田方の医史と医家伝  最終更新2007.3.6 Since2001.6.21

ホーム
旧戸田村
旧土肥町
旧天城湯ヶ島町
旧中伊豆町
旧修善寺町
旧大仁町
旧伊豆長岡町
旧韮山町
函南町
link

 

河合みね伝

 

 看護職というものは、非常に地味な仕事であり、政治の舞台にでも登場しない限り、どんなにすぐれた業績を残しても、とかく人の目に触れにくい立場であるといえる。ここに紹介する河合みねも、そんな、目だたない地方実践家の一人である。

  

従軍看護婦へのあゆみ

 河合みねは大正5年2月25日、静岡県田方郡伊豆長岡町に生まれた。父内田友一郎・母はつの長女で、生家は代々の農家だった。小さな頃から才気煥発で、沼津高等女学校に進学した後は、戦争に急傾斜してゆく当時の世相と教育の中で、従軍看護婦として国のために尽くしたいと考えるようになっていった。そして女学校を卒業すると同時に、ためらわず日赤救護看護婦生徒として東京の本社病院養成所に入学した。同期生に前武蔵野赤十字病院看護部長大嶽康子や、「病院船の歌」で知られる西沢都弥たちがいた。
 軍人はいうに及ばず皇族、華族の看護まで行える看護婦の養成機関として、当時の日赤は、全国の最高峰に位置していた。それだけに教科内容も規律も厳しかった。日赤の養成する看護婦は医師の助手ではなく、プロの職業人なのだ。だから、患者の観察や処置はもちろん、配膳や病室の掃除に至るまで自分の納得するまでやれ、という教えは、今もみねの胸の中に生きている。昭和
10年3月、卒業と同時に日赤静岡病院に奉職したが、同年10月、選ばれて救護看護婦長候補生として再び日赤の学窓をくぐる。1年間の修養を終えた後、日赤静岡病院、三島陸軍病院を経て、昭和12年10月は救護看護婦長として応召、病院船巴洋丸の勤務に就いた。
 太平洋戦争開戦前、日本軍の戦果華々しい頃で、
20才の若さと愛国心で激務によく耐え、上海、台湾と、足跡を残した。ところが1年余の後、真冬の濃霧の夜、巴洋丸が座礁、沈没する不幸にみまわれた。この時、わが身をかえりみず傷病兵の救助にあたったものの、海水と霧にまみれて肺炎をおこし、広島港に着くとただちに広島陸軍病院に入院することになった。しばらくして快復したがそのまま召集解除、郷里にもどって古巣ともいえる三島陸軍病院に婦長として勤務、ここで終生の伴侶となる河合和雄とめぐりあう。25才の時だった。

 

満州へ、そして流離

  昭和17年3月、職業軍人だった和雄の軍務の関係で新生活は満州(現在の中国東北部)で始まった。ここで長女晴代が生まれたが、疫痢のためわずか2歳で逝ってしまった。色々な事情はあったものの、わが子を救うことが出来なかったということがとても辛く、重い記憶となっている。昭和20年4月に長男勝也が誕生、この時、和雄は北支に出動中で不在だったが、叔母の古沢なおが手伝いにきてくれた。あわただしくも束の間の平和な時期だった。
  同年
8月9日未明、ソ連が不可侵条約を破って日本に宣戦を布告、満州に攻撃を開始した。かつて精強を誇った関東軍には往時の力はなく、怒涛のごとく押し寄せるソ連軍に一撃を加えることもできなかった。みねたちが暮らしていた王爺廟は、西部国境から侵攻してきたソ連軍の通過目標地だった。ただちに疎開が始まり、駅には女と子どもの群れがあふれた。最終の疎開列車になんとか乗り込み、朝鮮国境近くの安東省通化までのがれてきたが、ここで日本の降伏を聞いた。通化には中国共産党第八路軍が進駐してきた。
  八路軍統治下の通化で、古沢なおが亡くなった。栄養失調だったのだろう、苦しい思いだけさせて何も報いてあげられなかったこの叔母のことは、終生忘れないと、みねはいう。当時、国共内戦を戦っていた八路軍は陸軍病院運営のため、現地に残された日本人婦女を徴用した。それは日本人にしても、生きるための仕方のない選択だった。看護婦資格を持つみねは、病院で大いに重宝がられた。病院とは云っても、民家を改造した粗末な建物で、薬剤や衛生材料も乏しかった。ここで幼い勝也を育てるため、一心不乱に働いた。
  伝染病棟での勤務を終えた後など、唯一の消毒薬だった石灰酸で全身を消毒し、勝也に乳を与えた。そんな時、自分の世界が一変したことをつくづく思った。何とあわただしく、そして激しい変わり方だったのだろう、8月9日の、ソ連参戦からまだ1年もたっていない。その間に日本は降伏し、叔母は亡くなり、かつての誇りある日赤の従軍看護婦は敗戦国民となって、いま敵国の兵士の看護をしている。しかし自分は看護婦なのだから、それはあきらめもつく。あきらめきれないのは胸に抱いているわが子のこと。父との対面もしていないこの子を、どんなことがあっても日本に連れて帰ろう、その日まで、どんなに辛くても頑張ろう、と胸に誓った。
  八路軍の兵士は規律もよく、親切だった。「日本に帰らずにずっとここにいてくれないか。子供のために専門のメイドもつけよう」と本気でいってくれた。しかし帰国の夢があるので、いつもやんわりと断わり、機会の訪れるのを待っていた。機会は来た。昭和21年10月、日本への引き揚げが開始されたとの知らせが届いた。みねはすぐに、ねんねこにくるまった勝也を背負い、手にはわずかな荷物を持って、他の同胞と一緒に奉天をさして出発した。
 通化から奉天まで直線距離で二百数十キロ、昼はひたすら歩き、夜は野宿した。この道中、何度も地獄をみた。日本人の群衆を、飢えと、寒さと、伝染病とシラミが容
赦なく襲った。毎日毎日子どもが死んで、真新しい白木の墓標が点々と立った。また、内戦は、いつ無力な群衆を巻き込むかわからなかった。「病院船に乗っていた頃は敵機も機雷も何も恐いとは思わなかった。でも、奉天を目指していた時は毎日が恐怖の連続だった。死ぬことが本当に恐かった」とみねは述懐する。やっとの思いで奉天にたどりつき、引き揚げ列車に乗ったものの、無蓋貨車の中に立ちっぱなし、折りからの台風の風雨にさらされて、生きたここちもしなかった。こうして苦しい旅を続けてコロ島にたどりつき、舞鶴行きの船に乗り込んだ時、初めて大きな安堵を覚えた。貨物船の船底で、身体中びしょぬれだったけれど、これで祖国に帰れるのだ、と、希望が湧いてきた。

 

帰国、新たな旅立ち

  数知れない想いを満州の地に埋めて、4年ぶりに祖国に帰ってきた。母子ともに着のみ着のまま、栄養失調で膨満した腹を抱えて、一路、和雄の生家のある三島に急いだ。ここで一足早く引き揚げていた和雄と、感動的な再会を果たすことができた。初めて親子3人の生活を迎えたが、戦後の食料難、物資不足の時で、みねも夫を助けて働かなければならなかった。
  昭和23年、一家は伊豆長岡町に移住、翌24年、町役場に看護婦として勤めはじめた。戦後は肺結核患者や乳幼児の栄養失調が多く、看護婦や保健婦が大活躍をした時期だった。自転車に乗れないみねは、歩いて町中の患家を訪問、さまざまな指導を行った。昭和25年、伊豆長岡町に国保直営診療所が設立されると同時に主任看護婦として同所に勤務、以後の一貫した地域住民の中での看護婦活動の記念すべき第一歩を踏み出した。昭和26年12月、国保診療所は町に移譲され、町立伊豆長岡病院が発足するにあたって初代看護婦長に就任した。90余床を備えた伊豆長岡病院によせる地域住民の期待は大きく、毎日多くの患者が病院を訪れた。みねはこの人たちの期待に応えるべく、10人余の看護婦を指揮し、病棟に、外来に、また往診の介助にと、めまぐるしく飛び回った。この時の院長はかつて新京満鉄病院の院長を勤めていた飯田博。医師としての威厳と共に深いヒュ−マニズムを備えた人格者だった。みねは飯田院長を助けて働く中で、病気をみるだけではなく、患者の日常生活や家庭的背景まで含めて指導できる看護婦としての奥行きを培っていった。傷病軍人の看護に命を燃やした青春時代から、生きるためゆえの異国での病院勤務をへて、いま民衆の中に生き、民衆と視線を合わせた仕事を生きがいとする看護婦になっていた。
  昭和
35年頃から始まった病院ストは全国に波及し、伊豆長岡病院にも及んできた。争議は泥沼化し、病院の運営にも深刻な影響を及ぼしはじめた。この頃数キロ先に付属診療所が開設されることになり、みねはためらわず診療所に赴くことにした。新しい職場で、患者のため、自分のもつあらゆる力を傾けて看護をした。職員の意気込みを反映し、付属診療所の業績はめざましかったが、逆に本院は長期に及ぶ争議に疲れ、職員の意気も技術も低下して、地域の信頼もまったく失うに至ってしまった。町はこの時点で本院を手放すことを決断、昭和42年、町立伊豆長岡病院は16年の歴史の幕をおろした。病院を買収、引き継いだのは学校法人順天堂だった。
  順天堂大学医学部付属となった伊豆長岡病院の院長には気鋭の脳外科医、菊池貞徳が就任した。菊池院長は病院立て直しのために、地元住民から絶大な信頼を寄せられているみねを婦長として招いた。体制が変わってしまった病院に戻ることにある種の抵抗もあったが、そこには昔から自分を慕い、伊豆長岡病院を頼ってくれた患者たちが待っているのだ、と考えて菊池院長の申し入れを引き受けた。51才の時だった。以後菊池院長とは、今日に至るまで様々な形で協力しあう間柄となる。
 順天堂伊豆長岡病院は急速に整備され、大きくなっていった。木造の病棟は鉄筋コンクリ−トに立て替えられ、ハエたたきとスト−ブが必需品だった板張りの手術室は、近代的に作り替えられた。診療科も増え、徐々に県東部の基幹病院としての実力を備えていった。大学付属病院としての利点と、町立時代からの地域病院としての伝統を見事に融合させた菊池院長の経営手腕の賜ともいえよう。
  一方みねは、大きくなった看護婦集団のトップとして、管理業務に忙殺されるようになっていった。それが今の自分に与えられた仕事であることは重々分かっているし、与えられた仕事は常に全力で遂行してきた。でも、看護の現場に出たい、直接患者さんのお世話をしたい、という思いは次第に強くなっていった。そして昭和49年、「私は看護が好きだから、この仕事に一所懸命とりくんできた。これからも、ずっと看護婦を続けてゆくだろう。でも、機構の中で仕事を続けてゆくことには、いささか疲れた」という言葉を残して順天堂伊豆長岡病院を去った。58才、機構改革にともない新設された総婦長ポストに座ったのは1年足らず、文字通りの勇退だった。
  この後、頼まれるままに役場の看護婦や女子高校の養護教諭、あるいは知己の医院開業手伝いなどの仕事を引き受け、自分の経験と能力をのびのびと発揮していたが、またしても招聘の声がかかった。田方郡下の町村と医師会の共同で、財団法人田方保健医療対策協会が隣町の大仁に設立された。この協会は救急医療の整備と、成人病予防対策の推進を目的に設立されたもので、菊池貞徳順天堂伊豆長岡病院院長が専務理事に選ばれていた。菊池専務は、昭和
57年10月の協会付属病院開院にそなえ、実力ある婦長をさがしていた。66才になっていたみねは、高齢と、もう病院勤めはしたくないという思いを理由に固辞し続けた。しかし菊池専務に新しい病院の理想を説かれ、軌道にのるまでの2年でいいから力を貸してくれ、と請われて、ついに本当にこれが最後の勤めなのだと自分に言い聞かせながら、婦長に就任した。
  「なぜかいつも、新しい病院が出来るときの開設メンバ−だった。開院前後の物品用意や、混乱への対処は本当に大変だったが、先駆者としての喜び、誇りを何度も持てたことは幸せだった」とみねは語る。約束の2年は半年延びたが、新しい病院の看護を立派に軌道に乗せ、後進も育て上げて、54年に及ぶ白衣の暮しに別れを告げた。

 

限りある身の力ためさん

  長い看護婦生活の中で、みねは多くの後進を育ててきた。若い人は今は未熟でも、みな明日の看護の担い手なのだと考え、知識、技術、人間性の向上に力を注いだ。多感な世代のよい相談相手であり、頼れる指導者だった。また、結婚は人間性を広げ、看護の奥行きを深めると考えて後輩にも結婚をすすめ、仲人役も何回もやった。みねの薫淘を受けた人たちの多くが今、静岡県内の看護界のリ−ダ−になっている。その一人はみねをこう語る。「仕事にも厳しかったが、自分にも厳しい人だった。叱るときも決してあいまいな叱り方ではなく筋を通していたし、逆にこちらに悩みがある時には何時間でも話を聞いてくれ、その上で問題解決のヒントを与えてくれた。いつも若い私達のことを真剣に見つめ、考えてくれていた人だった」
  みねの多年多面にわたる活躍は社会的にも認められ、昭和15年の勲八等瑞宝章受章をかわきりに、昭和30年国保団体連合会表彰、昭和40年県町村長会会長表彰、昭和59年静岡県知事表彰と、褒賞が続いた。
  平成元年2月、みねの最大の理解者であり協力者だった夫和雄が死去した。謹厳無口な人で、増悪する病勢にもじっと耐え、静かな、そして威厳ある死をむかえた。軍人だったから、昭和天皇の後を追ったのだろうという言葉に続けて「息子は町内のカギっ子第1号だったし、主婦として家庭を十分かえりみることは出来なかった。夫の目に見えない協力がなかったら、仕事はとても続けてこれなかった」と語る瞳に、故人への惜別の色が隠せない。
 河合みね、今年74才になった。大正生まれの人の多くがそうであるように、この人も激動する時代の中で波乱に富んだ人生を過ごしてきた。しかしそれは、絶対に流されて行く人生ではない。みねはどんな状況下でも強い意志と信念をもって生きてきた。それは人間が好き、という心と、自分が選んだ看護の道だから、という意志、そして看護の仕事とは、ささやかながらも人を援助する仕事なのだから、常に襟を正し、研鑚に励まなければならない、という信念だ。
  現在伊豆長岡町の健康づくり協議会委員を務めている。目も耳も足腰も丈夫だが、相変わらず自転車に乗れないから、今も歩いて地域を回っている。伊豆長岡町のボランティア団体のまとめによると、母子保育、成人病予防、老年期の暮し方などのテ−マのもとでみねが指導した人は、平成元年度だけでのべ900人にのぼる。
  ライフワ−クといってよいほど力を注いでいるのが、在宅ケアの問題だ。急速な高齢化がすすむわが国では在宅ケアニ−ズが急増している。それは郡部である伊豆長岡町においても変わりはない。ニ−ズが高くても、地域での受け皿はあまりにも不十分だ。寝たきりのまま、病院を追われるように退院してくるお年寄りは、多くの場合、家庭でも恵まれない。そんなお年寄りをみると、みねはすぐに行動をおこす。辱創処置や排泄ケアにとどまらず、起床させ、動かし、歩かせる、いわば寝たきりを作らないための総合的な援助を試みる。しかし、個人で出来ることは、あまりに小さい。も
っと多くの人手が欲しいし関連機関のネットワ−クも作りたい、そのためにも行政にイニシアチブを発揮してもらいたいといつも思っている。
  忙しい活動のあいまに詩吟や書道の稽古、また自宅の裏庭での野菜作りなど、休む間もない。「山中鹿之助の歌にあるでしょう、限りある身の力ためさん、というあれ。まだまだ私も人のお役に立てると思うし、ぼけたくないもの」こう云って微笑むみねの顔が、希望に燃えた新人ナ−スのようにまぶしかった。

 

                月刊「ナースアイ」1990年6月号掲載