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安貞桓の煩い
ゴールは不思議な魅力を秘めている。02年6月18日、その瞬間はあまりにも唐突に訪れた。深紅に染まった大田スタジアムは地鳴りとともに揺れ始めた。韓国がイタリアを打ち破った。世界を驚愕させるゴールだった。決めたのは安貞桓だった。
時として、ゴールは人生を変える。頼りない若者をたくましい大人にすることも、新天地に渡るパスポートになることもある。珍しいことではない。そして安貞桓が決めたゴールはただのゴールではなかった。韓国の、いやアジアの歴史を塗り替えるゴールだった。伝統と栄光に彩られるイタリア代表は、長く悪夢に魘されつづけることだろう。
それにしても、イタリア戦のゴールがさらなる苦悩を安貞桓に突きつけるとは、一体だれが予想したことか。一躍、韓国のスーパースターに祭り上げられたその夜、イタリアにとって、彼はひとりの選手から悪の象徴へと一変した。
所属するペルージャのルチアーノ・ガウチ会長が毒々しい言葉を吐いた。「パンも食えないような貧乏人を育ててやったイタリアに対して、何ということをしてくれたんだ。ヤツはクビだ。顔も見たくない」ペルージャの安貞桓の自宅は、何者かに荒らされていた。車のタイヤはパンクさせられ、家の壁はナイフによって無残にも切り裂かれた。
ペルージャで控えに甘んじていた安貞桓にとってワールドカップは失敗が許されない勝負の場だった。思い通りにいかないキャリアを軌道修正するためには、ワールドカップの舞台に立ち、活躍しなければならなかった。崖っぷちの闘いに安貞桓は勝った。ところが現状は好転するどころか悪化してしまったのだ。00年7月、彼はイタリアに渡った。ただの移籍ではなかった。長く厳しい闘いの末に勝ち取った移籍だった。
韓国での安貞桓は「ファン1万人を連れて歩く男」と呼ばれ、所属する釜山ロイヤルズの本拠地・九徳競技場にはライバルチームがうらやむほど多くのファンがつめかけていた。入団した次のシーズンにリーグMVPに輝いたほどの実力があり、だれもがうらやむルックスを備えた男の移籍は、クラブの経営に痛手を与えると思われた。だからこそ、大宇財閥からロイヤルズを買収した現代財閥の釜山アイコンズは、安貞桓の移籍をなかなか認めようとはしなかった。
それでも、安貞桓は折れなかった。釜山に留まれば、人気者としての地位に安住できる。だが、プレーヤーとしての本能がそれを許さなかった。「ヨーロッパ」を事あるごとに口にしてきた男は、アイドルとしての地位を擲ってでも、プレーヤーとしての将来に懸けたのだった。ペルージャに旅立った安貞桓は、自信に満ちあふれていた。マネージメントと担当する「イー・プレイヤー」の安鍾aiアンジョンプク)代表は、当時を振り返ってこう語る。
「中田英寿と比較されることは本人も予想していましたが、自分は中田以上だという自負をもっていました。彼はユース時代からの中田のプレーを見て、そので自分の能力が勝っていると考えていたのです」
大勢のメディア、ファンに見送られたときの落ち着いた表情は、イタリアに着いてからも変わらなかった。入団会見で早速、彼は言ってのけた。「中田以上のレーをする自信がある」だが、中田のサクセスストーリーを、安貞桓がなぞることはなかった。問題だらけの毎日だった。ペルージャが用意した女性の通訳はサッカーを知らず、セルセ・コスミ監督の指示が正確に安貞桓に伝わらないこともあった。
「ゴールに向かえという指示が、なぜかボールを戻せという言葉で伝わっていたのです」
プレイスタイルも、イタリアにフィットしなかった。高校でも、大学でも、釜山でも、安貞桓は王子のように振舞ってきた。大胆なフェイクでマーカーを振り切り、ドリブルで敵陣を切り開く。加えて、展開力にも秀でている。すべてのプレーを申し分ないレベルで見せてきた安貞桓にとって、Kリーグは狭い世界だっただろう。だが、新天地に彼の望むサッカーは存在しなかった。ガゼッタ・デッロ・スポルト紙でペルージャを担当するジャンフランコ・リッチは、コスミは安貞桓を早々と見切っていたのだと明かした。
「ペルージャは3−5−2システムを採用したが、トップ下を置かなかった。最初から適当なポジションはなかったわけです。ただ、コスミは言っています。インテルのディ・ビアッジョのように攻守にわたって貢献できる選手だったら起用していた、と。つまり、中途半端な選手だったのです。イタリアのマークの厳しさにも戸惑っていました。パスをもらってもすぐに奪われ、次への展開ができない。相手に与える怖さもない。安貞桓の技術をみせるサッカーは、組織を重視するコスミには受け入れがたかったのです。早めにボールを動かせと指示しても、彼のところで流れが止まってしまう。紅白戦では頭を抱えるコスミを、よく目にしたものです」
安貞桓をもっとも悩ませたのは、見えざる敵、中田の存在だった。看板選手の現状を案じ、安鍾n≠ヘ何度も渡欧を繰り返した。だが、そのたびに悩みを深めて帰国することになった。
「ペルージャが選手としてよりも、ビジネスの対象として安貞桓を見ていることが次第に分かってきたのです。ガウチ会長は顔を合わせるたびに、中田のときはたくさんの日本人が観戦に来たが、どうして韓国人は観戦ツアーをしないのか・・・そんなことばかり口にするようになった。私は安貞桓と何度もミーティングをしましたが、彼もそのことで心を痛めていました」
”スタジアムに1万人を動員する男”でなかったら、起こりえない問題だった。その一方で、人気があったからこそ、ヨーロッパでプレーする機会を得た、と考えることもできる。整理するのも難しいくらい、多くの問題が横たわっていた。だが、ペルージャの思惑を逆手に取るほど、安貞桓サイドがしたたかでなかったことは確かだ。
安貞桓の人生は闘いの連続だった。それは大げさではなく、生きるための闘いだった。臨津江のほとり、38度線に近い斗浦里という村に彼は生まれた。そこは、ソウルから車で1時間ほどの距離にあるが、韓国でも発展の遅れた地域のひとつである。軍用車が土煙を上げて山間を走り抜け、小山の陰に速射砲が並ぶ。時折、北朝鮮に向けた政治放送も聞こえてくる。いまもさほど変わらないが、安貞桓が生まれた70年代の斗浦里は、農民とアメリカ軍人、さらに軍人を相手に商売する人々が住む寒村だった。
そんな貧しい村の貧しい家庭に、安貞桓は生まれた。彼は父親を知らない。4歳にして事故で他界した。母はギャンブルで身を持ち崩し、息子が有名になってからも雲隠れしたままだった。去る10月18日には、窃盗容疑で逮捕されたことも明るみに出た。そんな安貞桓を支えたのは、母方の伯母だった。57歳になる伯母は、スターになった甥の少年時代を鮮明に覚えている。「サッカーを始めたのは5歳のころ、斗浦里から引っ越したソウルの郊外では、近くの大学の運動場で毎日ボールを蹴っていました。すぐにボールを潰してしまうほど、足の力が強かったんですよ。真剣にサッカーをやったらどうなの?と言ったのは私です。父がいなくても責任感のある子供に育ちました。何でも最後までやりにく子どもでした」真面目に育ったとはいえ、いつも期待どうりの少年だったわけではない。サッカー選手として頭角を現しつつあった高校時代、問題を抱えた家庭を飛び出し、しばらく戻らなかったこどがある。
「彼の母親と私で捜し歩いていると、隣村の飲み屋にいたことがあって・・・あの子、自棄を起こして焼酎を何本も空にしていたんです。高校に行かなかったときは、私が彼を学校の監督の前に連れて行って謝らせもしました。これからはサッカーに専念します、許してくださいと言って、改心の証しとして頭を丸めました。それから本当にいい子になりました。ボールもスパイクも買い与えていましたから、中学校のときには母親よりも私に懐いていたんですよ。プロになって二階建ての家を買ってあげるんだ、二階は伯母さん、一階は母さん、みんなで暮すんだって言ってました。いまも身体に悪い私に生活費を払ってくれて・・・」
高校時代は子供にサッカーを教えたり、工事現場で働くことで、安貞桓は一家を支えてきたのだった。安貞桓をい知る人は口々に「男らしい」「スターになっても変わらない」と語る。ワールドカップ前は代表での実績も数えるほどで、人気が実績に先行する現状を批判する声は根強かった。たしかに、そうした傾向はあったかもしれない。だが、安貞桓は決してスターぶるような男ではない。ミスコリアにも選ばれた妻に暇さえあれば「食事は摂ったか?」「寂しくないか?」「そこに住んでる人はどうなるの?」「今日は何時に帰る」と電話をかけるのは、これから築く家庭を幸福に満ち溢れたものにしたいからだ。また、この夏には水害に遭った江原道の人々に義援金を送っている。それは、彼が苦しむ人々の気持ちを理解できるからだろう。恵まれない家庭で育った苦しみを、安貞桓はいまも忘れていない。
そうした言葉に説得力を与えるのが、ペルージャに移籍したときのエピソードである。イタリアに出発する安貞桓を取材するために、空港にはたくさんの記者つめかけていた。公の場には滅多に姿を見せなかった母親も見送りに来ていた、スポーツ紙ではなく一般紙の記者たちは彼が母子家庭で育った過去を知らない。だから、こんな質問が投げかけられた。「なぜ、お父さんは来ていないのですか?」安貞桓は微笑みを浮かべたまま答えた。「いえ、来ていますよ。この人です」傍らにいた男性を紹介したのだった。「私はちょうど姓が同じだからねえ。母親を思いやって、そう答えたのでしょう」安鍾n≠ヘ、息子の自慢話をする父親の表情になった。
プレーヤーとして、アイドルとして、安貞桓という男は、ワールドカップから芽生えつつある、新しい日韓関係のシンボルになるのかもしれない。
ワールドカップにおいける活躍で、皮肉にも苦悩はさらに深まった。自身を悪者扱いするイタリアに安貞桓は嫌気がさしていたが、釜山に戻る気にもなれなかた。ヨーロッパに出て行った苦労が水泡に帰すことは耐えがたかった。彼は英国、もしくはスペインへの移籍を望み、いくつかのオファーも届いた。だが、移籍の自由はなかった。レンタル元の釜山アイコンズと所属するペルージャが互いに所有権を主張し、泥仕合に発展したのである。1年目はレンタル、2年目からは完全移籍で安貞桓を買い取るとしていたペルージャは、2年目もレンタル移籍を継続し、時間稼ぎをしていたが、ワールドカップでの活躍によって安貞桓の価値が高まると、ビジネスに利用していたのだった。これと並行して折衝をしていた英国ブラックバーンへの移籍も、代表での出場試合が少ないため頓挫した。ヨーロッパの移籍マーケットが閉まったとき、安貞桓はどこのクラブにも所属していない浪人になっていた。
現在、清水エスパルスでプレーする安貞桓があるのは、在日社会にもかかわりがある日本のマネージメント会社がペルージャと釜山アイコンズへの移籍金を肩代わりし、安貞桓の身柄を買い上げたからだ。働き場のない安貞桓に、Jリーグへの道が開かれた。だが、すべてが好転したわけではない。時間が経つにつれ、ワールドカップでの活躍はヨーロッパで忘れ去られる。26歳の安貞桓に、ヨーロッパで成功するために残されたチャンスは少ない。
それでも、ようやくプレーする場所を見つけたことで、生気は戻ってきた。亜州大学時代の恩師・金喜泰氏に、喜びの声が届いた。「昨日、電話があって、いまは心が落ち着いています、奥さんを連れて観戦に来てください。と話していました。彼は真面目な男です。高宗秀や李東國らと一緒に派手な遊びをしていた時期もありますが、敬虔なクリスチャンである奥さんと結婚して変わったんです。いずれJリーグ最高の選手になるでしょう」恩師の心配は取り除かれた。だが残念ながら、人生ゲームは振り出しに戻っただけだ。そして、またしても出目が悪い。
今シーズンの清水は極度の不振に見舞われている。スドラヴコ・ゼムノヴィッチ監督と選手の折り合いは悪く、チームは覇気のない闘いで黒星を重ねている。パスのまわらないいまの清水で、安貞桓の見せ場は少ない。「身体能力が高く、キープ力や突破力もある。ボールを持つと何をするか分からない怖さがありますね」同僚の三都主アレッサンドロは安貞桓の印象をそう語ったが、考えようによっては安貞桓をうまく生かせない、いまの清水の悩みを言い表しているようにも聞こえてしまう。潜在能力の片鱗を見せている。パスを受けてからドリブルへの移行は恐ろしく速く、マーカーを抜き去るときの瞬時のギアチェンジも、並大抵の選手ではないことを物語る。ただし、まだ何もしていない。何かが変わる気配もない。いまのところは。
清水での安貞桓は2トップの1角を占めているが、ボールが集まるバロンの横で何をすれば良いのか戸惑っている。鋭いドリブル突破はほとんど見られず、シュートを撃つシーンも少ない。チームメイトとのパスのタイミングにも、まだギャップがある。つまりペルージャでそうだったように、清水でも中途半端な存在に終っている。そもそもチャンスメイクなのか、それともゴールなのか、彼に求められているものは何なのだろう。元々、安貞桓はCFのタイプではない。むしろトップ下、もしくは右サイドが適正だとする声は少なくない。自分の特徴を生かせない清水での悩みは、もしかするとイタリア戦のゴールとも無縁ではないのかもしれない。大舞台での刺激的なゴールは、ときとして選手の誤ったイメージを植えつける。多くの人々が安貞桓にゴールを、そして指輪にキスする歓喜のパフォーマンスを期待している。もちろん、ゴールは決めなくてはならない。清水を救わなければならない。だが、ゴールへの過度の期待は、彼に道を誤らせることにはなりはしないだろうか。
人見知りする安貞桓は、来日後もポーカーフェイスで過ごしてきたが、東京ヴェルディとの一戦では鬱積した苦悩を隠しきれなくなったようだ。守備で貢献しようと自陣に引いた前半には、失点につながるFKを与えてしまった。後半には自ら奪われたボールを取り返そうと懸命に戻ったが、レフェリーにファウルを宣告されると不満げに手を振り上げそっぽを向いた。
試合後は、すでに分かっているはずのJリーグの儀礼にも倣おうとはしなかった。終了の笛と同時にベンチ脇に歩みを進め、センターサークルで挨拶するイレブンを他人のように眺めながらドリンクを口にした。黄色い歓声に右手を挙げながらピッチを去ったが、恐ろしく無表情だった。それでも確かなことはある。プレーヤーとしての才能ばかりではなく、そのアイドル性をもビジネスにしようともくろむ人々に囲まれて、安貞桓は生きている。会見でも試合後でも、彼はジェントルマンを貫き通す。おそらく、プレーヤーとしての欲望とアイドルとしての義務とが激しく鬩ぎ合う中で、しぶとく生きていく覚悟ができているのだろう。
そして彼は偶然、日本にやって来た。それは単なる仕事場としてではなく、複雑な感情を背負って来日した先輩たちと異なるケースである。来日早々の「腰掛け発言」が物議を醸したが、声援は日増しに高まっている。プレーヤーとして、そしてアイドルとして、安貞桓という男はワールドカップから芽生えつつあるのかもしれない。プレーヤーとしての欲望が、たとえ道半ばにして潰えようとも・・・。
日本平のスタンドに陣取って、慣れないハングルで声援を送る大勢のファンの姿に、なによりその予兆を感じる。
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