|
もう30年以上銀山湖に通ったと思う。
昭和36年に奥只見ダムが完成しているので、38年か39年には ダムでルアーを投げていたと思う。 奥只見の溪々で毛ばりを振っていた頃は、30〜40cmのイワナが 20〜30匹釣れれば、その日はそれでよかった。 ある時中之岐方面へ行く時、今はもう亡くなった三渓荘の主人の紹介で 村杉小屋の主人、佐藤進氏と初対面した。 2人で数時間かけて中之岐川まで歩いていったものだった。 41年からは常宿を村杉小屋に移し、ダムを釣りまくった。 当時、東京まで列車で8時間かけて行き、「ルアー」なるものを探し回った。 やっと見つけたABUキラーは、当時も1,200円くらいだったと思う。 「ディプロマット」 というダブルハンドの剛竿と「アブマティック145」 という クローズドフェイスリールを東京、京橋の「つるや釣具店」で買い求めた。 今想い出してみると中荒沢の流れ込み、中之岐川の流れ込みなどで それまで想像も出来ない50cmオーバーの大イワナが、ガンガン、キラーを強襲した。 JLAA(日本疑似餌釣連盟)の初代会長、金子陽春氏にお会いしたのもその頃だった。 私の話しを聞くや否や、彼はすぐ銀山湖から山を降り、小出町の中屋釣具店に飛び込んだという。 ホコリをかぶっていたキラーを数個か数十個を全部買い占めたという話しを後で聞き、悔しい思いをしたものだった。 キラーはその後すぐ製造中止になり、手に入らなくなった。 キラーはプラスティック製のフローティングミノーだったため飛距離が出ず その後はABUのスプーン・トビーのグリーンを多用した。 45年頃、作家の開高健氏とお会いしたのも村杉小屋であった。 彼は初対面の人に、すぐその場で「あだ名」をつけるのが得意らしかった。 私にも「メイジン(名人か迷人か?)」、と その場でつけてくれた。 ある夜、ランプの灯の下で「メイジンの当たりバリは・・・・?」と尋ねられ、 私は「トビーのグリーン」と答えた。 翌日、彼は山を降りた。東京で2,3日過ごし、また山に戻ってきた。 しかし、トビーは無かったらしい。私は,手持ちの中から5,6個を開高さんに差し上げた。彼は名品だといって誉めてくれた。 一人である。 「キラー」は手に入らないので、数年前、銀山湖本流の流れ込みで立ち木に掛けたのを 苦労して回収したことがあった。 また何匹もイワナを掛けたので、キズがついてしまい、表面がザラついてしまった。 今は大切にタックルボックスにしまいこんだままになっている。 「トビー」はまだ新品を60個ほどストックしている。 昭和40年代後半になって、高田弘之氏、石井忠雄氏、常見忠氏にもお会いし、 釣りだけでく人間的にも気が合い、今でもお付き合いをさせて頂いている。 開高さんのご自宅をお訪ねした時も当時の「キラー」のこと、「トビー」のこと、 「ランカー」、「スーパー・デューパー」、の思い出話に夢中になってしまった。 30数年間、1シーズンも休まず、銀山湖通いをして来たが、私のタックルは昔と全く変らず アブマティック145、アンバサダー・レコード、ディプロマット、キャスター、と同じ物を使ってきた。 さすがに最近は年には勝てず、昔の仲間も開高さんをはじめ、 お亡くなりになった方々が多く、気合が入らない。 私の家のお仏壇で、開高さんの遺影を毎日見ているが、私は何時なんだろう? 幸い私を慕ってくれた、「リベット」の平本氏、「ハンクル」の泉氏が活躍して いてくれるようでなによりである。 「名人」:高橋 歳幸氏 と 奥只見銀山平 「村杉」主人:佐藤 進氏の 対談をもとに編集した 「名人の昔語り」です。
|






| 奥只見の魚を育てる会 | |
| 文筆活動でも釣りでも名を知られている開高健氏が、銀山平の「村杉小屋」に滞在したのは、1969年4月〜8月の事であった。 同氏が、このままでは日本列島の淡水魚は荒廃の一途をたどるだろうと説いたのが地元の人々を動かし、これらの人が発起人となって開高氏を会長にすえ、 現地湯之谷村役場(現:北魚沼市役所)に事務局を置く 「奥只見の魚を育てる会」が発足した。1974年の事であった。 現在会員数???名 を越え、湖と川を調査し、飼料魚種やイワナ・ヤマメの稚魚の放流、採捕尾数や体長制限を行うことを目標に活動している。 幸い、1976年には湯之谷村(当時)第2次山村振興事業の一貫としてイワナ孵化場を竣工させ、銀山集落15戸でイワナ、ヤマメ、ニジマスを親組合である 魚沼漁業協同組合(新潟県最大の単協)の協力も得て次々と渓魚の放流をした。 「育てる会」結成後の放流数は組合と県内水面水産試験場の両者により、 ニジマス6000匹、イワナ40000匹、ヤマメ72000匹、にのぼるという(1980年)。 その後内水面試験場がこれをさらに上回る数量を試験放流している。 さらに、魚沼漁協内の行使規則として北ノ岐川の上流部の一部に、ミヤノ淵を中心として禁漁区が1976年より3ヶ年の取り決めで、設定された。 そして現在、北ノ岐川の支流、蛇子沢より上流は永久禁漁区となっている。 そしてそれを機に魚沼漁協銀山支部員は川沿いの道路に車両進入禁止の鎖を張り、監視小屋を設け、常時、つまり夜間も密漁者防止の体制に入った。 このような増殖育成と漁場管理は、たちまち効をもたらし、 翌年から各淵に30cm以上のイワナが数10匹群れて泳ぐのが目撃されるようになり、目的が軌道に乗った。 開高氏はご逝去された今も「会長」という役を全うしている。 「奥只見の魚を育てる会」が現在も存続しているのは、 第一に、開高 健 氏の見識と人柄、第二に、地元の参加者:民宿のオヤジ達と役場の役人の地道でしたたかな計算であると言れて久しい。 その意味でも、地元の人たちの会への積極的参加が、会の維持と活動を底から支えていたと言えるだろう。 「奥只見の魚を育てる会」はとりあえずの活動としてスポーツ誌などを通してパブリシティに努めたり、 ワッペンを作ったり等もしたが本筋は別のところにあった。 「〜会」発足と同時に、いや発足以前から発起人達のあいだで最大の目標になっていたのは、 銀山湖周辺における禁漁河川の設定であった。 1975年7月28日、「育てる会」は新潟県魚沼漁協幹部を懇談会をもった。 魚沼漁協は新潟県側の奥只見のダムと諸渓流の漁業権を有しており、 「育てる会」に参加した地元の旅館主たちは、魚沼漁協の組合員でもある。 この懇談会で、「育てる会」は、いくつかの申し入れを行い、 漁協側の合意を得ることが出来た。なかでも重要なのは、 (1)北ノ岐川(白沢合流点より上流の本流、支流の全て)、 大鳥沢の全域を3年間を目途に禁漁とする。 (2)新潟県条例によって行われている11月1日から同月15日までの禁漁期間を、 銀山湖周辺に限って、10月10日から 翌年4月末日までと改訂する。 この2点であった。 魚沼漁協が「育てる会」の存在を無条件に受け入れたわけでは決してなかった。 そこには、当時の企業観光課長、村杉小屋、湖山荘、の努力が推測される、 しかしながら彼らは自分たちの努力を一言も語ろうとしない。 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 2006年現在、 |












































c
LLAA 金子陽春氏
村杉小屋女将
開口 健 氏
名人
北ノ岐は水量が
豊富であった
→
名人所有
木製和船
アブマティック
145
ディプロマット
木製の和船の上で
キャスティング
几帳面な名人
70歳を越えて
大鳥通い
大物と格闘中
名人のロッドワーク
北海道に招かれ
遠征
名人に誘われた
開口 健 氏
大鳥ダム にて
佐藤 進 氏
と
高橋 名人
カメラマン
秋月岩魚 氏も
高橋名人のファン
結婚式に招かれて
FF界の御大
沢田賢一郎氏
釣りキチ三平でお馴染み
矢口高雄 氏 と
左:JLAA 高田弘之 氏
右:矢口 高雄 氏
開口氏の茅ヶ崎のご自宅に
招かれた 高橋名人
名人の自宅仏間には
開口氏の遺影が飾られてる
開口氏の葬儀のご仏壇には
70歳直前の
名人は
55cm イワナを
村杉の次女
&
名人のイワナ
平本正博氏は
1990年に
RIVETの個展を
東京にて開催
名人の秘蔵「ランカー」
ティムコより発売前に
名人にサンプルが
送られてきた
銀山湖で活躍した
「スーパーデューパー」