竹川竹斎の功績

※ 赤字部分にカーソルを合わせていただくと、説明が表示されます


竹川竹斎は、文化6年(1809)、父竹川政信、母菅子の長男として射和に生れた。竹川家は幕府 御為替御用を務めるほどの豪商で、本家、新宅、東の三家からなり、竹斎は東家で、幼名を馬之助といい、 文政6年(1823)、元服して新兵衛政肝と改め、嘉永7年(1854)、隠居して竹斎と号した。

父は文化人で、母は山田の国学者、荒木田久老の娘で、両親の血と厳しい教育を受けて成長した。
当時、商人は商売以外の勉強は禁止されていたが、竹斎は生来読書好きで、『自筆年表』(以下年表)に 「本屋に通い、和漢古今書読むこと数千巻」といい、まつ「若年より書を集めること一万巻」と 述べている。

21歳で家督を継ぐと、彼が意欲的に取り組んだのは池普請であった。佐藤信淵に農政学、奥村増賂に 農業土木を学んだ。時あたかも天保の大飢饉で、難渋のうえに難渋を重ねた哀れな農民の姿を見て意を決し、 天保8年(1837)6月、「上の池」普請に着手、翌年11月、完成した。使役したおよその人員 8万5000人、3500両の巨費を投じた。さらに、天保14年には「下の池」を自費350両を投じて 改修した。

次の事業は、射和文庫の創設である。竹斎自身読書好きで、1万巻の蔵書があり、好書生のために自由に 読書させてやりたい、将来、国家に役立つ人材を養成したいというのが動機であった。安政元年(1854) 開設、月々の3の日を授業日として出発したが、実際は竹斎自身持病に苦しみ、床に臥すことが多く、 そのうえ店の経営不振で、文庫の運営も思うようにいかなかったようである。

次に起こした事業は、外国向けの製茶業である。彼は多くの書を著し、盛んに唱えられる攘夷論に、おくすることなく堂々と開国論を 説き、農商を振興し、国を富ますべしと論じている。文久元年(1861)、中万に製茶工場を建て、 地元民100人余りを使って出発した。文久2年の年表に「ちと旨過ぎて」と順調な滑り出しであったが、 翌年5月10日、攘夷の日が決定されると、外国商人は国外に逃げ、事業は致命的打撃を受けて挫折した。

次の事業は、射和万古窯の創設である。万古焼の祖、沼波弄山(1718〜77)は将軍御数寄屋御用を務めたほどの名手であるが、 後継者がなく、彼一代で終わった。沼波家と東竹川家とは縁故関係にあったことも手伝って、 竹斎は万古焼再興を志し、安政2年、 会下前(射和小学校裏)に窯を築き、井田己斎、奥田弥助、上島弥兵衛など名声の高い陶工を 招き、伜政悌、弟竹口信義を売捌方 として出発した。 しかし、世相は開窯の理想と遠くかけ離れ、竹斎自ら年表にいうように「上物は捌け少なく、過半数は勝手使いの常用品のみ焼く 始末」で、店の経営悪化が重なり、文久3年「多額の損耗に及んで」廃窯した。

竹斎の偉大さは、起こした事業もさる事ながら、彼を取り巻く人物を見ることにある。勝海舟、大久保一翁は心を許しあった友であり、当時幕府の第一人者小栗上野介は礼を尽くして、財政建て直し策を再三竹斎に請うほどであった。明治15年11月、竹斎は74歳で逝去した時、海舟は墓前に次の歌一首をささげている。

世のことを 望みなき身の心しりて 友のすくなく 成るぞわびしき