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風呂の歴史
 

 
   古代ギリシャの風呂

  まずは古代ギリシャ以前のメソポタミアの風呂です。
紀元前4000年末頃の都市ウルクの神殿群の中に給排水施設を持った沐浴室が見つかっています。
 沐浴室は「浄め」のために用いられたと考えられています。
 紀元前3000年頃のエシュヌンナ宮殿では、沐浴室が5カ所見つかっているがそのうちひとつはトイレと併設されている。
 これは「浄め」というよりももっと実用的なものであり、王の私的なバス・トイレであろう。
 紀元前1800〜1450年頃のクレタ島のクノッソス宮殿の女王の部屋では、立派なテラコッタ製の浴槽があり、
排水施設も設けられており、隣の部屋に水洗のトイレが作られていた。
 この浴槽ではたぶん温水も用いられていたと考えられる。
この形の風呂がにアメリカで大発展する現代のバス・トイレの原形であるといういう点で注目される。

 
 古代ギリシャでは二つの系譜の風呂が見られる。
ひとつは、浴槽を用いた個人用の風呂である。これをバラネイオンという。
紀元前7世紀頃の上流階級の人々は温かい湯を使う風呂に入っていた。
この風呂は少し変わった形をしていて、浴槽の3分の1が座る部分で、足のところに浅い穴がつくられている。
浴槽に腰掛けた人に、他の人が湯を注ぐというタイプの風呂で、むしろ一種のシャワーみたいなものである。
赤ん坊のベビーカーの車を取ったような形を想像してみてください。
この風呂は初期の頃は女性用のものであった。
後に公共用の風呂が現れこのバラネイオンの形のものが使われた。

男性はもう一つ別の系譜のギムナシウムの風呂を用いていた。
ギムナシウムとは教育と体育の施設であった。
競争のためのトラックとレスリングなどを行う砂で覆われていた競技場、それに付随した水泳用のプールなどからなっていた。
競技場の周りの建物には小部屋があり、それらは着替えの部屋やオイルを塗る部屋、ボクシングをする部屋、
さらに討論する部屋や講義室、図書室などからなっていた。そして水浴するための部屋があった。
水が引かれ上部から水が出るようになっている。まさにシャワーそのものである。
シャワーの起源がここにあったのです。


  
古代ローマの浴場はギリシャの影響を受けて発達する。
古代ローマの風呂にはバルネアとテルマエといわれる2種類がある。
バルネアは紀元前5世紀から前1世紀の間に、ギリシャのバラネイオンの形やギムナシウムの風呂から
競技場や水浴場の痕跡が消え、オイルや飲食品を売る店が増えたり、床下暖房や壁暖房が始まったり、
個人用の浴槽がなくなり大きな共用の浴槽が出現して、ローマ風の浴場バルネアとして完成された形になった。

 
古代ローマの風呂は基本的には、冷ー暖ー熱ー暖ー冷と
徐々に温めていき、また徐々に冷やしていく方法をとっている。
人々はまず着替えの部屋に入って裸になり(腰布をつけることもある)、木製のサンダルを履き、
油の容器や洗う道具を持って冷気室に入る
次に暖温室に入りここで身体を洗ったりオイルをつけたりする。
そして高温室に入る。ここは約50度の温度であったと推定されている。
この部屋には約40度の湯の入った大きな浴槽がありこれにも浸かる。
また冷水を入れた水盤が立っていて、この水で浴槽に入る前に身体を洗った。
高温室では常時浴槽から湯が流れ出て床を濡らし、湿度は80%ほどであったろうといわれている。
高温室と暖温室の間に熱気浴室があるが、80度ほどの熱さがあり十分に汗をかいたであろうと思われる。
その後暖温室に戻り、またオイルをつける。
我々日本人には風呂上がりにオイルをつけることになじみはないが、乾燥地では必須のことである。
暖温室を出て冷気室に戻って熱い身体を冷ます。
ここにある冷水の浴槽が後に水泳用の大きなプールに変わるのである。
 
紀元前1世紀の末に、バルネアから発展したテルマエといわれるものが出現する。
テルマエのもっとも古いものは古代ローマに建てられたアグリッパ大浴場である。
長さ100〜120メートル、幅80〜100メートルほどの大きさで何度も改修されながら5世紀まで利用され続けた。
 次に紀元後64年に完成したのがアグリッパよりもさらに大きいネロの大浴場である。
建築技術も発展しガラスも用いられるようになった。
このネロの浴場は以後の浴場の基本モデルになったのである。

 
3世紀になって有名なカラカラの大浴場が現れる。
この大浴場は12万平方メートルの広さを持ち、一度に1600人が入浴できたといわれている。
アレキサンダーの息子の名前カラカラにちなんで名づけられたものである。
4世紀にはさらに大きなディオクレティアスの大浴場が作られている。
これらの浴場では、風呂に入ってくつろぐだけでなくボクシングやボール・ゲーム、レスリング、
重量挙げなどのスポーツもでき、劇場や図書館も配置され、さらに周りに多くの飲食店が建てられていた。
大ホールが作られ集会がもたれ、政治的な討論なども行われるようになる。
時の権力者の肖像や神話上の彫刻も飾られ一大アート・センターの趣があった。

浴場は単なる風呂から一大文化センターへと変貌したのである。
古代ローマの大水道は有名だが、1日8500万〜3億1700万ガロンの40%は
公共の建物や噴水、風呂にまわされていたというから、風呂文化の極地ともいうべき感がある。

 


北西ヨーロッパでの風呂を特徴づけるのは軍の風呂である。
軍の行くところ、どこでも古代ローマ型の風呂が作られた。
戦士には風呂が必要というのが基本的な考え方であった。
城の中に作られる風呂は一般に小さく500〜1000人ほどの人が入るものだが、
軍団の風呂は5000人〜6000人の戦士が入るかなり大きな規模のものであった。

地中海東部のシリアでは、スポーツという概念をまったくうけつけなかったので、
古代ローマ式の風呂がもたらされても競技場は受け入れられなかった。
また熱い空間よりも冷たい空間の方がより重要視された。
暑いこの地方にとっては、冷たい空間の方が快適であろう。
もっとも現実の問題として燃料入手の困難さもあった。
砂漠では燃料を豊富に手に入れるわけにはいかないから、高い温度の浴室は小さくなる
水の供給も難しいため、水を多く使わない個人用に小さく区切られた浴槽に変わる。
結果として競技場が失われ、高温室は小さくなる一方で、
着替えのある部屋や冷気室が大きく立派になった風呂ができあがる。
ここが社交の場となっていく。
これこそが後のトルコ風呂、より正確には
イスラームの風呂となるのである。
 
  イスラームの世界では、風呂はもはや記念碑的な壮大な建物ではなくなる。
アラブ人は、古代ローマ式の風呂に出会うまでは水浴などほとんどしたことのなかった人々である。
イスラームの風呂では、まず着替えたり休息したりするための部屋がある。
すぐに高温室に入り、マッサージ、散髪、体毛を剃ること、
放血、足のたこを削り落とすこと、垢を擦り落とすことなどが行われる。
ここでは湯をかけたりして、かなり蒸気も多かった。
次に熱気浴室に入った後、先の着替えの部屋にもどり、そこで冷たい飲み物を飲みながら休息を取る。
イスラームの風呂では、一般に流れのない水には入らない。
よどんだ水は清浄ではないというわけである。
こうして風呂から浴槽がなくなる。


 
 イラン
では事情が少し異なっていた。
イランでは、公衆浴場をギャルマーベ(湯という意味)という。
この風呂は、着替えと休息の部屋と浴室からなり、それぞれトイレと脱毛の部屋が付属している。
浴室には大きな温水の浴槽があった。しかしこの浴槽の水は、年に3〜4回しかとりかえなかったという。
おそらくイランではイスラームの風呂を受け入れる前から、温水の沐浴が普及していたのであろう。


  
ローマ帝国の崩壊後ヨーロッパ世界から風呂が消えていった。
この消えていくことにキリスト教が深く関わっていた。
性に対してきわめて禁欲的なキリスト教にとっては裸を見たり見せたりという入浴行為は許し難いものであり、
時には男女混浴などもってのほかである。
 確かにキリスト教の教会や修道院も風呂は持っていたが、それはひとつには洗礼の儀式のためであり、
また清潔を保つため、また風呂に付属した広間は集会のためのものであった。
決して楽しむような風呂ではなかった

 
北欧や東欧においてもキリスト教の普及につれて、風呂を心地よい快楽の方向へとは向かわせなかった。
 しかしキリスト教の影響を受けながらもサウナなどの風呂がとぎれることなく続いていた。
 西欧でもまったく風呂がなくなったわけではなく、大きな桶を用いての入浴ならあったし、
その種の温水の公衆浴場もあった。
 ところが風呂はしばしば売春などの放蕩と結びつき、
また姦通などのスキャンダルの温床となったりして、キリスト教の非難の的となった。
さらには燃料不足や伝染病の蔓延ともあいまって、風呂のイメージは悪くなるばかりであった。

 各地で公衆浴場の閉鎖令が出されるようになり、ついには中世末にはヨーロッパから風呂が消える。
後は桶で顔や手を洗うという程度になってしまう。
特に食事のさいに手を洗うことが重要視されたのは、風呂に入らなかったことがひとつの理由であった。
 こうした庶民とは別に王族達は豪華な風呂を持っていた。
例えば、ナポレオンが使ったというエリゼ宮殿の風呂はシャンデリアまでついている。

 
18世紀以後になって、ヨーロッパに風呂が再登場するようになる。
それは産業革命によって都市化が進むと同時に、都市は不潔の象徴となり病気にかかる人が多くなった。
そんな中で衛生という概念が生まれ、下水道整備などの具体的な形を取り始めた。
そんな流れの中から清潔にするための風呂が見直されたのである。
復活してきた風呂の一つは、ロシアの「白いバニア」である。
特に1815年ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ、ロシアがドイツに侵出したとき、
この地でロシア式の風呂(バニア)すなわちロッシアン・バスが作られ またたく間に広がった。
このバスはドイツ各地からウイーンやパリにも広がっていく。

いまひとつの風呂はトルコ風呂である。特にイギリスで普及した。
やはり工場の排ガスで汚れた都市の労働者のための風呂である。
しかし、この二つの風呂は長く続かず、技術革新のもとにこの後いろんな形の風呂が考案された。
 時代の要請は、経費も時間もかからない、簡便でそれでいて清潔さを保つ風呂ということで
ヨーロッパだけでなくアメリカでもシャワー入浴法が発展していくことになる。
コンパクトな浴室というものが定型として確立するのは1920年代に入ってからである。
ホーローびき鋳鉄製のバスタブが機械生産
されるようになり、
バスタブの大きさが浴室の大きさを決めるという方向に発展していく。
現在の、湯の出るシャワーと、湯で身体を洗う浅いバスタブ、
湯の出る洗面所、そして水洗トイレが組み合わされた個室型の浴室が、世界を制覇している。

 


この稿は国立民俗学博物館の吉田集而教授のご了解を得て、御著書「風呂とエクスタシー」平凡社、対談集 「風呂と日本人」慶応義塾より要約引用させて頂いて ます。吉田先生の直接の御了解を頂いております。     by hiromu,nakajima