う形で、”日本”が現れています。この”日本旧記”という書名は、日本書紀成立以前に”日本”という国があり、その歴史書と理解せざるを得ないと思います。
又、百済本記に云う、と言う形で、日本書紀の継体紀25年に”日本の天皇及び太子、皇子倶に崩ず” と、外国史料に”日本”が使われていたことを記しています。
中国の史書に”日本”がはっきりと出てくるのは、唐書です。
旧唐書は945年の成立、新唐書は1060年の成立。唐帝国は618~907年の王朝。今問題にしている時期は、7世紀の終わりです。
なぜ、改めて新唐書が作られたか、その跋文にその説明があります。
「旧唐書は唐王朝の滅亡(唐の後裔王朝後晋936~946年)と同時に作られたから、唐の前半期については詳しいのですが、後半期については簡略になっている。しかし、現代(10世紀)に近い時期こそ重要。なので、改めてこの一書を撰した」とあります。
旧唐書の倭国に関する記事をみてみましょう。
そこには、「倭国伝」と「日本伝」の両国伝が併置されています。
「倭国」は金印を漢時代に授与された委奴国の後裔であり、領域は九州島を主領域としていると明瞭に説明しています。
「日本国」は、唐王朝の則天武后に公認され、「西と東は大海に至り、東と北は大山を限りとす」、とあり、日本の本州西半分の地形を示しているのは疑いようはありません。
ところが、この「日本国」が、本家の「倭国」を滅ぼし、併呑した、と言っているのです。
「倭国」が百済を支援し、白村江で唐と新羅の連合国に完敗しました。百済は即時滅亡しましたが(663年)、海を隔てた筑紫に本拠の有る「倭国」は、38年後(701年)に大波に呑み込まれ滅亡したわけです。
百済支援軍として筑紫の朝倉に来ていた、中大兄皇子の近畿王朝の部隊は、斉明天皇の死を奇貨として、喪に服する、と兵を引き上げ、結果、唐・新羅連合と戦わずに済ませることが出来たわけです。(備中風土記)
武蔵先生が、主張するような、「日本の国号の移動は、壬申の乱」という、いわば、王朝内のクーデター的な、ちっこい話ではない、ということです。

尚、旧唐書の編纂時点に近いところに、唐王朝の上級官吏になった、朝衡 という名まで貰った、阿倍仲麻呂(西安に仲麻呂記念碑がある・右写真)が唐に帰化人として存在していました。
彼が、筑紫王朝・近畿王朝の関係について、唐書編纂者に助言をしたことは想像に難くありません。
逆に、新唐書は、既に日本が倭国を併合し、日本書紀を正史として編纂し終わったあとの編纂です。
以後の遣唐使の面々も、日本書紀が正しい、と思い込んでいますから、いろいろとトラブル(実を以って答えず)が生じていることが、唐書に記されているわけです。
987年北宋に派遣された僧奝然(ちょうねん)が、日本書紀に基づいて、天皇系譜を記して、宋朝に提出した、ということが、新唐書に影響を与えたことも充分ありえたことでしょう。
武蔵先生は、同書24~29ページで、「旧唐書」と「新唐書」は全く反対のことを記している、としています。
旧唐書では、「日本はもと小国だったが、倭国の地を併せて大きくなった」と記し、新唐書では「日本は小国だったのを、倭国に併合され、倭国が日本の名を称するようになった」と記している。 これは旧唐書のほうが常識的であり、新唐書は理解しがたいと言っておられます。
それでは、旧唐書 『日本旧小国、併倭国之地』 と新唐書 『日本乃小国、為倭所併、故冒其号』をそのまま読んでみましょう。
旧唐書 『日本(併合後の国号の国)は元は小国であったが、倭国(筑紫)を併合した。』
新唐書 『日本(筑紫)は小国で倭(近畿)に併合され その後の国は、日本を名乗った。』
つまり、筑紫と近畿、どちらが大きかったか、という認識が、115年後に変わったようですが、『筑紫の王国が、日本を名乗っていて、(近畿)分流倭種王朝に滅ぼされ、日本国号も(本流倭種)として(近畿)王朝が引き継いだ』、ということになります。
倭国(筑紫)王朝があった、という補助線一本で、見事に解決するのです。
このことは重大で、日本書紀と古事記の根本的に違うところです。
筑紫(本流)王朝の事跡も、唐王朝に公認された701年以降は、(分流近畿)日本王朝が引き継ぐのも当然、という立場に、日本書紀は立っているのです。
これは、現代でも、伝統のある会社に、お家騒動が生じたとしましょう。その結果、例え分家が勝利しても、ノレンは、旧ノレンそのままに維持するのが当たり前、ということに思い至れば、理解し易いでしょう。
古事記が、その新時代の権力者の立場に100%立つことが出来なかっことが、正史として日の目を見なかった、最大の理由でしょう。
武蔵先生の説く、日本書紀から古事記が作られた、というのは、木を見て森を見ず、の喩えそのものと言えましょう。
(この項終わり)
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