混迷の世に漂って

歴 史 の お 勉 強




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もう一度、歴史を 4 焼き物



先日、観能ツアーで丹波篠山へ行き、丹波古陶館を見学した。(丹波焼き

一応、専攻は考古学だった。廻りの会話に取り残されないようにと、土器・焼き物についてはある程度勉強した積もりではあったが、なんせアンポンタンだったので、結局初歩段階で終わってしまっていた。

まあ、見た目での、土師器(はじき)と須恵器(すえき)の違い・陶器と磁器の違い、時代的な感覚、くらいしかわからない。
残っている言葉としては、縄文土器・弥生土器・土師器・須恵器(以上は当たり前の語句)・唐三彩・呉須・赤絵・古○○・白磁・青磁・釉薬・登り窯・有田・・・こんなもんかなゞ( ̄∇ ̄;)ヲイヲイ。
詳しくはようわからん。とにかく頭の上でそんな言葉が飛び交っているんだから・・・ヽ(~〜~ )ノ ハテ?
一時はよく指で弾いたもんだった、磁器は「チィーーン」といい音がするんだ・・(^∇^)アハハハハ! 
博物館や美術館の展示にも先輩や友達にくっ付いて行ったが・・・(〃⌒∇⌒)ゞえへへっ♪

それも30年も前の話・・・おぉーo(* ̄○ ̄)ゝーーーいっ!

元来鑑賞は苦手なので、展示されているものがどんな値打ち(金銭的ではなく)の物なのかよくわからないが、人の営みの中(歴史)での位置について、これを機会にもう一度勉強してみようと思う。


焼き物


粘土を捏ねて(こねて)器の形をつくり、乾燥させて焼くと堅い器、いわゆる「土器」ができる。今から1万年前以上も昔、人類はやわらかい粘土から堅い器ができることを発見した。
土器の発明により、煮炊きすることや貯蔵することが可能になった。その後、器を作る技術が進歩し、野焼きから窯へと焼き方が変わった。

当時使われていた焼き物は、土師器と呼ばれる素焼きの土器や、窯で焼かれた須恵器が主であったが、施釉陶器のように上薬(うわぐすり・釉)を掛けた美しい色彩の陶器や、磁器(これはずっと後、秀吉の時代)も作られるようになった。
 
土師器は粘土のひもを底の方から口の方に向かって順に積み上げていく輪積み或いは轆轤(須恵器の製作技法)で成形し、撫で・叩き・削り・切り離しなどで整形し、土坑の底に乾かしたを並べ、その上に燃料となる土器を枯れ草や薪を積み上げ酸化焔焼成する(焼成温度は摂氏600度から800度程度の低い温度)、赤褐色の土器。

須恵器は、轆轤で成形し、山の斜面などに築かれた登窯で還元焔焼成(焼成温度は摂氏1100度から1200度程度)して出来る青灰色を呈する硬質の土器。朝鮮半島の陶質土器に源流をもつ。

他に瓷器(しき・しのうつわ)がある。これはわが国最古の施釉瓷器で緑色、三彩鉛釉を施した低火度焼成の焼き物を言う。焼成温度は摂氏800度前後で、主に奈良平安時代焼かれていた。・・・o(@.@)o ナンジャコリャ!!知らんかったよ!!

6世紀頃から東日本では土師器の支流ともいうべき黒色土器が新たに出現し、また8世紀から須恵器生産の衰退した畿内以西でもその生産が始まった。
とくに西日本では11世紀以降、その黒色土器の後身といえる、碗と皿を中心とした瓦器(瓦質土器)が量産された。
土師器は中世になると供膳用の小皿や鍋・釜類が主体になり、これらはかわらけやほうろくなどとして中世・近世を通じて生産されつづけ現在にまで至る。

須恵器は土師器より高級品の位置付けで、平安時代末に官営生産体制が崩壊するまで、全国各地に設置された官営工房で生産されたが、奈良時代末に新たに出現した灰釉陶器や施釉が流行するにつれ、須恵器生産は衰退の方向に向かう事となる。
が、逆にその技術は全国に広がり、後の中世陶器の基礎となった。

こうして、土師器系の土器はつくり続けられ、一方須恵器系陶器・瓷器系陶器という2種類の陶器(須恵器においては自然釉の出現をみていた。窯内で灰がかかり、釉薬をかけたようになった偶然の産物であったが、瓷器は唐や朝鮮半島から影響を受けた人工的に施釉されたものである。)が各地で生産されるようになってくる。


貢納物として製作されていた物が、その制約から解き放たれ、やがて流通経済の中に組み込まれてゆく。都市部の需要により様々なものが生産地(主に地方というか、都市外)に要求されて、それぞれの文化へと発達してゆくのだろう。


やがて、茶器となり工芸品となり美術品となっていくのであろうなあ・・・( ̄〜; ̄)奥深いゾオ〜〜!!
作成者:F.S
2004/04/16